深夜二刻の凍える血流
死の淵から引き戻された感覚は、おそろしく冷たく、そして重かった。
「――がはっ!」
御子神蓮は、肺腑の底からせり上がってきた黒い血を吐き出し、跳ね起きるようにして上体を起こした。激しい動悸が胸の内で鐘のように鳴り響いている。呼吸をするたびに、喉から胸にかけて鋭い氷の破片を吸い込んでいるかのような激痛が走った。
「ああら、起きたのね。生きてるのが不思議な死体さん」
冷ややかで、どこか棘のある少女の声が暗闇から響いた。
蓮が痛む目をこじ開けると、そこは不気味な緑色の火が揺らめく、湿った石造りの部屋だった。立ち込める血の匂いと、饐えた薬草の香りが鼻を突く。鬼道玄の地下医術所――あの地獄のような移植手術が行われた場所に、自分はまだ横たわっていた。
声をかけてきたのは、薬草の入った木箱を片手に、血に染まった包帯を冷酷にゴミ箱へと投げ捨てている少女だった。鬼道玄の娘であり、この薄暗い医術所で薬師を務める小夜(さよ)だ。短い袴を穿き、ツインテールに結った髪を揺らしながら、彼女は冷徹な眼差しを蓮に向けていた。
「私はてっきり、そのまま心臓が凍りついて死ぬと思って、お墓の準備をしていたところよ。お父様の実験体になるなんて、物好きにも程があるわ」
「俺は……生きている、のか……?」
蓮は自身の掠れた声に驚いた。まるで他人の喉から出たかのような、低く、かすれた響き。何よりも異常だったのは、自身の身体感覚だった。左半身が、恐ろしく冷たい。自分の肉体でありながら、まるで他人の、それも凍りついた鉄の塊を無理やり縫い付けられたかのような違和感があった。
おそるおそる左腕を持ち上げる。引き裂かれた道着の袖から覗くその腕は、異様な変貌を遂げていた。皮膚の下を這う経絡が、炭のように真っ黒に浮き上がり、不気味に脈打っている。かつて蒼天剣宗の第一天才弟子として、清らかな「蒼天正気」を巡らせていた美しい腕は、見る影もなく魔の力に侵食されていた。
「丹田は?」
蓮は右手を己の腹部に当てた。だが、そこには何もなかった。かつて温かい気の泉が存在していた場所は、ただ冷たく、空虚な空洞と化していた。武田玲央の剣によって粉砕された丹田は二度と戻らない。正道の武者としての自分は、あの雪山で完全に死んだのだ。
「無駄よ。丹田を探したって、そこには何もないわ」
小夜が冷たく言い放ち、蓮の枕元に木製の薬碗を乱暴に置いた。
「お父様の『鬼道玄の解剖医術』は完璧よ。君のズタズタになった経絡はすべて焼き切られ、あの棺に眠っていた魔頭・獄門の『邪脈』が代わりに移植された。君の左半身に流れているのは、正道の気じゃない。すべてを破壊する禍々しい魔気よ」
「魔気……」
蓮がその言葉を繰り返した瞬間、背後から狂気的な笑い声が響いた。
「くははは! 見事な適合だ! 実に素晴らしい!」
暗闇から姿を現したのは、痩せこけた体躯に血のついた白衣を羽織った男――鬼道玄だった。目の下に深い隈を刻み、その瞳は狂気的な歓喜にギラギラと輝いている。彼は蓮の左腕を掴むと、その黒い経絡を指でなぞるようにして観察し始めた。
「通常の人間であれば、魔頭の邪脈を移植した瞬間に、体内の生気と魔気が衝突して全身の血管が破裂して即死する。だが君は耐えた。君の『骨』、そして体内に眠る血脈が、この異形の経絡を強引に繋ぎ止めているのだ! 実に興味深い実験体だよ!」
「医者……俺は、いつ動けるようになる」
蓮は玄の狂気的な視線を無視し、ただ復讐に燃える瞳で問いかけた。武田一族への憎悪だけが、このボロボロの肉体を繋ぎ止める唯一の楔だった。
「焦るな、若者よ。移植は成功したが、本当の地獄はこれからだ」
玄は笑みを消し、冷酷な目で蓮を見つめた。
「邪脈は君の肉体に根付いたが、君の心臓と脳はまだ人間のままだ。深夜、大地の陰気が最も高まる時間帯に、移植された経絡は必ず激しい拒絶反応を起こす。これに耐えられなければ、君は内側から凍りついて塵となるだろう。小夜、準備をしておけ」
