届かぬ妹の祈り、宿敵の焦燥
凍てつく氷魄の谷から、這うようにして蒼天山脈の麓に佇む廃寺へと戻った時、夜はすでに深奥へと沈んでいた。寂れた本堂の片隅、微かに赤々と熾る地炉の熱だけが、御子神蓮の凍りついた身体を辛うじてこの世に繋ぎ止めていた。
「――ほら、さっさと飲みなさい。冷めると余計に毒々しい味がするわよ」
小夜がぶっきらぼうに差し出してきた土碗には、採取したばかりの氷魄草を煎じた、藍色に濁った薬液が満ちていた。強烈な冷気が碗の縁から白い霧となって立ち上っている。
蓮は動かない右腕をかばいながら、震える左手で碗を受け取り、一気にそれを煽った。喉を、そして胃壁を直接氷で削られるような凄絶な悪寒が体内を駆け巡る。だが、その直後、左半身で暴虐にのたうっていた「獄門の邪脈」が、嘘のように静まり返っていった。肌に浮き上がっていた漆黒の経絡が、深い影の中に沈み込むようにして消えていく。
「……すまない、小夜」
蓮の視線は、小夜の手に向けられていた。蓮の暴走した魔気を抑え込んだ際に負った凍傷を隠すように、彼女の両手には何重にも包帯が巻かれている。その白い布の隙間から滲む痛々しい赤色が、蓮の胸を無慈悲に抉った。己の存在そのものが、この少女に終わりのない傷を与えている。その罪悪感に喉を詰まらせる蓮に、小夜はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「無駄な感傷に浸る暇があるなら、その右腕を少しでも動かせるようにしなさい。私はただ、父様の最高傑作の実験体が、本山の手先に壊されるのが気に食わないだけよ」
その毒舌の裏にある不器用な献身を、蓮は静かに受け止めた。まだ右腕の筋肉は断裂したままであり、指先すら満足に動かせない。内力を失い、ただ骨格の連動と暴走寸前の魔気だけで生き延びているこの身体の限界を、蓮は誰よりも理解していた。
――コト、と。
廃寺の裏口の、腐りかけた木扉が微かに震えた。風の音ではない。規則的な、しかし極限まで怯えを孕んだ、爪で木肌を引っ掻くような音だった。
蓮の瞳が瞬時に冷徹な剣鬼のそれへと変貌する。彼は音もなく立ち上がり、左手で腰の「折れた蒼天剣」の柄を握った。一馬から伝授された身体操作「無声歩法」により、埃の積もった床板を踏みしめても、塵一つの音すら立たない。体幹のひねりだけで重心を移動させ、扉の影へと滑り込む。
「……あ、兄貴……そこにいるんだろ……?」
漏れ聞こえてきたのは、掠れた、今にも途切れそうな少年の声だった。
「太一か?」
蓮が素早く扉を開けると、そこから転がり込むようにして、一人の小柄な影が土間に倒れ込んだ。蒼天剣宗の外門雑用係が纏う、灰色の擦り切れた衣服。蓮を実の兄のように慕い続けていた少年、太一だった。その姿を見た小夜が、短い悲鳴を上げて駆け寄る。
「太一! あんた、その体……!」
月光に照らされた太一の顔面は、見る影もなく腫れ上がっていた。片目は鬱血して塞がり、衣服の破れ目からは、容赦なく鞭で打たれたであろう赤黒い裂傷が無数に覗いている。太一は激しい痛みに歯を食いしばりながら、蓮の引き裂かれた道着を、泥だらけの手で必死に掴んだ。
「兄貴……生きて、生きててくれたんだな……! よかった、本当に……!」
「太一、誰にやられた。本山の執法隊か?」
蓮の左半身の邪脈が、怒りに呼応して微かに疼き、周囲の空気をピキピキと凍らせ始める。太一は首を振り、小夜が傷口に「活血散」を塗る激痛に耐えながら、血の混じった唾を吐き出した。
