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灰色に汚れた少年と、泥の匂い

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朝の昇降口は、登校してきた生徒たちの騒がしい熱気と、湿った靴底がコンクリートを擦る音で満ちていた。だが、洗川惣介の足を止めさせたのは、その騒がしさではない。彼の並外れて敏感な嗅覚が、爽やかな朝の空気に混ざる「ある不快な匂い」を捉えたからだった。


 ――湿った黒土の匂い。酸化してこびりついた古い皮脂の臭気。そして、繊維の奥で静かに繁殖している、嫌なカビの気配。


 惣介は無意識に眉をひそめ、人だかりができている靴箱の脇へと視線を向けた。野次馬たちの冷ややかな視線の先に、一人の少年が立っていた。


 佐藤陸。今年入学したばかりの1年生だ。彼は痩せた身体に不釣り合いなほど大きな、そして灰色にくすんだ体操服を着て、周囲の嘲笑を浴びながらうつむいていた。その体操服は、本来なら真っ白であるべきポリエステル生地が、長年の汚れと不適切な洗濯によって、まるでドブ川の底から引き揚げられた布切れのように薄汚れている。


「うわ、またあいつだよ。朝からドブ臭いんだけど」

「なんで毎日あんな汚い服着て平気なんだろ。家で洗ってもらえないのかな」


 ひそひそと囁かれる悪意ある言葉が、陸の細い肩をさらに縮めさせていく。陸は耳まで赤くしながら、自分の靴箱から泥だらけの上履きを取り出し、逃げるようにその場を立ち去った。その小さな背中が通り過ぎた後にも、生温かい泥の匂いが空気中に取り残されていた。


 惣介は、自分の制服の袖口に視線を落とした。糊がピシッと利き、汚れ一つない真っ白なシャツ。実家のクリーニング店で叩き込まれた「自分の服も白くあれ」という自己規律の象徴だ。他人の事情に深入りするつもりは毛頭ない。関われば、自分の心の中にある、あの「家族がバラバラになった過去のシミ」が疼くだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、惣介の指先は、先ほど目撃した「極限の汚れ」を思い出して、奇妙な熱を帯びて震えていた。


 あの体操服の汚れは、ただの「昨日今日ついた泥」ではない。何層にも重なり、繊維の奥深くまで強固に結合した、複合的な「悲鳴」だ。放っておけば、繊維自体が腐食し、二度と元の白さには戻らなくなる。職人としての異常なまでの執着心が、惣介の理性をごりごりと削り取っていった。


 放課後、惣介の足は自然と体育館裏へと向かっていた。錆びついた部活動の用具や、使われなくなった古いネットが山積みにされた、薄暗い倉庫の陰。そこはいじめグループの溜まり場であり、学校の死角だった。


「おい、大人しくしろよ、ドブネズミ」


 荒々しい声が響く。惣介が物陰から覗き込むと、2年生のいじめグループのリーダー、安藤俊介とその腰巾着たちが、陸をコンクリートの壁に押しつけていた。陸の足元には、無惨に踏みにじられ、水たまりの泥水を吸ってさらに黒ずんだ体操服が転がっている。


「その汚い服、お前にお似合いだよな。いっそもっと汚してやるよ」


 安藤がニヤニヤと笑いながら、陸の胸元を突き飛ばす。陸は抵抗する気力すら失った虚ろな目で、ただ地面の泥を見つめていた。その瞳には、諦めと深い孤独が張り付いている。


「おい」


 静かな、しかしよく通る声が、倉庫陰の重苦しい空気を切り裂いた。安藤たちが驚いたように振り返る。そこには、猫背で無表情な惣介が、制服のポケットに手を突っ込んだまま立っていた。


「あ? なんだお前。洗川か。関係ねえ奴はすっこんでろよ」


 安藤が威嚇するように一歩踏み出してくる。だが、惣介の視線は、安藤の凶暴な顔には一切向いていなかった。彼の両目は、地面に落ちている「灰色に汚れた体操服」だけに釘付けになっていた。


 惣介は無言で歩みを進め、安藤の脇をすり抜けて陸の前にしゃがみ込んだ。そして、泥だらけの体操服の襟元を掴み、顔を極限まで近づけて凝視し始めた。その異常な行動に、安藤たちだけでなく、陸自身も恐怖で身体を強張らせる。


「な、何なんだよ、あんた……!」


 陸が怯えた声で、惣介の手を振り払おうとした。だが、惣介の指先は、体操服の繊維を冷徹に掴んで離さない。タッチ・プロファイリング――惣介の指先が、布地の混紡比率を瞬時に読み解く。綿35%、ポリエステル65%の標準的なスクール体操服。しかし、生地の厚みは本来の半分以下に摩耗し、繊維の隙間には、粘土質の泥粒子がこびりついている。


