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霧ヶ原潜入、鉄の仮面と闇の友

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夜霧が宿場町「霧ヶ原」を白く塗り潰していく。立ち込める湿気は冷たく、肺の奥まで凍りつかせるかのようだった。蒼天山脈の麓に位置するこの町は、かつては参拝客や商人たちで賑わう活気ある場所だった。しかし今、街頭に掲げられた松明の光は、巡回する蒼天剣宗の弟子たちの冷徹な影を不気味に引き延ばしているに過ぎない。


 街外れの荒れ果てた墓地。その影で、御子神蓮は冷たい指先で鉄の仮面に触れていた。


「――くっ、あぁ……!」


 顔の左半分を覆う黒鉄の仮面を顔に押し当てると、その裏側に仕込まれた細い針が、頬の経絡へと深く突き刺さった。麻薬すら効かない鋭い激痛が脳を突き抜ける。仮面の固定針は、移植された「獄門の邪脈」が引き起こす顔面の黒変と、赤く変色した左目を隠すためのものだ。しかし同時に、この針は顔の筋肉を物理的に固定し、蓮から一切の表情を奪い去る。じわじわと広がる鈍い頭痛に耐えながら、蓮は引き裂かれた道着の上から、左半身を覆う包帯をきつく締め直した。


 丹田は粉々に砕かれ、かつて誇った「蒼天正気」は塵一つ残っていない。内力を練ろうと焦れば、胸の空洞からどす黒い血が逆流するだけだ。右腕は未だにだらりと垂れ下がり、前夜の骨格連動による肉離れが激しく疼いている。目を閉じれば、前夜の治療の際、自身の放った冷気によって両指の皮を剥がし、血を滲ませていた薬師の少女・小夜の姿が浮かぶ。自身の存在そのものが、周囲の者を傷つける呪いとなっていた。


(俺はもう、御子神蓮ではない。……ただの、死神だ)


 仮面の奥で血走った右目を鋭く光らせ、蓮は霧の中へと滑り出した。


 霧ヶ原の入り口には、厳重な検問所が設置されていた。泥鬼の逃亡からまだ半日も経っていないというのに、剣宗の動きは迅速だった。「内力のない不気味な達人」の噂は、すでに本山へと届いているのだろう。検問所を警備するのは、十数名の外門弟子と、鋭い嗅覚を持つ山岳の検問犬たちだった。犬たちが時折、霧の向こうに向けて不穏な唸り声を上げている。


 蓮は息を潜め、大地の起伏と霧の揺らぎに自身の存在を同調させる「霧の隠形法」を起動した。足の裏にかかる体重を完全に骨盤と体幹のみで制御する「無声歩法」により、湿った泥を踏みしめても一切の足音は立たない。さらに蓮は、懐から小夜に持たされた特殊な生薬の粉末を取り出し、自身の足元へと静かに撒いた。


 ――フッ。


 風の通り道を読み、自身の体温と呼吸の熱を霧の彼方へと逃がす。検問犬のすぐ傍らを通り抜けた瞬間、犬は一瞬だけ蓮の方向へ鼻を向けたが、薬草の匂い消しによってその嗅覚は完全に無力化されていた。蓮は影のように、誰一人として気づかれることなく検問所を突破し、霧ヶ原の活気の裏に隠された暗部へと侵入した。


 宿場町の地下排水路。そこを改造して作られた「地下泥市」は、地上の清らかな支配とは対極にある、饐えた泥と油の匂いが満ちる無法者たちの巣窟だった。剣宗の法が届かないこの暗がりで、蓮は錆びついた「折れた蒼天剣」を抱え、目的の場所へと向かった。


 泥市の最奥に佇む、古びた茶屋「風間庵」。表向きは寂れた店だが、その裏口から地下へと続く隠し階段が存在する。蓮は無音の足取りで階段を下り、頑丈な鉄の扉を押し開けた。


 薄暗い地下室の中、一人の男が豪奢な柄の着物を崩して着崩し、安物の椅子に深く腰掛けていた。風間の半兵衛だ。男は飄々とした薄笑いを浮かべ、特製の煙管から紫煙を燻らせていた。


「――そこまでだ、半兵衛」


 冷徹な声と共に、半ばから折れ、錆びついた蒼天剣の刃が、半兵衛の喉元へと音もなく突きつけられた。内力の気配は一切ない。ただ、物理的な骨格の連動のみが生み出した、極限の無音の接近だった。


「おっと……相変わらず物騒な挨拶だな、蓮。いや、今は『黒蓮』と呼ぶべきかい?」


 半兵衛は喉元に刃を突きつけられていながら、眉一つ動かさず、煙管を軽く振ってみせた。その薄笑いの奥には、蓮の実力に対する確かな畏敬の念が隠されていた。半兵衛が金に汚く、軽薄な態度を崩さないのは、自身の情報網を維持するための徹底的なカモフラージュであることを蓮は知っている。