「こんなの、いつものことだ……。少宗主・玲央の私兵どもが、兄貴の無実を信じる外門の連中を片っ端から拷問してるんだ。俺が兄貴の部屋の砥石を隠し持ってたのが見つかって、裏切り者の身内だって言われて……。でも、そんなことはどうでもいいんだ! 兄貴、大変なんだ……静香様が……静香様が!」
太一の塞がった瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、泥にまみれた頬に白い筋を作った。
「静香がどうした。本山で大人しく軟禁されているのではなかったのか?」
蓮の問いに、太一は激しく首を横に振った。その小さな身体が、恐怖と絶望でガタガタと震えている。
「違うんだ……! 静香様は、本山の最深部にある地下牢獄『鉄鎖窟(てっさくつ)』に幽閉されたんだ! それだけじゃない……玲央の奴、毎日、静香様の血を抜いてるんだ!」
「何だと……!?」
蓮の脳裏で、何かが激しく弾け飛んだ。鉄鎖窟――かつて宗門の大罪人を幽閉し、その精神を崩壊させるために作られた、冷たく湿った鉄鎖の地獄。そこに、何の罪もない静香が囚われている。
「よう、相変わらず厄介な風が吹いてるな、黒蓮」
影のように、地下室の暗がりからもう一つの人影が滑り込んできた。風間の半兵衛だ。彼は派手な柄の着物を揺らし、特製の煙管から紫煙を燻らせながら、冷徹な目で蓮を見つめた。
「半兵衛、お前、この事実を知っていたのか?」
「ああ、今さっき俺の『梟』が掴んできた情報と、太一坊主の話が完全に一致した。……事態は最悪だぜ、蓮。武田玲央の奴、完全に焦ってやがる」
半兵衛は煙管を地炉の縁で叩き、灰を落としながら、その薄笑いの奥にある冷酷な現実を語り始めた。
「お前が真壁陣内を撃退したあの噂、そして内力を持たない『黒い死神』の正体が、死んだはずの御子神蓮ではないかという疑念が、本山の上層部を駆け巡っている。特に玲央の焦りようは尋常じゃない。なぜなら、奴の右腕はすでに半分腐りかけているからだ」
「腐りかけている……?」
「そうだ。お前が陥れられたあの日、玲央はお前の丹田を突き刺し、そこに宿っていた御子神一族の『混沌の血脈(混沌の種)』を、雷蔵の禁忌の医術で自身の体内に強引に移植した。……だが、泥棒が他人の服を着ても、サイズが合うわけがない。奴の誇る正道の内力『蒼天正気』と、お前の血脈が体内で激しい拒絶反応を起こし、右腕の経絡が内部から崩壊し始めているのさ」
半兵衛の言葉を継ぐように、太一が掠れた声を絞り出した。
「玲央は……自分の右腕の崩壊を止めるために、同じ御子神の血を引く静香様の血を薬の触媒として使ってるんだ。静香様の血を毎日数合も抜き取り、それを特殊な生薬と混ぜて服用することで、辛うじて右腕の腐食を抑え込んでいる……。静香様は、もう、顔が真っ白になって、立っていることすらできないのに……!」
太一の言葉が、蓮の耳の奥で激しい地鳴りのような雑音へと変わった。
視界が真っ赤に染まる。蓮の左腕の包帯が、体内から噴き出す漆黒の魔気によって一瞬にして引き裂かれ、のたうつ黒い経絡が狂暴に脈打ち始めた。心臓の「三途の銀針」が、魔気の暴走に耐えかねて悲鳴を上げるように疼く。床板が、蓮の足元からピキピキと音を立てて真っ黒に凍りついていった。
「武田……玲央……!!」
蓮の口から漏れたのは、人間のものではない、地獄の底から響くような獣の咆哮だった。彼は折れた蒼天剣を左手で握り締め、本堂の出口へと一歩を踏み出した。その全身から立ち上る黒い霧は、地炉の火を一瞬で掻き消すほどの冷気を孕んでいた。
