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降り注ぐ泥水と、洗えない孤独

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放課後の旧校舎裏、薄暗い渡り廊下の隅。夕暮れの引き延ばされた赤い陽光が、ひび割れたコンクリートの床に不気味な影を落としていた。


「ほらよ、ドブネズミ! やっぱりお前には、その汚い色が一番お似合いだ!」


 下品な笑い声と同時に、バケツがひっくり返る重い音が響いた。バシャッ、と、冷たくて生臭い泥水が、佐藤陸の頭上から容赦なく降り注ぐ。


 一瞬、呼吸が止まった。泥水は陸の短い黒髪を濡らし、額を伝って、昨日あれほど白く洗い上げられたはずの体操服へと吸い込まれていく。ポリエステル繊維の白地が、墨を流したように一瞬で濁った灰色へと染まり、ドブの臭いが周囲の空気を支配した。


「あはは! 傑作だな! 一晩で綺麗になったと思ったら、また元通りだ!」


 いじめグループのリーダー、安藤俊介がバットを肩に担ぎ、歪んだ笑みを浮かべて陸を見下ろしている。取り巻きの沢田が、空になったプラスチックバケツをからからと弄びながら、嘲笑を浴びせていた。


 陸は濡れたコンクリートの上に膝をつき、泥の滴るスクールバッグを強く抱きしめた。全身が小刻みに震えている。昨日、洗川惣介が夜を徹して泥を弾き落とし、石鹸の香りで満たしてくれた体操服。昇降口で安藤たちの言いがかりを退け、ようやく取り戻した自分の尊厳が、わずか数秒で泥水の中に溶けて消えていく。


「……なんで、こんなこと」


「あ? 何か言ったか、陸?」


 安藤が脅すように一歩踏み出し、泥だらけのローファーで陸の靴を軽く踏みつけた。陸はそれ以上、声が出なかった。ただ、泥水がじわじわと制服のズボンにまで染み込んでいく冷たさだけが、現実の痛みとして身体を支配していた。


「明日もその白い服でいられるといいな、って言ったろ? 俺たちの好意を無駄にするなよ。じゃあな、ドブネズミ」


 安藤たちは満足したように背を向け、笑い声を響かせながら去っていった。静まり返った渡り廊下に、陸の荒い呼吸の音だけが残される。


 陸は立ち上がれなかった。涙が泥水と混ざり合い、顎からポタポタと床に落ちる。昨日感じたあの微かな希望は、安藤たちの圧倒的な悪意の前では、あまりにも無力で、脆い砂の城に過ぎなかった。


「……どうせ、洗っても無駄なんだ」


 自嘲の言葉が、泥の臭いと共に口からこぼれ落ちた。陸は濡れた身体を引きずるようにして、旧校舎の階段を登り始めた。向かう場所は、もうあそこしかなかった。夕暮れの家庭科準備室。あの静かで、石鹸の香りがする、自分を一時でも受け入れてくれた偽りの聖域へ。


 ◇


 ギィ……と、古い木製のドアが、悲鳴のような音を立てて開いた。


 家庭科準備室の最奥、動かないと思われていた業務用洗濯機「ブルー・スワン号」の前に立ち、惣介は無言で棚の整理をしていた。彼の指先は、冷たい水仕事と強力なアルカリ剤の影響で、赤くひび割れて痛々しく荒れている。他人の汚れを引き受ける職人の「代償」が、その手の甲に刻まれていた。


 ドアの音に、惣介は静かに振り返った。そこに立っていたのは、頭からドブの泥水を浴び、灰色に汚れた佐藤陸だった。


「……洗川、先輩」


 陸の声は、今にも消えそうなほど掠れていた。泥水が床にポタポタと滴り、準備室の清潔な石鹸の香りが、一瞬にして湿ったドブの悪臭にかき消されていく。陸はスクールバッグを床に落とし、その場に崩れ落ちるように膝をついた。


