チクタクと軋む街
油と煤の匂いが、肺の奥を重く刺激する。
浮遊都市アイゼンシュタットの東側路地裏。傾いた煉瓦造りのアトリエ『ウェルナー重力時計修理店』の内部は、常に無数の歯車が刻む金属音で満たされていた。
「チクタク、チクタク、チクタク……」
大小様々な時計が、それぞれ異なる周期で秒針を震わせている。だが、その音のすべてが、どこか不協和音を孕んで軋んでいた。この街を取り巻く重力が、日に日に薄れ、歪み始めている証拠だった。
「――よし、これでよし。エリィ、少しテストするぞ」
ハルト・ウェルナーは作業机に向かい、真鍮製のピンセットで極小の脱進機を組み込んだ。煤けた茶髪をかき上げ、額の防塵ゴーグルを直す。その右足は、膝から下が真鍮と精密なギヤで構成された『重力制御義足「バラスト・プロトタイプ」』に置き換わっていた。
「うん、お兄ちゃん。回してみるね」
作業台の脇で、十四歳になる妹のエリィが、細い手でぜんまいを巻いた。彼女の亜麻色の髪が、ランプの微光に揺れる。その可憐な姿とは裏腹に、彼女の右腕は肘から先が白い包帯で厳重に覆われていた。包帯の隙間から覗くのは、冷たい真鍮のような青い結晶組織――初期の『重力病』が、じわじわと彼女の肉体を蝕んでいるのだ。
オルゴールが静かに哀愁を帯びた旋律を奏で始める。だが、三小節目に入った瞬間、オルゴールのドラムが奇妙に浮き上がり、回転が異常に加速した。
「きゃっ……!」
「しまっ、重力の局所希薄化か!」
ハルトは瞬時に右足の義足を床に踏み込んだ。義足内部の真鍮ギヤが「ギュリリ」と高速回転し、微弱な重力波を放出する。ハルトを中心に、半径一メートル以内の引力が強制的に一倍(1G)へと固定され、宙に浮きかけたオルゴールがカタリと作業台に戻った。
「大丈夫か、エリィ」
「うん……ありがとう、お兄ちゃん。でも、最近この『浮き上がり』が多くない?」
エリィが結晶化しつつある右手をかばうように胸に抱いた。ハルトは胸を締め付けられるような痛みを覚えながら、言葉を濁した。
「ああ。帝国の徴税官どもが地底から重力石を過剰に吸い上げているせいだ。だが心配するな、俺が必ずお前の腕を治す薬を手に入れる。そのために……この時計屋があるんだからな」
その時、店の扉が不作法に蹴り開けられた。吹き込んできたのは、冷たい大気と、強烈な石炭の煙の匂い。
「ハルト! いるか!」
現れたのは、身長百九十センチを超える巨漢、炭鉱夫のリーダーであるロルフ・アイヒャーだった。普段は豪快な彼が、今は赤茶けた髭を恐怖で震わせ、息を切らせている。
「ロルフ? どうした、そんなに慌てて」
「第三採掘坑道だ! 最深部で突然、重力の暴走が起きやがった! 落盤が発生して、俺の部下――救助隊の連中が地下深くに取り残されちまったんだ!」
「何だと……!?」
ハルトの脳裏に、かつて同じ坑道で父親のヨハンが命を落とした、あの日の惨劇がよぎった。あの時も、突発的な重力暴走がすべてを奪ったのだ。
「管理局の役人どもは『ただの自然淘汰だ、バラストの命など救う価値はない』と抜かしやがって、救助エレベーターを止めちまいやがった! ハルト、お前の技術だけが頼りだ。あいつらを……助けてくれ!」
ロルフが泥まみれの太い手で、ハルトの革エプロンを掴んだ。ハルトは一瞬、妹のエリィを見た。エリィは静かに、だが力強く頷いた。
「行って、お兄ちゃん。私なら大丈夫だから」
「……わかった。エリィ、店を頼むぞ」
ハルトは壁に掛けてあった『真鍮の調律ハンマー「クロード・モデル」』を腰のベルトに差し込み、手首に『蒸気駆動式高圧ワイヤー・ガン』を装着した。真鍮の義足が「チク、チク」と、世界の歪みを警告する不気味な秒針音を奏で始める。ハルトの『重力共鳴(チクタク・センス)』が、地底からの巨大な破滅の脈動を捉えていた。
二人は猛然と走り出し、アイゼンシュタットの心臓部へと向かった。
◇
第三採掘坑道の入り口は、黒い煤煙と蒸気に包まれていた。地表と地底を繋ぐ巨大な昇降エレベーター。その操作盤の前に立ったハルトは、錆びついた真鍮のレバーを力任せに引いた。
「待て、ハルト! ケーブルの強度がもつか分からんぞ!」
「もたせるんじゃない、俺たちがもたせるんだ!」
ハルトとロルフを乗せた鉄籠のエレベーターが、轟音を立てて暗黒の縦穴へと急降下を開始した。周囲の岩壁が、蒸気ランタンの光に照らされて高速で通り過ぎていく。
――キィィィィン!