「用件を話せ。俺の生存を疑う剣宗の目が、すぐそこまで来ている」


「冷たいねぇ。まずは情報料の相談から始めようじゃないか。俺だってボランティアで動いてるわけじゃない。お前、蒼天剣宗の銅銭を持ってるだろ? あれを俺に渡しな」


 半兵衛は指先を擦り合わせて金を要求した。蓮は懐から、剣宗の刻印が入った銅銭の袋を取り出そうとしたが、半兵衛はそれを手で制した。


「馬鹿言え、そのまま使うんじゃねえよ。その銅銭には剣宗独自の気の刻印が入ってる。手配犯のお前がそれを使えば、一瞬で足がつく。俺が泥市の顔役である猪九郎を通して、足のつかない闇金へマネーロンダリングしてやる。手数料はきっちり頂くがね」


 半兵衛は煙管を腰に収めると、机の上に数枚の古い書状を並べた。その表情から、いつもの軽薄さが消え、冷徹な情報屋の眼光が宿る。


「本題だ。お前を嵌めた蒼天剣宗の長老・武田雷蔵だが……奴は裏で、魔教『黒風谷』の過激派長老・羅刹天と繋がっている。お前を襲ったあの刺客どもの懐から、黒風谷の極秘の暗殺指令『黒い符』が見つかったのがその証拠だ。正道の光を自称する奴らが、裏では魔道の闇と手を結んで利権を貪っている。吐き気がするねぇ」


 蓮の右目が、仮面の奥で激しく細められた。やはり、義父である不破刃三郎の処刑も、自身の丹田破壊も、すべては雷蔵が仕組んだ自作自演の謀略だったのだ。


「それだけじゃない。お前が最も知りたがっている、妹弟子の静香ちゃんの情報だ」


 半兵衛の言葉に、蓮の身体が本能的に緊張した。だらりと垂れていた右腕の指先が、微かに震える。


「静香ちゃんは現在、剣宗本山の奥深く、地下牢獄『鉄鎖窟』に軟禁されている。だが……ただ閉じ込められているわけじゃない。武田玲央の奴、お前から奪った『御子神一族の血脈』を無理やり体内に移植したらしいが、そのせいで激しい拒絶反応を起こしている」


「なんだと……?」


「玲央の右腕の経絡は崩壊しかけていて、戦闘中に突然激しく震え出すそうだ。奴はその拒絶反応を抑えるため、静香ちゃんの血から抽出した特殊な『薬』を毎日のように服用している。静香ちゃんを側に置いているのは、人質としての価値だけじゃない。彼女の血を、己の肉体を維持するための生贄にしているんだよ」


 ――ドクンっ!!!


 蓮の体内で、移植された邪脈がかつてない激しさで脈打った。心臓に埋め込まれた「三途の銀針」が、暴走しようとする魔気によって激しく疼き、胸元に焼き切れるような激痛が走る。仮面の下で、蓮の左目が血のように赤く染まり、全身から周囲の水分を瞬時に凍りつかせる極寒の冷気が吹き出した。


「あの、外道が……っ!!!」


 蓮の口から漏れたのは、人間のものではない、獣のような低い咆哮だった。怒りのあまり、右手の骨が軋み、肉離れを起こした筋肉から再び血が滲む。


「落ち着け、蓮! 今ここで暴走すれば、静香ちゃんを救い出す前に、お前自身が凍りついて死ぬぞ!」


 半兵衛が鋭い声で叫び、蓮の肩を強く掴んだ。その瞳には、かつて自身の命を救ってくれた不破刃三郎への恩義と、その義理の息子である蓮を死なせたくないという、本物の友情が宿っていた。


 蓮は深く息を吐き、慧海から授かった仏法の呼吸法を実践した。冷たい魔気を体内に強引に抑え込み、理性を引き戻す。仮面の頬に刺さる針が、彼の怒りを冷ますように鈍い痛みを送り続けていた。


「……すまない。大丈夫だ」


「冷や冷やさせやがって……。いいか、今の不完全な体のまま本山に乗り込んでも、玲央の『金剛蒼天剣』の気の防壁に弾かれて終わりだ。お前には、その骨格連動抜刀術の凄絶な反動に耐えうる、本物の『鞘』が必要だ」


 半兵衛は煙管を再び咥え、ふぅと煙を吐き出した。


「麓の廃村に、鉄心という偏屈な鍛冶屋が隠れ住んでいる。あいつなら、お前の折れ剣の衝撃を吸収できる、寒鉄鉱を用いた頑丈な鞘を鋳造できるはずだ。まずはそこへ向かいな」


 蓮は静かに頷き、折れた蒼天剣を腰に収めた。静香を救い出し、武田一族の偽善を白日の下に晒すための復讐の炎が、彼の胸の奥で、黒く、静かに燃え上がっていた。

HẾT CHƯƠNG

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