小夜はふんと鼻を鳴らし、薬草を調合する手を止めなかった。「言われなくても、解毒剤の用意はしてるわよ。無駄骨にならなければいいけど」
時は流れ、地下医術所に静寂が戻った。蓮は石のベッドに横たわり、自身の左腕から伝わる不気味な脈動を感じていた。動かない右腕、失われた丹田。魔の経絡を宿した自分は、もう人間ではないのだろうか。怪物として生き延び、復讐を果たす。その決意の裏で、かつて養父・刃三郎に教えられた正道の誇りが、壊れた器の底で泥のように澱んでいた。
そして、その時はやってきた。
石室の片隅に置かれた古い砂時計の砂が落ちきり、深夜二刻(午前二時)を告げる。
突如として、蓮の左半身が激しく痙攣した。心臓の奥底から、凍てつくような冷気が爆発的に噴き出し、全身の血管を駆け巡る。邪脈移植初期における、最悪の拒絶反応が始まったのだ。
「ぐっ……ああああああ!」
蓮の口から、悲痛な叫びが漏れた。痛い。そんな生易しいものではなかった。全身の骨を一本ずつ冷たい万力で叩き潰され、血流の代わりに凍りついた針の群れが体内を逆流しているかのような激痛。左半身の皮膚が不気味な漆黒に変色し、経絡が激しく蠢く。
「始まったわね」
小夜の顔から余裕が消えた。彼女はすぐに動き、薬草調合鉢から冷気を抑えるための特殊な薬液を手に取った。だが、蓮の周囲の空気は、すでに常軌を逸した冷気に支配され始めていた。
蓮の左腕から吹き出す極寒の魔気が、手術台の石を白く凍らせていく。壁の湿気が瞬時に霜となり、周囲に置かれた薬草の瓶がピキピキと音を立てて凍りつき、次々と破裂していった。石室全体の温度が、一瞬にして絶対零度の地獄へと叩き落とされる。
「心臓の鼓動が不規則よ……! このままじゃ、魔気が脳に達して廃人になるわ!」
小夜の白い息が荒くなる。彼女の指先も、蓮の体から放たれる冷気によって、すでに青白く凍傷を負い始めていた。だが、彼女は毒舌を吐きながらも、決して蓮の手を離さなかった。
「ここで死んだら、お父様の実験台が無駄になるじゃない! 根性見せなさいよ、この頑固者!」
「は、はぁ……っ……!」
蓮は激痛の中で、かつて蒼天剣宗で学んだ呼吸法「蒼天正気訣」を無意識に試みようとした。体内の気の乱れを、正道の呼吸で整えようとしたのだ。だが、それが最悪の引き金となった。
丹田がない。気の制御弁を失った肉体の中で、わずかに残されていた生気(正気)が、邪脈の魔気と正面から衝突したのだ。水と油、光と闇の気が体内で激しく反発し、爆発的な衝撃となって蓮の経絡を引き裂く。
「がはっ!!」
蓮の口から、どす黒い血が大量に噴き出した。肺腑が焼け付くように熱く、同時に皮膚は凍りつく。正邪の気の衝突は、肉体を内側から崩壊させる自殺行為だった。
「馬鹿ね! 丹田もないのに正道の呼吸法を使うなんて自殺志願者よ!」
小夜が叫び、蓮の胸元を乱暴に引きはがした。彼女の右手には、寒鉄鉱が配合された特殊な黒い針灸用の針――「三途針」が握られていた。小夜は鬼道玄直伝の「三途針灸術」を起動し、蓮の凍りつきかけた皮膚に、迷いなく針を突き立て始めた。
「動かないで! 経絡の死穴を塞いで、魔気の流れを物理的に止めるわ!」
小夜の指先が、蓮の冷気によって凍りつき、皮が剥がれて血が滲む。それでも彼女は表情を歪めず、極めて精密な動作で、蓮の首筋、鎖骨、そして胸元の要所に針を深く打ち込んでいった。針が刺さるたびに、不気味に蠢いていた黒い邪脈の動きがピタリと止まり、冷気の放出が弱まっていく。
だが、それだけでは根本的な暴走は止まらない。魔気の奔流は、今や蓮の心臓そのものを喰らい尽くそうと迫っていた。
「お父様!」
小夜の鋭い呼び声に応じるように、鬼道玄が暗闇から冷酷な笑みを浮かべて歩み出た。その手には、禍々しい黒い光を放つ一本の極細の銀針が握られていた。それこそが、彼が自身の医学の粋を集めて鋳造した保命の切り札――「三途の銀針(心臓部)」だった。
