落日の天才、深淵に堕つ
しんしんと降り積もる白雪は、すべてを覆い隠す欺瞞の衣だ。
蒼天山脈の頂、正道第一の剣門と称される「蒼天剣宗」の本山は、いつもと変わらず厳かで、清らかな静寂に包まれていた。だが、その白砂が敷き詰められた広場で、御子神蓮(みこがみ れん)が浴びせられているのは、凍てつく雪よりも冷酷な罵声の嵐だった。
「同門の義兄弟を手にかけ、あまつさえ禁忌の魔功に手を染めるとは! 御子神蓮、お前のその薄汚い本性を、我ら蒼天剣宗は決して許しはしない!」
糾弾の声を上げているのは、少宗主である武田玲央(たけだ れお)だった。金糸の刺繍が施された白い剣士服を完璧に着こなし、端正な顔に歪んだ愉悦を浮かべている。その足元には、胸を貫かれて冷たくなった内門弟子の遺体が横たわっていた。もちろん、蓮が殺したわけではない。玲央が仕組んだ、あまりにもお粗末で、それゆえに抗う術のない罠だった。
蓮は冷たい雪の上に膝をつかされ、重い鉄鎖で全身を縛り付けられていた。かつて「第一の天才弟子」と呼ばれ、宗門の未来を担うと謳われた面影はどこにもない。引き裂かれた青い道着の隙間から、凍傷にまみれた肌が覗いている。
「違う……。俺は、義兄上を殺してなどいない……!」
蓮が声を絞り出すが、その言葉は吹き荒れる地吹雪にかき消される。広場を取り囲む数百人の弟子たちの瞳にあるのは、かつての英雄に対する軽蔑と、排他への狂信だけだった。正義を騙る者たちの目は、真実など求めていない。彼らが求めているのは、ただ一人、異端という名の生贄だった。
「黙れ、大逆の徒め!」
長老席から立ち上がったのは、玲央の父であり、宗門の実権を握る策士、武田雷蔵(たけだ らいぞう)だった。紫の長袍を揺らし、冷徹な眼光で蓮を見下ろす。
「証拠は揃っている。お前が魔教の残党と内通し、この清らかな蒼天の地に魔気を引き込もうとしたことは明白だ。我が宗門の戒律に基づき、即刻その武功を廃し、死罪に処す!」
「待ってください!」
その時、悲痛な叫びが広場に響いた。弟子たちの人だかりを押し分けて前に飛び出してきたのは、蓮の義妹であり妹弟子の静香(しずか)だった。彼女は白い道着を雪で濡らしながら、蓮の前に身を投げ出そうとしたが、背後に控えていた玲央の私兵たちに強引に組み伏せられる。
「兄様がそんなことをするはずがありません! 雷蔵長老、玲央様、どうかお調べ直しを! 兄様は誰よりも宗門の義を重んじていました!」
「下がれ、静香。大逆人に味方する者は、たとえ同門であっても容赦はせぬ」
玲央が冷酷に言い放ち、静香を冷たく見下ろす。その瞳の奥には、蓮に対する異常な嫉妬と、蓮を失脚させた後に静香を己のモノにしようとする、卑劣な独占欲がギラギラと渦巻いていた。
「静香、来るな……! 下がるんだ!」
蓮は叫んだ。自分がどうなろうと構わない。だが、この清らかな妹だけは、この泥沼に巻き込んではならなかった。しかし、蓮の制止も虚しく、事態はさらに最悪の結末へと加速していく。
「御子神蓮の無実、この不破刃三郎が保証する!」
地鳴りのような怒号と共に、一人の隻腕の壮年武者が割って入った。蓮の養父であり、剣宗の長老でもある不破刃三郎(ふわ じんさぶろう)だ。重厚な黒刀を背負い、雷蔵の前に立ちはだかる。その佇まいは、いかなる権力にも屈しない一本の古木のようだった。
「雷蔵、お前親子の魂胆など、疾うに見抜いているわ! 蓮の圧倒的な才能を恐れ、玲央を少宗主の座に無傷で据え置くために、このような汚い罠を仕組んだのだろう! 恥を知れ!」
