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氷壁の奪還、暴走する黒い霧

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凍てつく暴風が、天を突く氷壁の頂上を引き裂くように吹き荒れていた。雲海を貫く「氷魄の谷」の頂は、極寒の地獄そのものだった。

 御子神蓮は、凍てついた岩場に横たわっていた。指先の感覚はとうに失われ、真壁陣内との死闘で断裂した右腕の筋肉は、この極限の寒さによって完全に硬直している。内力を練る丹田を持たぬ生身の身体は、すでに体温を維持することすら限界を迎えていた。

「……そこまでだ、泥水に這いつくばる大逆人め」

 吹雪の奥から現れたのは、白い道着の上に防寒の獣皮を羽織った、蒼天剣宗の外門長老・梶原景時が放った薬草守りの兵たちだった。彼らの手には、冷たく輝く抜身の長剣が握られており、その鋭い刃先が、動けぬ蓮の喉元へと突きつけられる。

「景時長老の命だ。この氷魄の谷に咲く『氷魄草』は、すべて宗門の管理下にある。侵入者は例外なくその場で切り捨てる。おい、そこの小娘もだ」

 守備兵の隊長が、蓮の傍らに立っていた小夜を冷酷な眼差しで睨みつけた。

「待ちなさい! この男は……この実験体は、私が治療しなければ死ぬのよ!」

 小夜が蓮の前に立ちはだかった。彼女の両手は、前夜に蓮の暴走した魔気を身を挺して抑え込んだ代償として、深刻な凍傷に侵されていた。薄汚れた包帯の隙間から、皮の剥がれた生々しい指先が覗き、凍てつく風に晒されて赤黒い血が滲んでいる。その痛々しい両手を見た瞬間、蓮の胸の奥で、引き裂かれるような罪悪感と怒りが沸点に達した。

(俺のために……小夜の指が、あんなにボロボロになりながら……)

 これ以上、己の因果で誰かを傷つけさせはしない。静香を、義父を、そしてこの目の前の少女を、二度と奪わせはしない。

「ふん、言い訳はあの世で聞く」

 隊長が冷酷に鼻で笑い、小夜の華奢な首筋に冷たい長剣の刃を突きつけた。じわりと、彼女の白い肌に一筋の紅い血が滲む。小夜の身体が、恐怖で微かに震えた。

「小夜に……触るな」

 蓮の奥歯が軋んだ。その瞬間、彼の心臓の経絡の根元に深く打ち込まれていた「三途の銀針」が、蓮の激しい感情の昂ぶりに呼応して激しく振動した。脳裏に、かつて一族を滅ぼした「影ノ衆」の冷酷な笑い声と、養父・不破刃三郎が処刑された血の光景がフラッシュバックする。

「殺せ」

 蓮の脳裏に、移植された邪脈の元の持ち主――魔頭・獄門の禍々しい声が響いた。蓮は自らの意志で、心臓の銀針の封印を一時的に緩めた。堰を切ったように、左半身の「獄門の邪脈」から、暴虐極まりない漆黒の魔気が噴き出す。

 ――ガガガガッ!

 蓮の左半身の経絡が漆黒に浮き上がり、皮膚を引き裂くように蠢いた。彼の左目は瞬時に血のような深紅へと染まり、全身から骨をも凍らせる冷気が爆発的に放射される。これが、邪脈の防衛本能が引き起こす「邪脈の拒絶暴走」だった。

「な、なんだこの冷気は!? 奴は内力がないはずでは――」

 隊長が驚愕の声を上げた時には、すでに遅かった。蓮を中心に円状に広がった極寒の波動が、周囲の水分を瞬時に凍りつかせ、這いずるような氷の蛇となって守備兵たちの足元を襲った。ピキピキと不気味な音を立てて地を這う氷は、瞬く間に守備兵たちの両足を膝まで物理的に凍りつかせ、岩場に完全に縫い付けた。

「足が動かん! 氷が剥がれんぞ!」

「うろたえるな! 弓兵、火矢を放て! 奴をその場で射殺せ!」

 後方に控えていた弓兵たちが、矢尻に油を塗った火矢に点火し、蓮を目がけて一斉に放った。夜空を切り裂く紅い火線が、極寒の嵐を切り裂いて迫る。

 蓮は動かぬ右腕を庇いながら、漆黒の魔気がのたうつ左腕を前に突き出した。手のひらから溢れ出た濃密な魔気の霧が、蓮の前面に禍々しい盾――「魔気障壁」を形成する。迫り来る火矢の群れは、その障壁に接触した瞬間、強烈な冷気によって火が掻き消され、そのままカランカランと氷結した鉄塊となって足元に落下し、砕け散った。

「化け物め……! 正道の剣士が、魔教の力を使いおった!」

 隊長が恐怖に顔を歪めて叫ぶ。しかし、蓮の肉体もまた、この暴走の代償を支払わされていた。左半身の経絡が焼き切れるような灼熱の激痛が走り、肺の粘膜が凍結していく感覚に、蓮は激しく吐血した。口から零れ落ちた血は、地面に達する前に黒い氷片となって転がった。

(理性が……呑まれる前に、小夜を……!)

 蓮は最後の力を振り絞り、肺の中に蓄積された極寒の魔気を、一気に口から前方に吹き出した。「氷結の吐息」が、谷全体を白い濃霧で覆い尽くし、守備兵たちの視界と連携を完全に破壊する。

「小夜! 今だ……氷魄草を、採取しろ!」

 霧の向こうで、蓮の掠れた声が響いた。小夜は一瞬、その禍々しい魔気の嵐に恐怖を抱いたが、ボロボロの指先で「氷魄の小瓶」を握り締め、雪に埋もれた岩陰へと走り寄った。青白い光を放つ氷魄草を、血の滲む手で根元から引き抜き、小瓶の中へと回収する。採取は成功した。

 しかし、吹き荒れる霧が徐々に晴れていく中で、小夜が見たのは、あまりにも変わり果てた蓮の姿だった。

 蓮の左半身は完全に黒く変色し、のたうつ黒い経絡が顔の左半分まで達している。血のように赤い瞳が闇の中で不気味に光り、その全身からは、禍々しい漆黒の魔気が立ち上っていた。かつての高潔な蒼天剣宗の天才弟子の面影はどこにもない。そこにあるのは、人々の命を奪う「本物の怪物」の佇まいだった。

「蓮……君、それは……」

 小夜の瞳に、明らかな恐怖の色が浮かんだ。そして、それに続くように、言葉にならない深い哀しみの色が彼女の目を濡らした。

 その瞳を見た瞬間、蓮の胸に、凍結の激痛すら上回る凄絶な痛みが走った。己が魔の力に染まり、かつて守ろうとした人々から恐れられる存在へと変貌してしまった現実。その自己嫌悪が、蓮の心を深く、無慈悲に傷つけた。蓮は力なく膝をつき、そのまま漆黒の雪原へと倒れ込んでいった。

HẾT CHƯƠNG

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