「君の心臓が魔に完全に染まる前に、これでお前の命に『境界』を引いてやろう」
玄は蓮の胸元、心臓の経絡の根元に向けて、その銀針を一気に深く突き刺した。
「ぐ、あああああ――っ!!」
蓮の身体が大きくのけぞり、そして、完全に静止した。体内を暴れ回っていた魔頭の魔気が、心臓の直前で強固な鉄の壁にぶつかったかのように、一瞬にしてせき止められたのだ。全身を苛んでいた激痛が、嘘のように引いていく。代わりに、全身の経絡が完全に麻痺し、指一本動かせないほどの重苦しい虚脱感が蓮を襲った。
「……はぁ、はぁ……」
蓮は荒い息を吐きながら、天井の闇を見つめた。全身から冷や汗が流れ落ち、左半身の黒い紋様は微かに薄れていたが、完全に消えることはなかった。左目の視界が、心なしか微かに白く濁っている。魔気の侵食が、確実に自身の肉体を蝕んでいる証拠だった。
「ふぅ……命拾いしたわね、死に損ない」
小夜は自身の凍傷を負った指先に薬を塗りながら、不機嫌そうに蓮を睨みつけた。その手は微かに震えていたが、彼女の瞳には、蓮がこの地獄の拒絶反応を耐え抜いたことに対する、奇妙な安堵の色が浮かんでいた。
「感謝する……小夜」
「勘違いしないで。私はお父様の実験体が壊れるのが嫌だっただけよ。次にあんな無茶をしたら、本当に脳が腐ってゾンビになるわよ」
彼女はそっぽを向きながらも、蓮の体に毛布を優しく掛け直した。そのぶっきらぼうな献身が、すべてを失った蓮の荒んだ心に、微かな温もりをもたらす。
玄は蓮の胸に刺さった銀針の根元を指で軽く叩き、冷酷な口調で警告を与えた。
「その『三途の銀針』は、君の心臓を守るためのリミッターだ。魔気が心臓に達するのを物理的に防いでいる。だが、覚えておくがいい。もし君が自らの意志でこの針を抜けば、一時的に限界突破の強大な魔力を得るだろう。しかしその瞬間、君の肉体は内側から完全に崩壊し、確実に死に至る。これは命の切り売りだ」
「リミッター……」
蓮は胸に埋め込まれた銀針の感触を確かめるように、右手を胸に当てた。命を削る呪い。だが、それこそが、武田一族への復讐を果たすための唯一の武器となるのだ。
「それと、若者よ。君がここで泥のように眠っている間に、外の世界では面白い動きがあったぞ」
玄が不気味に目を細め、小夜がテーブルの上から一枚の汚れた紙を蓮の前に差し出した。それは、蒼天剣宗の刻印が押された、武林全域に回されている指名手配書だった。
手配書には、蓮の素顔と共に、おぞましい文字が躍っていた。
『大逆人・御子神蓮。同門を虐殺し、禁忌の魔功に手を染めて逃亡中。見つけ次第、その魂ごと消滅させよ』
「魔道に堕ちた裏切り者、ね」
小夜が冷ややかに呟いた。
「君が信じていた正道の正義なんて、そんなものよ。彼らは君を完全に怪物に仕立て上げ、自分たちの罪をすべて君に着せたの。今や君は、武林全体の敵よ」
蓮は手配書を見つめ、静かに拳を握りしめた。怒りはもう、爆発的なものではなかった。それは冷たく、深く、自身の邪脈の底へと沈み込んでいく沈殿物のような憎悪だった。養父を殺し、妹弟子を奪い、自身の無実を歪めて怪物と呼ぶ正道同盟。その偽善の皮を、一枚残らず剥ぎ取ってやる。
「御子神蓮は死んだ……」
蓮は鉄仮面のような無表情で、静かに言い放った。
「俺を怪物と呼ぶなら、その期待に応えてやる」
その誓いに呼応するように、蓮の左腕の黒い経絡が、冷たい光を放ちながら不気味に脈打った。正道の天才は消え、魔道の深淵から、一匹の鬼が這い上がろうとしていた。しかし、医術所の薬草や物資は、先ほどの暴走による氷結で大部分が破壊されていた。拒絶反応を和らげるための「氷魄草」を入手しなければ、次の深夜二刻を生き延びることはできない。焦燥の影が、蓮の行く手に静かに忍び寄っていた。
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