「……ドブの匂いがする」


 惣介がぽつりと言い放った最悪の第一声に、陸の顔が屈辱で歪んだ。「やっぱり、あんたも僕を馬鹿にしに……」


「違う」


 惣介は遮るように、さらに低い声でまくし立てた。


「この匂いは、皮脂汚れの酸化による酸性臭と、湿気で繁殖した真菌――つまり黒カビの排泄物の匂いだ。さらに、この泥汚れはただの砂じゃない。粘土質の微細な炭素粒子が、水分を伴ってポリエステルの親油性繊維の奥深くまで入り込んでいる。このまま放置して乾燥させれば、泥粒子が繊維と完全に化学結合し、ポリエステルを物理的に破壊する。この服は、今すぐ適切な洗浄を行わなければ、死ぬ」


「は……? 何言ってんだ、こいつ……」


 安藤たちが呆気にとられて顔を見合わせる。陸もまた、目の前の先輩が発した、理解不能な洗濯の専門用語の連発に、言葉を失って固まっていた。


「放っておいてくれ! 僕が汚いのが悪いんだ、どうせ洗っても無駄なんだから!」


 陸が悲痛な叫びを上げ、惣介の手から体操服を強引に奪い返そうと引っ張った。その瞬間、体操服に付着していた湿った泥が、惣介の制服の真っ白な袖口にべっとりと擦り付けられた。


「あ……」


 陸が息を呑む。惣介の「自分の服も白くあれ」という絶対的な原則が破られた瞬間だった。だが、惣介は自分の汚れた袖口など一瞥もせず、ただ陸の体操服を掴む手に、さらに力を込めた。


「服がかわいそうだ」


 惣介の瞳に、一切の妥協を許さない職人の狂気的な光が宿る。その眼差しは、陸を哀れんでいるのではなく、ただ目の前で破壊されようとしている「繊維の悲鳴」を止めることだけを求めていた。その純粋すぎる熱量に、陸の頑なな猜疑心が一瞬にして圧倒される。


「……明日までに、返せばいいんだな」


 惣介はそう言い残すと、陸の手から体操服を半ば強引に引き剥がし、自分のスクールバッグへと押し込んだ。安藤たちが「おい、待ちやがれ!」と怒鳴る声を背中で聞き流しながら、惣介は一度も振り返ることなく、夕暮れの旧校舎へと歩き出した。


 旧校舎二階の家庭科準備室。霧島先生から預かった真鍮の鍵で扉を開けると、夕日が差し込む薄暗い部屋に、業務用洗濯機「ブルー・スワン号」が静かに佇んでいた。惣介は作業台の上に、陸から回収した泥だらけの体操服を広げた。


 室内の電灯を点け、惣介は「シミ・リーディング」を開始する。光にかざし、シミの輪郭を観察する。体操服の表面を覆うのは、乾燥しかけた校庭の砂埃だ。これは「難易度1:物理的付着汚れ」に過ぎない。適切なブラッシングで落とせる。


 だが、問題はその奥だ。襟元や脇の下、そして背中の部分に、何層にも重なった薄黒い輪郭(リング)が形成されている。これは長期間、適切な洗剤を使わずに水洗いだけで済ませていたために、体温で溶け出した皮脂が酸化し、黄色く変色した上から、さらに泥や埃が吸着して固化した「化学的酸化汚れ」だ。そして、繊維の網目の最深部には、黒い点状のシミが点在している。これは、カビだ。


「家で、洗ってもらえていない……」


 惣介の脳裏に、陸の虚ろな目と、家庭環境の歪みが静かに浮かび上がる。これは単なる学校でのいじめの跡ではない。家庭という、本来最も安全であるべき場所で放置され続けた少年の、洗えない孤独の証明だった。


 惣介は、実家からこっそり持ち出してきた「実家の余り粉洗剤」の缶を棚から取り出した。そして、重曹の白い粉末を作業台に並べる。


「……よし、やるか」


 惣介は小さく呟き、タライに冷水を張り始めた。明日までに、この汚れを完璧に落とし、あの少年に返さなければならない。時間制限は、明日の登校時間まで。惣介の、最初の「心のシミ」を洗い流す戦いが、静かに幕を開けた。


 しかし、体操服の繊維をさらに細かく観察していた惣介の手元が、ふと止まった。


 体操服の裾、そして裏側に付着している泥の粒子。それは、校庭の乾いた砂土とは明らかに異なっていた。水分を異常に多く含み、粘土質で、微かに湿った「腐葉土」の匂いが混ざっている。


「これは、校庭の泥じゃない……」


 惣介の目が、鋭く細められた。この泥は、学校の誰も近づかない、あの「ある暗部」の泥だ――。

HẾT CHƯƠNG

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