「不破長老、言葉が過ぎるぞ。それは宗主一族に対する明白な反逆と受け取るが?」
雷蔵の目が細められ、その全身から紫色の雷光「紫電陰陽功」の気が迸る。空気そのものがビリビリと震え、周囲の雪が瞬時に蒸発していく。
「反逆だと? どちらが反逆者か、あの世で確かめるがいい!」
刃三郎は隻腕で黒刀を引き抜き、剛烈な陽の剣気を放って雷蔵へ斬りかかった。しかし、その動きは一瞬にして硬直する。刃三郎の口から、どす黒い血が噴き出した。
「がはっ……! れ、雷蔵、貴様……事前に酒に毒を……!」
「ふん、愚か者が。謀反人の末路など、このようなものだ」
雷蔵は冷酷に微笑み、腰の「紫電の宝剣」を抜くこともせず、ただ右手を一振りした。紫色の雷光が刃三郎の胸を容赦なく貫く。凄絶な爆破音と共に、刃三郎の巨体が雪の上に崩れ落ちた。赤黒い血が、純白の雪を無残に染めていく。
「義父上――!!」
蓮の叫びが、天を裂くように響いた。実の父を失った自分を引き取り、剣の道と正道の誇りを教えてくれた恩人。その義父が、目の前で虫ケラのように殺されたのだ。蓮の体内で、怒りと憎悪が沸点に達し、縛り付けられた鉄鎖が激しく軋む。
「おのれ……武田雷蔵、玲央……! 貴様らだけは、絶対に許さない……!」
「許さない、か。無力な敗者が吠えるな」
玲央が嘲笑いながら一歩踏み出し、蓮の前に立った。彼は腰の「金剛蒼天剣」を抜き放ち、その冷たい切っ先を蓮の腹部――丹田の真上に突き立てた。
「蓮、お前のその『血』は、実にもったいないな。だが安心しろ。お前が消えた後、その力は私が有効に使ってやる」
玲央はそう囁くと、一切の躊躇なく、剣を蓮の腹部へと深く突き刺した。
「ぐあああああああ――!!」
肉が裂ける音ではない。蓮の体内で、二十年間かけて練り上げてきた「蒼天正気」の核――丹田が、物理的に粉々に破壊される音が脳裏に響いた。内力が暴走し、全身の経絡を引き裂きながら体外へと霧散していく。それは武者としての完全な死であり、二度と這い上がることのできない奈落への転落だった。
「これで終わりだ、天才」
玲央は剣を引き抜き、血に染まった蓮の胸を無慈悲に蹴り飛ばした。縛られたままの蓮の体は、背後にそびえ立つ蒼天山脈の絶壁――数千丈の奈落へと、真っ逆さまに落ちていった。
遠ざかる視界の中で、泣き叫ぶ静香の顔と、冷酷に見下ろす武田親子の顔が雪煙の中に消えていく。蓮の意識は、底知れぬ暗闇へと沈んでいった。
* * *
どろりとした、生温かい泥の中に沈んでいるような感覚だった。
次に蓮が目を覚ました時、そこは雪山ではなく、不気味な緑色の火が揺らめく薄暗い洞窟の中だった。鼻を突くのは、強烈な血の匂いと、腐食した薬草の饐えた臭いだ。体中の関節がバラバラに砕けたように痛み、呼吸をするだけで胸が焼け付くように苦しい。
「おや、目覚めたかね。驚異的な生命力だ。普通の人間なら、あの絶壁から落ちた時点で内臓が破裂して即死しているというのに」
暗闇から、痩せこけた体躯に血のついた白衣を羽織った男が姿を現した。目の下に深い隈があり、狂気的な光を宿した瞳が、蓮の体を舐めるように観察している。男の名は鬼道玄(き どうげん)。武林の歴史から抹殺された、禁忌の闇医者だった。
「ここは……。俺は、生きているのか……?」
「生きていると言える段階ではないな。丹田は粉砕され、内力は完全に枯渇している。全身の骨も半分は砕けている。今の君は、ただ呼吸をしているだけの『歩く屍』、いや、『這う肉塊』に過ぎんよ」
