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動き出したスワンと、最初の鍵

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夕暮れ時の旧校舎は、まるで時間を止めてしまったかのように静まり返っている。新校舎の喧騒から切り離されたこの場所には、古い木造床の軋む音と、窓から差し込む斜陽のオレンジ色だけが残されていた。


 洗川惣介は、猫背の背中をさらに丸めながら、旧校舎二階の最奥にある家庭科準備室の引き戸を静かに引いた。乾いた木枠が擦れる音が、誰もいない廊下に小さく響く。室内に入ると、鼻をくすぐったのは、長年放置された布製品特有の埃っぽい匂いと、微かなカビの気配だった。


「……誰もいないな」


 惣介は小さく呟き、制服の袖を肘の上まで腕まくりした。彼の指先は、同世代の高校生に比べて少し荒れている。実家の「洗川クリーニング店」で、幼い頃から冷水と洗剤に触れ続けてきた職人の手だ。


 惣介は他者と深く関わることを避けている。他人の内面に踏み込むことは、泥だらけの泥水に自ら飛び込むようなものだ。自身の家族がバラバラになり、母親が失踪したあの火事の夜から、惣介の心には「他人の汚れ(秘密)には関わらない」という強固なバリアが張られていた。それなのに、衣服の汚れや、放置された古い機械を見ると、どうしても身体が勝手に動いてしまう。それは、呪いに近い執着だった。


 準備室の最奥、埃をかぶった古いミシンや錆びたタライが乱雑に積み上げられた物置スペース。その薄暗い闇の中に、そいつは佇んでいた。


 東洋洗濯機製作所製、業務用小型洗濯機「ブルー・スワン号」。


 昭和の高度経済成長期に造られた頑丈な鉄製の筐体は、至る所が錆びつき、塗装が剥げかけている。だが、惣介の目には、その無骨な佇まいが美しく映った。指先で冷たい金属の表面に触れる。タッチ・プロファイリング――指先の感覚だけで、金属の劣化具合や、内部の配管の詰まり、モーターの固着状態を測る技術。惣介の脳裏に、洗濯機が抱える悲鳴が直接流れ込んでくるようだった。


「ベルトの緩みと、配線の断線……給水バルブの固着か。まだ、死んでない」


 惣介はポケットから、実家からこっそり持ち出したマイナスドライバーとペンチを取り出した。誰に頼まれたわけでもない。ただ、動かない機械がそこに放置されているのが、耐え難かったのだ。これは不法侵入であり、見つかれば生徒会や教師から厳しい処分を受けるリスクがある。しかし、彼の職人としての衝動は、その管理規則を簡単に凌駕していた。


 床に膝をつき、錆びついた背面パネルのネジを一本ずつ慎重に外していく。内部の配線は、経年劣化で被覆が破れ、銅線が剥き出しになっていた。惣介は手際よくペンチで断線部分をカットし、新しい端子を取り付けて繋ぎ直す。


「痛っ……」


 残留電気が指先に走り、軽い静電気のような衝撃が走る。惣介は眉をひそめ、煤で汚れた指先を制服のズボンで無造作に拭った。「自分の服も白くあれ」という彼自身の原則に反する行為だったが、今は洗濯機を動かすことしか頭になかった。


 コイン投入口をバイパスし、手作りの配電盤からトグルスイッチへと配線を直結する。これで、コインを入れずともスイッチ一つでドラムが回るはずだ。給水ホースのバルブを錆落としスプレーで滑らかにし、排水パイプの詰まりを手作業で掻き出す。ドロドロとした古い石鹸カスが床にこぼれ落ちた。


 作業に没頭するあまり、惣介は背後に近づく足音に全く気づいていなかった。


「おい、そこでコソコソ何をやっている」


 突然、背後から投げかけられた低い声に、惣介の身体が硬直した。振り返ると、準備室の入り口に、よれよれのジャージを着た女性が立っていた。片手には使い古されたコーヒーカップ、もう片方の手には懐中電灯。家庭科教諭であり、この旧校舎の管理を任されている霧島恵だった。