「どけ、半兵衛。今すぐ本山へ乗り込み、あの男の肉を骨ごと削ぎ落としてやる」
「待て、蓮! 行くな!」
半兵衛が、その軽薄な態度を完全に捨て去り、蓮の胸ぐらを両手で力任せに掴んで引き止めた。蓮の放つ冷気が半兵衛の衣服を白く凍らせ、彼の皮膚に激しい凍傷の痛みを走らせる。それでも、半兵衛は手を離さなかった。
「今行けば、お前だけでなく静香もその場で殺される! 本山の警備は、お前がいた頃の十倍以上に膨れ上がっているんだ。右腕が完全に麻痺し、特製の鞘もないお前が、どうやってあの鉄鎖窟の包囲網を突破する!? 玲央はお前をおびき出すために、あえて静香を人質にしているんだぞ!」
「放せ……! 静香の血が、毎日抜かれているのだぞ! これ以上、俺のせいで妹が傷つくのを黙って見ていろと言うのか!」
蓮の左腕から放たれた魔気の波動が、半兵衛の巨体を本堂の壁へと激しく叩きつけた。半兵衛は血を吐きながらも、鋭い眼光で蓮を睨み据えた。
「落ち着け、蓮! 慧海和尚の言葉を忘れたのか! 『殺戮に溺れるな、弱者を守る盾であれ』と! 怒りで我を忘れたお前は、ただの魔物の成れの果てだ! そんな刃で、静香を救い出せると本気で思っているのか!」
慧海の名を聞いた瞬間、蓮の身体が、氷水を浴びせられたようにピタリと硬直した。脳裏に、かつて自身を温かく包み込んでくれた老僧の穏やかな笑顔が浮かび、暴走しかけていた魔気が、体内の「清心呪」の呼吸によって辛うじて鎮まっていく。蓮は激しく息を吐き出し、その場に膝をついた。
「……だが、俺は、どうすればいい……」
握り締めた左手の拳から、爪が皮膚に食い込み、赤い血が床に滴り落ちる。静香を今すぐ救えないという無力感と、自身の不完全な肉体に対する凄絶な焦燥感が、蓮の魂を内側から引き裂いていた。
「玲央の右腕の震えは、奴の致命的な弱点だ」
半兵衛が壁に寄りかかりながら、荒い息を整えて言った。
「奴の崩壊が先か、お前が万全の力を得るのが先か……。これは時間との戦いだ。蓮、まずは鉄心と接触し、お前の骨格連動抜刀術に耐えうる頑丈な鞘を手に入れろ。それから本山の警備の死角を突く。焦るな、必ず隙は生まれる」
蓮は無言で床を見つめていた。その時、治療を終えて横たわっていた太一が、震える声を絞り出した。
「兄貴……玲央の奴、本山の道場で、外門の奴らの前で自慢げに話してたんだ……。これがあれば、御子神の血をいつでも感じられるって……」
「……何を持っていた」
蓮が問う。太一は涙を堪えながら、その忌まわしい光景を告げた。
「かつて、兄貴が静香様に贈った、あの木彫りの『蓮華の髪飾り』だ……。それを、静香様の血で真っ赤に汚した状態で、自分の胸元に勲章みたいに飾り付けて、毎日笑ってるんだ……」
ドクン、と。
蓮の心臓が、かつてない激しさで跳ね上がった。
左半身の邪脈が、まるで自らの意志を持ったかのように暴虐に脈打ち、皮膚の下で黒い蛇のようにのたうち回り始める。懐に隠された「御子神の印章」が、その怒りに呼応して青白く激しく発光し、本堂全体に骨を凍らせる黒い霧が爆発的に吹き荒れた。
届かぬ妹の祈りと、血に汚された約束の証。宿敵の醜悪な焦燥が、蓮の体内の魔道を、かつてない深淵へと引きずり込もうとしていた。蓮の瞳は、完全な漆黒の闇へと染まりつつあった。
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