瞬刻の抜刀、朱に染まる闇市
饐えた泥の臭いと、安物の灯油が燃える煙。宿場町「霧ヶ原」の地下に広がる泥市は、地上の清らかな支配から見捨てられた者たちの、湿った吹き溜まりだった。頭上を走る石造りの排水路からは絶えず汚水が滴り、剥き出しの梁に吊るされた赤提灯が、行き交う無法者たちの影を怪しく揺らしている。
風間庵の地下室を後にした御子神蓮は、顔の左半分を覆う黒鉄の仮面――「黒蓮の鉄仮面」の裏側から伝わる鈍い激痛に耐えていた。頬の経絡を容赦なく貫く固定針が、移植された魔頭・獄門の「邪脈」の蠢きを強引に押さえつけている。しかし、その代償としての頭痛は、蓮の脳髄を内側から錆びた釘で抉るように苛み続けていた。
だらりと垂れ下がった右腕は、前夜の肉離れによって未だ感覚が鈍い。蓮は左手で腰の「折れた蒼天剣」の柄を握り締め、鉄仮面の奥の右目を鋭く光らせた。半兵衛から告げられた最愛の妹弟子・静香の残酷な境遇――本山の地下牢獄「鉄鎖窟」に幽閉され、宿敵・武田玲央の肉体を維持するための生贄として血を抜かれているという事実が、彼の胸の奥で黒く濁った怒りの炎を燃え立たせていた。
「玲央……お前だけは、この手で地獄へ引きずり下ろす」
仮面の下で血を吐くように呟いたその瞬間、泥市の喧騒が、ガラスが割れるような鋭い悲鳴によって一瞬で掻き消された。
ドゴォンっ!!!
泥市の入り口、頑丈な木製の防壁が凄絶な衝撃波によって粉砕され、木片が雨のように降り注いだ。白煙を切り裂いて突入してきたのは、白い道着の上に重厚な鉄甲を纏った集団――蒼天剣宗の治安維持組織「執法隊」の精鋭たちだった。その先頭に立つ男の姿を見て、蓮の右目が憎悪に細められた。
「そこまでだ、泥市のドブ鼠ども! 武田雷蔵長老の命により、大逆人・御子神蓮の生存情報を追ってきた! 抵抗する者は同罪とみなし、その場で処刑する!」
咆哮したのは、剣宗第二弟子・真壁陣内(まかべ じんない)だった。筋骨隆々とした二メートル近い巨躯に、鋭い三白眼。かつて蓮が第一弟子だった頃、常にその影に隠れて嫉妬の炎を燃やしていた男だ。蓮の失脚によって棚ぼた式に序列を上げた陣内は、今や雷蔵の手先として、狂暴な支配欲を全身から滾らせていた。
陣内の手に握られた「剛鉄の長剣」から、青く澄んだ「剛陽剣気」が立ち上る。彼が軽く剣を振るうだけで、周囲の露店が紙細工のように両断され、中身の品物が四散した。逃げ惑う無法者たちを踏みつけながら、陣内の鋭い眼光が、泥市の薄暗い路地に佇む「鉄仮面の男」――蓮の姿を捉えた。
「おい、お前……その背格好、そして腰に下げたへし折れた剣。……ふはは、やはり生きていたか、御子神蓮! 仮面などでその薄汚い素顔を隠せると思ったか!」
陣内は狂喜の笑声を上げ、大股に踏み出してきた。彼の身体から放たれる後天境界・第九重の圧倒的な気圧が、狭い排水路の空気をビリビリと震わせる。丹田を失い、内力を一滴も練り上げられない現在の蓮にとって、その気圧は肉体を直接圧迫する重い鉄板のようだった。
「裏切り者の分際で、泥水の中で生き延びていたとはな! その首を玲央様に捧げれば、俺の長老への昇格は確実だ! 死ねぃ!」
陣内が長剣を上段に構え、一気に地を蹴った。彼の放つ「蒼天剛力剣」の流水の如き青い剣気が、泥市の天井を削りながら、蓮に向かって殺到する。逃げ道はない。内力による防御壁を張れない蓮がこの剣気を正面から浴びれば、一瞬で肉体を両断されるのは明白だった。
しかし、蓮の鉄仮面の奥の瞳は、驚くほど冷静だった。彼は一馬から授かった身体操作――「骨脈通気」の感覚を呼び覚ました。右腕の麻痺を補うため、自身の意識を骨盤と体幹の連動へと集中させる。
――フッ。
蓮はあえて抜刀せず、左手で鞘を持ったまま、かつて自身が最も得意とした剣宗の華麗な剣技「蒼天十字斬」の足取りを踏んだ。内力がないため、その動きは完全な「残影」に過ぎない。しかし、幼少期から数万回と繰り返してきた完璧な型は、薄暗い泥市の中に、青白い十字の剣光の残像を幻影のように浮かび上がらせた。
「なにっ!? 蒼天十字斬だと!?」
陣内は本能的に、その幻影の剣気に警戒し、踏み込みを一瞬だけ躊躇わせた。かつて蓮の圧倒的な才能に恐怖していた頃の肉体記憶が、彼の直感を狂わせたのだ。陣内は上空へ向けて剣気を放ち、幻影を強引に掻き消した。
「小癪な真似を! 内力もない死に損ないが、型だけで俺を騙せると思うな!」
騙されたことへの激しい羞恥心から、陣内は防御を完全に捨て、正面から大振りの一撃を叩き込もうと長剣を振り下ろした。その瞬間、彼の流水の剣気の余波が、蓮の左肩の包帯をかすめた。
――ドクンっ!!!