道玄は冷酷な事実を淡々と告げながら、手にした奇妙な解剖刀を弄んだ。蓮は自身の腹部に手を当てようとしたが、指一本動かすことすらできなかった。武功を失い、すべてを奪われた。その現実が、冷たい泥のように心にのしかかる。
「武田一族への復讐を望むかね?」
道玄の言葉に、蓮の瞳が一瞬だけ鋭く光った。義父の刃三郎が血を流して倒れた姿、そして玲央の傲慢な笑みが、脳裏に鮮明に蘇る。その憎悪の火種は、丹田を失ってもなお、蓮の魂の奥底で激しく燃え盛っていた。
「……殺す。あの親子だけは、この手で……!」
「素晴らしい。その憎悪こそが、最高の麻酔だ」
道玄は狂気的な笑みを深め、洞窟の奥にある氷漬けの棺を指し示した。その中には、かつて武林を恐怖のどん底に陥れ、正邪両派の総力を挙げてようやく討ち果たしたとされる伝説の魔頭「獄門(ごくもん)」の遺体が安置されていた。
「君が生き延び、復讐を果たす唯一の方法がある。この死した魔頭の『邪悪な経絡』――邪脈を、君のズタズタの体に移植するのだ。正道の清らかな経絡をすべて焼き切り、この魔の導管を心臓に直接接続する」
「魔頭の……経絡……?」
「そうだ。ただし、生還率は一割にも満たない。移植の最中、君の肉体は灼熱と極寒の拒絶反応に晒され、精神は魔頭の残照によって狂い狂死するだろう。それでも、やるかね?」
蓮は、自身の崩壊しかけた右腕を見つめた。正道としての誇り、清らかな蒼天正気、愛する家族。すべてはあの雪山で踏みにじられ、失われた。今さら、魔道に落ちることを恐れて何になる。
「やれ……。俺を、怪物にしろ……!」
「合格だ。では、地獄の門を開こう」
手術が始まった。麻酔などという生易しいものは存在しない。道玄の鋭い解剖刀が、蓮の左半身の皮膚を容赦なく切り裂いていく。蓮の口から、獣のような悲鳴が迸った。
「ぐっ、あああああああ――!!」
正道の純粋な経絡が、道玄の手によって一本ずつ物理的に引き剥がされ、代わりに棺から取り出された、不気味に蠢く漆黒の「邪脈」が蓮の肉体に埋め込まれていく。それはまるで、生きた黒い蛇が皮膚の下を這い回り、肉を喰らい、骨に牙を突き立てているかのような、言語を絶する苦痛だった。
「ほう、耐えるか! やはり君の『骨』は気の衝撃を逃がす特異な構造をしている。だからこそ、あの落下でも脳が潰れなかったのだな!」
道玄は興奮に顔を上気させながら、漆黒の経絡の根元を、蓮の心臓の鼓動の源へと強引に縫い合わせていく。正魔の気の反発により、蓮の体温が急激に低下し、手術台の周囲の空気が瞬時に凍りつき始めた。全身の血流が逆流し、灼熱の炎と極寒の氷が、脳の経絡を同時に焼き尽くしていく。
痛みが限界を超えた。
蓮の視界が完全に白く染まり、耳元で数千人の悲鳴のような幻聴が響く。心臓が、激しい不整脈を起こした後に、ピタリと停止した。
「おや……心停止か。やはり魔頭の経絡の負荷には耐えられなかったか」
道玄は落胆したようにため息をつき、解剖刀を置こうとした。しかし、その瞬間だった。
蓮の体内に眠る、彼自身すら知らなかった未知の血筋――「御子神一族の混沌の血」が、死の淵において目覚めるように激しく疼き始めた。黒く染まった左半身の邪脈が、まるで独自の意志を持ったかのように、ドクン、ドクンと禍々しい鼓動を打ち始めたのだ。
漆黒の魔気が、蓮の心臓から全身の骨格へと向かって、爆発的に噴き出し始めた。
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