突然、鼓膜を突き破るような高周波の金属音が縦穴に響き渡った。ハルトの右足の義足が、狂ったように振動を始める。
「来るぞ! 重力異常だ!」
次の瞬間、エレベーターを支えていた極太の蒸気ケーブルが、不自然な「上方向への引力」によって引きちぎられた。パチン、と鋼鉄のワイヤーが弾ける音が暗闇に響く。支えを失った鉄籠は、一瞬にして猛烈な速度で自由落下を始めた。
「うおおおおっ!?」
ロルフの巨体が無重力状態となり、天井に向かって浮き上がる。このまま地底の底へ激突すれば、肉片一つ残らない。
「ロルフ、俺に掴まれ!」
ハルトは義足の過負荷制御バルブを開放した。体内の魔力(エーテル)を義足の重力石へと一気に流し込む。技能『質量相殺(ゼロ・グラビティ)』。
ハルト自身の質量が瞬時にゼロへと近づき、落下の加速度が中和された。ハルトは浮き上がったロルフの襟元を左手で掴み、右手で『蒸気駆動式高圧ワイヤー・ガン』のトリガーを引いた。
シュウウウッ!
高圧ガスと共に放たれた真鍮のアンカーワイヤーが、猛スピードで通り過ぎる岩壁の突出部に突き刺さった。凄まじい衝撃がハルトの左肩を襲う。
「ぐうううっ!」
ハルトは義足の質量を瞬時に元の重さへと引き戻し、ワイヤーの張力を利用して振り子の要領でスイングした。鉄籠の天井を蹴り破り、二人の身体は坑道中腹の退避用プラットホームへと転がり込んだ。背後で、完全に制御を失った鉄籠が、遥か奈落の底へと墜ちていき、数秒後に鈍い爆発音が響いた。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思ったぜ……」
ロルフが床に大の字になりながら息を吐き出す。ハルトは右足の義足の関節から立ち上る白い蒸気を見つめた。金属が異常に熱を帯び、切断面の皮膚にじりじりと焼けるような熱痛が走る。だが、休んでいる時間はなかった。
「ロルフ、立て。ここから先は徒歩で最深部へ向かうぞ」
二人は崩れかけの坑道を奥へと進んだ。進むにつれて、環境は異常さを増していく。天井から滴り落ちる水滴が、床に落ちずに上へと昇り、空中を丸い球体となって漂っている。局所的な無重力化と反転重力が入り乱れる、地獄の変異領域だ。
落盤現場に到着したハルトたちは、絶望的な光景を目にした。
数トンはある巨大な岩盤が、不規則な引力によって宙に浮遊し、まるで巨大な意思を持つ牙のように、激しく衝突し合っている。その奥の空洞に、救助隊の坑夫たちが閉じ込められているのだ。
「野郎ども! 今助けてやる!」
ロルフが叫び、自身の『重力補強型大型ツルハシ』を構えた。その強靭な腕力で、浮遊する岩盤を物理的に叩き割ろうと一歩踏み出した、その時。
「待て、ロルフ! 手を出しては――」
ハルトの警告は遅かった。ロルフがツルハシを振り下ろした瞬間、その周囲の引力定数が突如として「反転」した。ツルハシの質量がマイナスへと転じ、ロルフの巨体ごと天井に向かって凄まじい速度で吹き飛ばされたのだ。
「うわああああっ!?」
ロルフは天井の突起に激突し、ツルハシを手放して宙吊りになった。天井が「床」となり、彼は落ちる恐怖と戦いながら叫ぶ。
「なんだこれぁ! 身体が上に引っ張られやがる!」
「不規則な重力波の干渉だ。力任せに動けば、質量バランスが崩れて岩盤が完全に崩落する!」
ハルトは額のゴーグルのダイヤルを回し、固有技能『質量視覚(マス・ヴィジョン)』を発動した。彼の視界がモノクロームへと切り替わり、空間を満たす重力の流れが青と赤の「ベクトル線」として視覚化される。