 惣介はとっさにドライバーを隠そうとしたが、手元は油と煤で真っ黒だ。言い訳など通用しない状況だった。


「あの、これは……落とし物を探していて……」


「落とし物を探すのに、洗濯機の裏板を全部外す奴があるか?」


 霧島はため息をつき、懐中電灯の光を惣介の顔、そして分解された洗濯機の内部へと向けた。惣介は最悪の事態を覚悟した。不法侵入、備品の器物破損。生徒会に突き出されれば、即座に活動停止処分、あるいは停学だ。


 しかし、霧島の視線は、惣介が繋ぎ直した完璧な配線と、美しく磨かれたモーター部分で止まった。彼女の目が、微かに見開かれる。


「……あんた、これ、自分で直したのか?」


「……はい。配線が死んでいたので、繋ぎ直しました。モーターはまだ生きています。ベルトを少し締め直せば、十分に回ります」


 惣介は、嘘をつくのをやめ、職人としての事実だけを淡々と告げた。霧島は無言のまま、洗濯機の側面に貼られた古い銘板「ブルー・スワン」を見つめた。その瞬間、彼女の瞳の奥に、寂しげで、どこか遠い記憶を愛おしむような光が宿るのを、惣介は見逃さなかった。まるで、十年前の何かを思い出しているかのような、複雑な微笑み。


「全く、お節介なガキね」


 霧島はコーヒーを一口啜り、準備室の鍵束から、古びた真鍮製の鍵を一本外した。そして、それを惣介の目の前にある作業台の上に、カランと音を立てて置いた。


「職員室のキーボックスから『紛失』扱いになっていた予備の鍵よ。私がここに置き忘れたことにするから、勝手に拾いなさい」


「え……?」


「ただし、火事だけは起こさないこと。それと、生徒会や風紀委員に見つかったら、私は全力で『知らない』って言い張るからね。ここは私の領分だけど、大人のルールってのは面倒なのよ」


 霧島はそれだけ言うと、背を向けて準備室を出て行った。引き戸が閉まる直前、彼女は「スワンを、よろしくね」と、誰に言うでもなく小さく呟いた。


 静寂が戻った準備室で、惣介は真鍮の鍵を手に取った。ずっしりとした重みと、金属の冷たさが手のひらに伝わる。大人の黙認。それは、彼がこの学校で初めて手に入れた、「自分の居場所」への鍵だった。


 惣介は深く息を吐き、洗濯機の電源プラグを壁のコンセントに差し込んだ。そして、手作りのトグルスイッチを、静かに押し上げる。


 カチリ、と音がした。


 次の瞬間、沈黙していたブルー・スワン号が、深く重い低音を響かせて震え始めた。給水弁が開き、古い配管を通って冷たい水がドラム内へと流れ込む。金属のドラムがゆっくりと回転を始め、規則的な「ガタゴト、ガタゴト」という駆動音が、木造の床を通じて惣介の足元を揺らした。


 窓の外は、すっかり陽が落ちて藍色の闇が広がり始めている。暗い準備室の中で、洗濯機の丸い窓から漏れる青いLEDの光だけが、惣介の顔を静かに照らしていた。


 ガタゴト、ガタゴト。


 その規則的な鼓動は、まるでこの古い校舎の心臓が再び動き出したかのようだった。惣介は無言のまま、水が渦巻くドラムを見つめ続けた。彼自身の張り詰めていた心が、その振動と同調し、僅かに解きほぐされていくのを感じていた。


 だが、この静かな始動が、学校中の「訳ありな落とし物」を引き寄せる嵐の始まりになるとは、この時の惣介はまだ知る由もなかった。


 翌朝。


 昇降口へと続く廊下は、登校してきた生徒たちのざわめきで満ちていた。靴箱の脇に、不自然な人だかりができている。野次馬の隙間から、惣介の鋭い嗅覚が、朝の澄んだ空気に混ざる「ある不快な匂い」を敏感に察知した。


 湿った泥の匂い。酸化した古い汗の臭気。そして、繊維が腐食しかけている嫌なカビの気配。


 人だかりの隙間を覗き込んだ惣介の目は、床に投げ捨てられた「ある制服」に釘付けになった。見るも無惨に黒泥を被り、異臭を放つ、灰色の体操服――。

HẾT CHƯƠNG

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