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廃寺包囲網、錆びた刃と頑丈な鞘

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静香の血で汚された髪飾りを宿敵が身につけているという事実に、蓮の邪脈がかつてない規模で疼き始める。


「ぐ、うああああッ!」


 蓮の左腕から包帯が引き裂かれ、皮膚の下でのたうつ漆黒の経絡が、まるで生き物のように狂暴に脈打ち始めた。心臓の奥に深く埋め込まれた「三途の銀針」が、暴走する魔気を堰き止めようと悲鳴を上げるように疼く。蓮の足元から、本堂の古い床板がピキピキと音を立てて真っ黒に凍りついていった。


「蓮、落ち着け! 怒りに呑まれるな!」


 風間の半兵衛が、凍傷の痛みに顔を歪めながらも蓮の肩を強く掴んで引き戻す。その傍らでは、傷だらけの太一が寝台の上で震えながら、蓮の異形を涙の浮かんだ目で見つめていた。薬師の小夜もまた、蓮の放つ圧倒的な冷気に歯を鳴らしながら、懐から「清心丹」を取り出そうと手を伸ばす。彼女の指先は、前夜に蓮の治療を行った際の凍傷で赤く腫れ上がっていた。


 小夜のその手を見た瞬間、蓮の脳裏に慧海の「殺戮に溺れるな、弱者を守る盾であれ」という静かな声が響いた。蓮は激しく息を吐き出し、強引に魔気を体内に押し戻した。体内で正魔の気が衝突し、内臓を焼かれるような激痛に襲われ、蓮は血の混じった唾を床に吐き捨てる。


「……すまない、小夜。お前の手を、また……」


「いいから、じっとしてなさい! 脳の経絡まで凍りつきたいの!?」


 小夜は毒舌を吐きながらも、震える手で蓮の胸元をはだけ、気の乱れを整えるための応急処置を施し始めた。蓮は自身の無力さに歯を食いしばる。最愛の妹弟子である静香は、本山の地下深く「鉄鎖窟」で血を抜かれ、衰弱している。今すぐにでも本山へ斬り込み、宿敵・武田玲央の首を撥ねてやりたい。だが、現在の蓮の右腕は真壁陣内との戦闘による筋肉の断裂で完全に麻痺しており、指先すら動かない。鞘を失った折れた蒼天剣では、一度の全力抜刀すら肉体の自壊を招く。この焦燥感が、蓮の魂を内側から削り取っていた。


 その時、廃寺の外から、夜空を不気味な赤色に染める光が差し込んできた。


「――ちっ、始まったか」


 半兵衛が地炉の影から窓の外を覗き見、舌打ちをした。山脈の麓、いくつかの村から立ち上る火の手が、夜空を血のように赤く染めている。外門長老・梶原景時が、蓮をおびき出すために容赦なく麓の村々に火を放ち始めたのだ。その焦土の煙が、廃寺の空をも重苦しく覆っていく。


 不意に、廃寺の古い山門が、きしむ音を立てて乱暴に押し開けられた。


 蓮は本能的に左手で折れた蒼天剣の柄を握り、重心を骨盤に落として「無声歩法」の構えを取った。だが、現れたのは剣宗の刺客ではなかった。


「おい……生きているか、蓮……!」


 転がり込んできたのは、煤と血にまみれ、衣服の半分が焼けただれた巨漢の男だった。麓の廃村に隠れ住んでいた頑固な刀鍛冶――鉄心だった。彼の太い腕には、無数の新しい火傷と鋭い刃物による切り傷が刻まれており、息は絶え絶えだった。


「鉄心! その体、どうしたの!?」


 小夜が驚愕の声を上げて駆け寄る。鉄心は本堂の柱に背を預けて荒い息を吐きながら、血に染まった口元を歪めて不敵に笑った。


「剣宗の狗どもに工房を嗅ぎ付けられてな……。火を放たれた。だが、お前との約束を違えるわけにはいかねえ職人のプライドが、俺をここまで走らせたのさ」


 鉄心は、懐から厳重に油布で包まれた細長い物体を取り出し、蓮の足元へと放り投げた。ずしりと、金属特有の重い音が本堂に響く。


「『鉄心の頑丈な鞘』だ……。寒鉄鉱を極限まで配合し、お前のあの狂った抜刀の摩擦熱と、骨の軋みによる反動を完全に吸収するよう鋳造してやった。……刀は引き手の命を吸う。命をかける覚悟のない者には、俺の刀は握らせん。お前の覚悟、その鞘で見せてみろ」


 蓮は静かに左手でその油布を剥ぎ取った。現れたのは、青黒い光沢を放つ、極めて重厚で頑丈な鉄製の鞘だった。寒鉄鉱の放つ極低温の冷気が、蓮の麻痺した右腕の痛みを一時的に麻痺させていく。蓮が錆びつき、半ばから折れた蒼天剣をその鞘に収めると、カチリと、完璧な噛み合わせの音が静寂に響いた。まるで、失われた己の半身が戻ったかのような、奇妙な共鳴が蓮の体内を駆け抜けた。