「また、やられました……。せっかく先輩が、あんなに綺麗にしてくれたのに……一瞬でした。バケツ一杯の泥水を、頭から……」


 陸は両手で顔を覆い、声を押し殺して泣き始めた。肩が激しく上下している。


「もう嫌だ……。どうせ僕が汚いのが悪いんだ。僕が我慢すれば、それで済むんだ。洗っても、洗っても、どうせまた汚される。先輩、もう無駄です。僕に関わらないでください。僕みたいなドブネズミ、ほっといてくれればよかったんだ……!」


 悲痛な叫びが、準備室のコンクリート壁に反響して消えていく。陸の言葉は、自己嫌悪と諦めに満ちていた。自分を「汚い存在」と定義することで、これ以上傷つくのを防ごうとする、悲しい自己防衛の壁だった。


 惣介は、泥まみれの陸をじっと見つめていた。その瞳の奥で、微かな、しかし鋭い光が揺れる。


 湿った泥の臭い。黒ずんだ繊維。泣き崩れる少年の姿――そのすべてが、惣介の脳裏にある「洗えない過去のシミ」を強烈に呼び覚ましていた。


 十年前のあの夜。実家のクリーニング店を包み込んだ、赤黒い炎と立ち込める黒煙。崩れ落ちる柱の音。そして、自分が幼い頃にココアをこぼして汚してしまった、母の手作りのフェルト布絵本。あのシミさえ自分が作らなければ、母は失踪しなかったのではないか。どれほど手を尽くしても、あの火事の煤汚れも、母が去った心のシミも、自分には洗い流すことができなかった。


 胸が締め付けられるような呼吸困難感が、惣介を襲う。荒れた指先が微かに震えた。だが、惣介は深く息を吸い込み、そのトラウマの濁流を強引に心の奥底へと押し戻した。ここで逃げれば、目の前の少年は完全に泥の中に沈んでしまう。


 惣介はゆっくりと歩みを進め、陸の前に立った。そして、棚から取り出した重厚なプラスチック製のタライを、陸の目の前の床に、ドンと鈍い音を立てて置いた。


 さらに、蛇口をひねり、凍るように冷たい水道水をタライに並々と注ぎ込む。水の音が、準備室の重苦しい沈黙を切り裂いて響いた。惣介は陸を見下ろし、冷淡とも言える、極めて静かな声で言い放った。


「自分で洗え」


 陸は、覆っていた手をゆっくりと外し、涙と泥に濡れた目で惣介を見上げた。驚愕と、裏切られたような絶望の色が、その瞳に浮かんでいる。


「え……?」


「自分で洗うんだ、佐藤。他人に洗ってもらうだけでは、汚れはまた付く。お前がその服を『どうせ無駄だ』と諦めて汚れたまま着続けるなら、お前は一生、安藤たちの支配下から抜け出せない。奴らはお前の服を汚しているんじゃない。お前の『心』を汚して、支配しているんだ」


 惣介の言葉は容赦がなかった。甘やかすような同情は一切含まれていない。冷酷なまでの洗濯の現実主義が、陸の「悲劇のヒロイン」としての防衛壁を容赦なく突き崩していく。


「そんなの……無茶です!」


 陸が感情を爆発させ、立ち上がろうとした。


「先輩には僕の気持ちなんて分からない! 毎日、いつ泥をかけられるか怯えて、靴箱を開けるのが怖くて、誰も話しかけてくれない孤独なんて、先輩には分からないんだ! 自分で洗ったって、明日また汚されたら、その時の絶望は、昨日よりずっと深くなる! だったら最初から汚いままでいた方が、傷つかずに済むんだ!」


 陸の叫びは、心の底からの本音だった。汚れを受け入れることで、これ以上の絶望から自分を守る。それが彼の生きる術だった。


 惣介は、感情的に怒鳴る陸に対し、ただ静かに自分の両手を差し出した。


 手のひらは白く清潔だったが、指先から関節にかけては、皮膚が赤く剥がれ、細かいひび割れから微かに血がにじんでいる。水仕事と強力な洗剤を扱い続けた、痛々しい職人の手だった。


