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氷魄の谷、極寒の死線

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骨が凍る。それは比喩ではなく、御子神蓮の肉体に起きている絶対的な現実だった。地下排水路の澱んだ湿気から逃れ、蒼天山脈の北へと向かう馬車の荷台で、蓮は自身の左腕を見つめていた。皮膚の下をのたうつ黒い経絡――魔頭・獄門から移植された「邪脈」が、まるで生き物のように脈動するたびに、体温が急速に奪われていく。心臓の奥に埋め込まれた「三途の銀針」が、冷たい楔のように疼いていた。


「無茶な抜刀をするからよ。あの真壁陣内を退けた代償がこれなんて、本当に救いようのない馬鹿ね」


 蓮の傍らに座る少女、小夜が、凍える手で彼の左手首を掴んだ。彼女の両手の指先には、前夜の治療で蓮の放った極寒の魔気を浴びたことによる、生々しい凍傷の痕が残っている。粗末な麻布の包帯から覗く皮の剥がれた指先が、微かに震えていた。蓮はその指先を見るたびに、胸の奥を抉られるような強い罪悪感に苛まれる。


「すまない、小夜……」


「謝る暇があるなら、息を整えなさい。君の体内の魔気は、今夜の陰気が満ちる時間帯に完全な暴走を起こすわ。このままだと、心臓まで凍りついて本当の屍になる」


 小夜の冷徹な言葉の裏には、隠しきれない焦燥があった。彼女は懐から、寒鉄鉱を削り出して作った「氷魄の小瓶」を取り出し、その空っぽの内側を見つめた。邪脈の灼熱の暴走を強制的に冷却し、肉体の崩壊を一時的に防ぐことができる伝説の薬草「氷魄草」。その備蓄は、すでに底を突いていた。


「もう、選択肢はないわ。蒼天山脈の最高峰北側――『氷魄の谷』へ行く」


 小夜が決断を下した瞬間、馬車を御していた男が振り返った。山岳の猟師、佐助である。獣皮を纏い、背中に頑丈な弓を背負ったその鋭い眼光が、吹雪に煙る前方の山嶺を見据えていた。


「正気かい、お嬢ちゃん。今夜の山頂は、数年に一度の大嵐だ。あそこは永久凍土の絶壁『氷魄草の氷壁』に囲まれた極限の死地。内力を持たないこの若者が登れば、頂に達する前に凍死するか、滑落して骨も残らねえぞ」


「行かなければ、この男はどのみち今夜死ぬのよ!」


 小夜の悲痛な叫びが、荷台を揺らす風の音に掻き消される。蓮は黙って、錆びつき、半ばから折れた「折れた蒼天剣」を左手で抱きしめた。丹田を破壊され、正道の「蒼天正気」を完全に失った今の自分には、寒さを防ぐための内力すら練ることができない。だが、静香を救い出し、武田一族の偽善を暴くまでは、ここで朽ち果てるわけにはいかなかった。


 馬車がこれ以上の進行を拒む山麓に達したとき、凄絶な吹雪が彼らを迎えた。目の前にそびえ立つのは、天を突くような氷の壁――「氷魄草の氷壁」だった。垂直に切り立った永久凍土の崖は、青白い氷に覆われ、吹き荒れる大嵐によって視界は数歩先すら見えない。


「ここからは徒歩だ。俺の足跡から外れるなよ」


 佐助が腰からロープを取り出し、蓮と小夜の体を強引に繋ぎ合わせた。蓮は動かない右腕を衣服の帯で固定し、左手だけで鉄の登山爪(ピッケル)を握り締めた。邪脈の拒絶反応により、すでに左半身の感覚は消失しかけている。一歩を踏み出すたびに、骨の節々が悲鳴を上げた。


「登るぞ。筋肉で登ろうとするな。骨の噛み合わせを意識し、風に抗うな!」


 佐助の鋭い声が吹雪の向こうから響く。蓮は、かつて慧海に教えられた身体操作「骨脈通気」の感覚を必死に呼び覚ました。筋肉を強張らせれば、寒さで繊維が断裂する。ただ息を吐き、骨格のバネだけで自身の体重を支えるのだ。


 カツン、と蓮が左手の登山爪を氷壁に突き立てた。だが、その瞬間、右腕の筋肉に凄絶な激痛が走った。前話の戦闘で真壁陣内を撃退した際、内力なしの抜刀術「瞬刻・抜刀斬り」を放った反動――広範囲にわたる筋肉の断裂傷が、極限の寒さによって激しく疼き出したのだ。


「ぐっ……あぁぁッ!」


 激痛に耐えかね、蓮の左手の握力が一瞬だけ緩んだ。突き立てた爪が氷を滑り、蓮の身体が垂直の崖から投げ出される。


「蓮!」


 小夜の悲鳴が響く。蓮は数十メートルも滑落し、せり出した岩肌に自身の左半身を激しく叩きつけた。邪脈が宿る左半身に強い物理的衝撃が加わったことで、体内の魔気が防衛本能として暴走を始める。心臓の銀針が激しく疼き、左半身の皮膚に黒い経絡がのたうつように浮き上がった。血を吐きながら、蓮は氷壁に宙吊りになった。


「風の流れに逆らうな、乗るんだ!」


 上空から佐助の怒号が響く。佐助は、氷壁に吹き下ろす強烈な突風が、岩肌の起伏にぶつかって激しい「上昇気流」へと変化するポイントを見極めていた。


(風を……読む……?)


 蓮は血走った右目を開き、吹き荒れる吹雪の「音」と「圧力」に意識を集中させた。内力がない今の自分には、風を押し返す力はない。ならば、風の一部になるしかない。蓮は自身の重心を極限まで低くし、骨盤の連動を意識して風の抵抗を受け流した。全身の骨格を風の通り道と同調させる――これこそが、大自然の気流を身体操作に上乗せする「自然気流同調法」の萌芽だった。


 突如、崖底から吹き上げた凄絶な突風が、蓮の身体を押し上げるように包み込んだ。重力が消えたかのように、蓮の身体が軽くなる。蓮はその一瞬の浮力を逃さず、左手の爪を次の氷の裂け目へと突き立てた。


 一歩、また一歩。指先の感覚はとうに消失し、爪の隙間から滲み出た血が、氷壁の上で赤く凍りついていく。それでも蓮は登り続けた。小夜の不器用な涙が、吹雪の中で白く凍り、彼の背中に落ちるのを感じながら。


 そして、ついに彼らは絶壁の頂上へと辿り着いた。這い上がるようにして平坦な岩場に立った蓮は、極限の寒さと疲労により、指一本動かせない完全な麻痺状態に陥っていた。小夜が安堵の息を漏らし、前方の雪に埋もれた岩陰を指差す。そこには、青白い光を放ちながら、嵐の中で静かに咲く一輪の薬草「氷魄草」があった。


「あった……急いで回収を……」


 小夜が「氷魄の小瓶」を手に駆け寄ろうとした、その瞬間だった。


 ザッ、と雪を踏みしめる重々しい足音が、吹雪の奥から響いてきた。現れたのは、白い道着の上に防寒の毛皮を羽織った、蒼天剣宗の弟子たちだった。彼らの手には、鋭い抜身の長剣が握られていた。


「――ここまでだ、ネズミども。梶原景時長老の命により、この氷魄草の谷は完全に封鎖されている。侵入者は理由を問わず、その場で切り捨てろ」


 長老・梶原景時が配置した、冷酷な薬草守りの兵たちが、武器を構えて蓮と小夜を完全に包囲した。動けない蓮の前に、冷たい剣先が突きつけられる。

HẾT CHƯƠNG

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