「……感謝する、鉄心。この恩は、必ず奴らの首で返す」


「ふん、死ぬんじゃねえぞ、小僧」


 鉄心が力尽きたように意識を失うと、小夜が即座に彼の応急治療に入った。しかし、平穏の時間など、一瞬すら残されてはいなかった。


「――囲まれたな」


 半兵衛が冷徹な声で呟いた。廃寺の周囲から、無数の足音と、松明の不気味な赤い光が本堂の格子窓を十重二十重に包囲していくのが見えた。梶原景時の放った追跡隊の精鋭、数十名。そして、その先頭に立つ二つの圧倒的な気配が、廃寺全体の空気を物理的に押し潰すように迫ってきた。


「御子神蓮! 大逆人の分際で、このような小汚い寺に隠れていようとはな!」


 地鳴りのような怒号が響き渡る。山門を粉砕して境内に踏み込んできたのは、「鬼狩り」の異名を持つ剛腕の戦士、黒岩剛造だった。身長二メートルを超える岩のような巨体に、肩には巨大な鉄槌「鬼狩りの大鉄槌」が担がれている。その皮膚は、内力による肉体硬化「金剛鉄骨功」により、微かに青銅色の鈍い輝きを放っていた。


 その隣に立つのは、青白い肌に、凍りついたような鋭い瞳を持つ細身の剣士、氷刃の斎藤。斎藤が腰の「氷晶の細剣」を微かに抜くと、彼の周囲の草木が一瞬にして白く凍りついていった。


「無内力の死神、その化けの皮を剥いでやる」


 斎藤が冷酷に囁き、細剣を地面に突き立てた。「氷河剣・凍てつく刃」の極寒の剣気が地を這うようにして広がり、廃寺の境内から本堂の入り口にかけて、すべての地面を一瞬にして滑りやすい氷の床へと変貌させていく。


 蓮は「無声歩法」を用いて剛造の死角へと踏み込もうとした。しかし、一歩を踏み出した瞬間、凍りついた地面によって足元が激しく滑り、体勢を大きく崩して後退せざるを得なくなる。内力を持たない蓮にとって、摩擦を失った極寒の氷上での姿勢制御は極めて困難だった。その隙を見逃さず、剛造がニヤリと下卑た笑みを浮かべ、鉄槌を大きく振り上げた。


「無内力のゴミめ、その頭蓋を叩き潰してやる!」


 その圧倒的な暴力が蓮に振り下ろされようとした瞬間、一人の痩せこけた影が、静かに蓮の前に立ち塞がった。


 古びた袈裟を纏った老僧――慧海だった。


「お若い方、お前の剣は、弱者を守る盾であれ。殺戮の嵐に呑まれてはなりません」


 慧海は穏やかな笑みを絶やさぬまま、手に持った念珠の数珠を静かに前方に振り払った。彼の痩せた身体から、驚くほど純粋で重厚な金色の光――「般若心経功」の正気が溢れ出し、斎藤の放った極寒の冷気を穏やかに包み込み、一瞬にして霧散させていく。氷に覆われていた地面が、その温かい光によってみるみる溶けて水へと戻っていった。


 しかし、その代償はあまりにも重かった。慧海の口から、どす黒い血が激しく噴き出す。かつて数千の魔者を調伏した伝説の力を、老いた肉体で強引に引き出した反動が、彼の生命力を内側から激しく削り取っていたのだ。慧海の膝が、微かに震える。


「がはっ……。さあ、行きなさい、蓮……」


「和尚!」


 蓮が叫ぶが、敵は容赦なく次の牙を剥く。剛造は慧海の放った正気の光に一瞬怯んだものの、すぐに狂暴な咆哮を上げて突進してきた。


「老いぼれの説法など、あの世で聞くがいい! 物理的に圧殺してやるわ!」


 剛造の「鬼狩りの大鉄槌」が、空気を爆発させるほどの風圧を伴って、本堂の正面から振り下ろされる。同時に、後方に控える斎藤の細剣から、無防備となった慧海の胸を正確に狙う、鋭く冷徹な氷河の剣気が放たれた。


 絶体絶命の光景が、蓮の網膜に焼き付く。養父に続き、この慈悲深い老僧までもが、目の前で失われようとしている。蓮の体内で、邪脈の魔気が怒りによって再び激しく疼き始める。


(いや……呑まれるな。心を空にしろ……!)


 蓮は激痛に耐えながら、鉄心から授かった頑丈な鞘を左手で強く握り締めた。折れた蒼天剣の柄に左手を添え、骨盤を極限まで収縮させ、全身の骨格を一瞬のバネのように連動させる。内力を一切練り上げず、ただ純粋な骨の軋みと筋肉の爆発力だけで、限界の初速を生み出すための「抜刀の構え」を取る。


 剛造の鉄槌が、廃寺の本堂の古い壁を粉々に粉砕し、木片が激しく舞い散る。

 斎藤の冷たい氷の刃が、慧海の胸元へと迫る――。


 蓮の左目が、怒りと極限の集中により、血のように赤く染まった。鉄仮面の奥から、絶対的な「死」の静寂を孕んだ眼光が放たれる。蓮は、特製の鞘の中で摩擦熱を高める折れ剣を引き抜くため、全身の骨格を極限まで噛み合わせた。

HẾT CHƯƠNG

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