「お前の気持ちなど、俺には分からない。分かってたまるか」


 惣介は無言で陸の隣にしゃがみ込み、タライの冷水を見つめた。


「だが、俺はこの手荒れを知っている。他人の汚れを落とすために、自分の皮膚を削り続ける痛みを。俺がお前の服を洗うのは、お前を同情しているからじゃない。繊維が汚れているのが許せない、ただの職人のエゴだ。だが、お前自身が自分の服を諦めるなら、俺の技術も、この水も、すべてただの無駄遣いになる」


 惣介は棚から、白い粉末が詰まった透明な袋を取り出した。ラベルには手書きで『セスキ炭酸ソーダ』と書かれている。


「これを使え。セスキ炭酸ソーダだ」


 惣介は白い粉末をタライの水に適量、サラサラと振り入れた。水が微かに白濁し、特有の無機質な匂いが立ち上る。


「重曹の約十倍のアルカリ度を持つ強力なアルカリ剤だ。安藤たちがお前にかけた泥水には、校庭の泥だけでなく、お前自身の皮膚から分泌された皮脂や汗、そして時間が経って酸化したカビの胞子が混ざり合っている。これらはすべて『酸性』の汚れだ。セスキのアルカリイオンは、その酸性汚れを化学的に中和し、油分を石鹸化して繊維から引き剥がす。物理法則は、お前の絶望や諦めなんて関係なく、等しく汚れを分解する。お前の心がどれだけ傷ついていようと、化学反応は嘘をつかない」


 惣介は、冷たい水の中に陸の手を無言で誘導した。陸の指先が、セスキ炭酸ソーダの溶けた冷水に触れる。凍るような冷たさに、陸の肩がビクッと跳ねた。


「もみ洗いをしろ。自分の手で、繊維の奥に入り込んだ泥を押し出すんだ。お前が自分の手を汚して、冷たさに耐えて洗った服は、奴らには二度と汚せない。なぜなら、お前はもう『汚されるのを待つだけの存在』ではないからだ」


 陸は濡れた手を見つめ、それからタライの水に浸かった自分の体操服を見つめた。白濁した水の中で、灰色の泥がじわじわと広がり始めている。


 陸の目から、新たな涙がこぼれ落ち、タライの水面に小さな波紋を作った。だが、今回の涙は、先ほどの絶望の涙とは違っていた。彼は小さく鼻をすすり、震える両手で体操服の生地を掴んだ。


 ギュッ、ギュッ、と、陸がもみ洗いを始める。冷たい水が指先の感覚を麻痺させていくが、陸は必死に力を込め、生地を擦り合わせた。惣介は何も言わず、ただ隣に座り、陸の作業を「沈黙の肯定」で静かにサポートしていた。準備室には、洗濯機「ブルー・スワン号」の静かな佇まいと、陸が水を掻き回す音だけが優しく響き渡る。


 もみ洗いを続けるうち、タライの水はどんどん茶色く濁り、逆に体操服の生地は本来の白さを取り戻していく。セスキ炭酸ソーダのアルカリ中和反応により、繊維の奥に固着していた長年の皮脂汚れや黄ばみが、分解されて水へと溶け出していくのが目に見えて分かった。陸の表情から、悲惨な影が少しずつ消え、代わりに必死な、泥を落とそうとする執念の光が宿り始める。


「……あ」


 陸が、体操服の裾を裏返したときだった。


 惣介は、陸をサポートするために生地の端を手伝って引っ張っていたが、その指先が、体操服の襟元の内側にある、古びてよれよれになった白いタグに触れた。


 タグは何度も洗濯されたせいで端が千切れかかっており、その裏側には、薄れてほとんど消えかけているが、青いマジックインクで書かれた手書きの文字が残されていた。


 惣介の「タッチ・プロファイリング」が、そのインクの僅かな硬化度を感知する。彼は目を細め、その消えかけた文字を読み取った。


『佐藤 慎二』


 それは、佐藤陸の名前ではなかった。陸の身体が、惣介の視線に気づいた瞬間、ピキッと硬直した。タライの中の水音が、唐突に止まる。


 陸は、自分の最も深い部分にある「消えないシミ」を覗かれたかのように、怯えた瞳で惣介を見つめ返した。窓の外の夕闇が、静かに準備室の床を侵食し始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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