外部からの鋭い正道の気が引き金となり、蓮の左半身の「邪脈」が激しい防衛本能(拒絶反応)を起こした。心臓の「三途の銀針」が焼き切れるように疼き、蓮の体温が瞬時に急低下する。左半身がピキピキと音を立てて凍りつき始め、抜刀の初動がコンマ数秒、遅れた。
「……くっ!」
蓮は仮面の下で激しく血を吐いた。極寒の冷気が全身の関節を縛り、動かそうとした右腕の筋肉が悲鳴を上げる。しかし、彼は慧海の教えを脳裏に刻んだ。痛みに怯えて筋肉を強張らせれば、骨の連動は途切れる。心を「空」にしろ。
蓮は右腕の痛みを完全に無視し、全身の骨格を一瞬で噛み合わせた。肩甲骨を背中の中心へ引き寄せ、骨盤のひねりを右肘へと一直線に伝える。全身が一本の巨大な鋼鉄のバネと化す。内力を一切感知させない、純粋な物理速度の極致。
――瞬刻・抜刀斬り。
キィィィンっ!!!
闇市の中に、空気を切り裂く無音の閃光が走った。それは内力による爆発ではなく、骨格の連動と筋肉の爆発的な収縮のみが生み出した、物理的な超高速の斬撃だった。磨き抜かれた初速は、陣内が「内力のない者など一撃で圧殺できる」と傲慢になり、気の防御壁を張るのを怠ったその一瞬の死角を完璧に貫いた。
バキィッ! という鈍い音と共に、陣内の剛鉄の長剣の刃先が半ばから弾け飛んだ。そして、蓮の折れた蒼天剣の錆びついた刃先が、陣内の分厚い首筋を浅く、しかし正確に切り裂いた。
「ガはっ……っ!?」
陣内は首を両手で押さえ、血を噴き出しながら後退した。彼の三白眼は、信じられないものを見たかのように見開かれ、全身が恐怖で小刻みに震えていた。首筋の傷は浅い。しかし、あと一分、蓮の刃が深ければ、彼の首は完全に地面に転がっていただろう。内力を一切持たないはずの「死に損ない」が、自身の気の障壁を潜り抜け、その命を完全に掌握したのだ。
「なぜだ……内力がないはずなのに、なぜこれほどの速度が……!」
陣内の絶叫が響く中、蓮の右腕から「ブツリ」という不気味な肉の断裂音が響いた。骨格の連動に肉体が耐えきれず、右腕の筋肉が広範囲にわたって微細に断裂したのだ。凄絶な激痛が遅れて襲いかかり、蓮の視界が歪む。彼は再び激しく吐血し、膝を突きそうになった。
「おい、黒蓮! こっちだ!」
その時、路地裏の闇から半兵衛の声が響き、同時に複数の特製煙玉が投げ込まれた。シュゥゥゥと激しい音を立てて立ち上る濃い煙幕が、泥市全体を白い闇で包み込んでいく。
「追え! 逃がすな! 奴は深手を負っているはずだ!」
陣内の狂乱した命令が響くが、執法隊の弟子たちは煙幕と無法者たちの混乱に阻まれ、身動きが取れない。蓮は半兵衛に強引に肩を担がれ、泥まみれの地下排水路の暗闇へと引きずり込まれていった。
冷たい下水が流れる暗い排水路の奥深く。蓮は壁に背を預け、激しく喘いだ。右腕は完全に感覚を失い、だらりと垂れ下がっている。鉄仮面の下から滴る血が、濁った水面を朱く染めていく。
「無茶しやがって……。あの真壁陣内の首を、内力なしで跳ねかけただと? お前のその抜刀術、化け物じみているが、肉体が完全に悲鳴を上げてるぞ」
半兵衛が煙管を握り締め、珍しく焦燥を露わにしながら蓮を見つめた。蓮は冷たい壁に頭を押し当て、仮面の奥で静かに目を閉じた。右腕の骨が軋み、筋肉が壊死しかけている感覚が伝わる。このままでは、あと一度でも抜刀すれば、右腕そのものが完全にちぎれ飛ぶだろう。
(鉄心の鞘……あの頑丈な鞘がなければ、俺の肉体は持たない……)
静香を救うための復讐の旅路は、始まったばかりだった。しかし、蓮の肉体には、すでに冷酷な限界の足音が刻一刻と近づいていた。
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