宙に浮く岩盤同士が引き合う引力の『ツボ』――エネルギーの結節点が、光の渦となってハルトの目に映し出された。
「あそこか……!」
ハルトは義足の質量をゼロにし、羽毛のような軽さで跳躍した。浮遊する大岩の側面を蹴り、空中を三次元的に移動する。その時、頭上の水溜まりから逆流した大量の廃水が、滝のようにハルトの視界を遮った。泥水が目に入り、一瞬にして視覚が奪われる。
「しまっ――」
視界を失ったハルトに向かって、別の巨大な岩盤が不規則な引力に引かれて迫り来る。物理的な衝突の風圧が皮膚を刺す。
ハルトは目を閉じた。視覚に頼るのをやめ、耳を澄ます。彼の『重力共鳴(チクタク・センス)』が、暗闇の中で空間の歪みを「チクタク、チクタク」という精密な時計の秒針の音として捉えた。迫り来る岩盤の風切り音の中に混ざる、金属的なきしみ――そこが、重力の重心だ。
「――捉えた!」
ハルトは空中で身体を捻り、腰から『真鍮の調律ハンマー「クロード・モデル」』を抜き放った。魔力をハンマーの真鍮ヘッドへと集中させる。ハンマーに内蔵された重力石が、ハルトの心臓の鼓動と同調して青く発光した。
ハルトは盲目のまま、迫り来る岩盤の「重心のツボ」へ向けて、ハンマーを正確に振り下ろした。
キィィィィン!
真鍮の打撃音が坑道に響き渡った瞬間、同心円状の青い魔力波が岩盤全体へと広がった。ハルトが放った逆位相の共鳴波が、岩盤を縛っていた不規則な引力を瞬時に相殺し、その質量バランスを「ニュートラル」へとリセットしたのだ。
浮遊していた大岩が、物理法則に従って静かに床へと着地し、ロルフを天井へ引き上げていた引力も消失した。ロルフは「どさっ」と床に落下し、痛みに悶えながらも親指を立てた。
「助かったぜ、ハルト……!」
ハルトは着地したが、右足の義足から「シュー、シュー」と激しい高圧蒸気が噴き出していた。限界を超えた過駆動の代償として、義足の接続部からハルトの肉体へ強烈な熱放射が伝わり、切断面の皮膚が真っ赤に焼けただれていた。ハルトは激痛に歯を食いしばり、義足を叩いて無理やりシステムを再起動させた。
「ハルト、大丈夫か?」
「……気にするな。それより、奥の連中を助け出すぞ」
ハルトはハンマーで崩落した瓦礫の隙間を叩き、砂利同士の引力を高めて一時的な「壁」として固めた(地盤調律)。崩落の進行を一時的に食い止め、ロルフの部下たちが閉じ込められている避難空間へのルートが、ついに目の前に開かれた。
だが、その瓦礫の隙間から這い出してきたのは、救助を求める坑夫たちの歓声ではなかった。
静まり返った暗黒の奥から聞こえてきたのは、耳が痛くなるほどの、不気味な「完全な静寂」――空気が急激に吸い込まれていく、かすかなヒッシング音だった。
ハルトは『質量視覚』で奥を見据え、その顔を驚愕に歪めた。
「……嘘だろ。奥の空洞が、完全に密閉された『静寂の真空ポケット』になっている……!」
地盤の歪みによって、空気と重力が完全に消失した絶対の死の空間。その内部で、炭鉱救助隊第一班の坑夫たちが、喉を掻きむしりながら窒息寸前で苦しんでいる姿が、ハルトの『質量視覚』に青白く浮かび上がった。
「空気が、抜けていやがる……! ハルト、どうすればいい!?」
ロルフが絶望に顔を歪める。ハルトは自身の義足のエネルギー残量を睨み、冷徹に計算を弾き出した。
「真空ポケットの限界まで、あと十分……。十分以内にあの空気の障壁を物理的に破らなければ、全員が窒息死する」
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