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白刃の退魔師、外道の烙印

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世界が、半分に引き裂かれていた。


 右耳の奥に広がるのは、完全なる無音の深淵。風の囁きも、鏡池の波立つ音も、自分自身の荒い呼吸音さえも、右半身からは一切届かない。ただ不気味な高音の耳鳴りだけが、左耳から入る不完全な音の風景を掻き乱していた。


「は、ぁ……っ」


 泥塗れの地面に跪いた霧島晴斗は、喉を震わせようとした。だが、声は出ない。冷気を含んだ「忘却の毒霧」を肺腑の奥まで吸い込んだ代償――喉の凍傷は、彼の声帯を凍てつかせ、掠れた息の音を吐き出すことしか許さなかった。失声状態。叫ぶことも、弁明することもできない絶望が、冷たく喉元を締め付ける。


 さらに、自身の右頬に左手で触れた瞬間、指先から伝わってきたのは、生身の皮膚の温もりではなかった。冷たく、硬く、乾いた白木の質感。指先を這わせるたびに、檜の年輪のような無機質な凹凸が、自らの輪郭を削り取っていることを生々しく伝えてくる。


(同調率、五十パーセント……。俺の顔が、本当に能面に……)


 右半身の感覚が完全に消失していく恐怖に耐えながら、晴斗は左手の中にあった『境界の渡し船の古銭』を強く握りしめた。これだけは、何があっても手放すわけにはいかない。妹の鳴を救うための、浅草地下冥府へと続く唯一の切符なのだから。


 だが、その執念を遮るように、対岸からの足音が泥を静かに踏みしめた。


「――そこまでだ、外道」


 左耳だけが捉えた冷徹な声。霧が晴れかけた池の対岸に立つ少年――神代零は、白木の祓刀を抜き放ち、その刃先を正確に晴斗の喉元へと向けていた。


 仕立ての良い狩衣風の制服を纏ったその姿は、夜明け前の薄暗い御苑のなかで、異様なほどに清浄な気配を放っている。規律を重んじ、穢れを徹底的に排除する神代家・新宿警備部の若き退魔師。彼の瞳には、晴斗に対する容赦のない敵意と、冷酷な裁きの光が宿っていた。


「怪異の仮面を被り、境界の秩序を乱す者よ。神代の名において、その穢れをここで祓う」


 零の言葉は、晴斗の事情など一切顧みない。彼にとって、顔の半分を神木化させ、禍々しい影の力を振るう晴斗は、新宿を騒がせる『仮面蒐集会』の邪悪な外道使いに過ぎなかった。


 晴斗は必死に首を振り、出ない声を絞り出そうとした。

(違う、俺は蒐集会なんかじゃない……! 鳴を、妹を助けたいだけだ……!)

 しかし、喉から漏れ出たのは、ヒュー、という乾いた空気の漏れる音だけだった。言葉による誤解の解除など、この喉が凍りついた瞬間から、世界のシステムによって最初から禁じられていたのだ。


「問答は無用。その肉体、すでに怪異の神木と深く同化している。これ以上の侵食は、現世への害悪でしかない」


 零の足元から、微かに青い五行の光が立ち上った。彼が白木の祓刀を微かに傾けた瞬間、刃先から眩いばかりの純白の閃光――『五行の退魔光』が放たれた。


 それは、闇を焼き尽くし、あらゆる穢れを無に帰すための容赦のない光だった。光を浴びた周囲の泥土が、一瞬にして白く乾き、砂となって崩れていく。


(来る……っ!)


 晴斗は本能的に、近くにある立ち枯れた巨木の影へと逃れようとした。影の中に身を滑り込ませ、瞬間移動する『影渡り』を発動させるために。


 しかし、零の放った退魔光は、晴斗の予測を遥かに超えていた。白き閃光が鏡池の周囲を文字通り「全方位」から照らし出したのだ。強い光の照射により、御苑の森に存在していたあらゆる死角、あらゆる濃淡が、一瞬にして物理的に消滅した。影が、この空間から完全に奪い去られたのだ。


「影を使う術式か。だが、我が退魔の光の前には、潜む闇など存在し得ない」


 零の冷徹な声と共に、白木の祓刀が神速の軌道を描いて晴斗の首元へと迫る。影を失った晴斗には、瞬間移動の退路など残されていなかった。


(動け……、動け、俺の身体……!)


 右半身の木化による強張りと、激しい疲弊で鉛のように重い身体。晴斗は生身の反射神経だけを頼りに、泥を蹴って強引に上体を後ろへと反らした。


 視界の端を、白木の刃が放つ眩い閃光が通り抜ける。紙一重。しかし、完全に回避することはできなかった。鋭い霊力の刃が晴斗の黒いパーカーのフードを物理的に切り裂き、鋭い風圧が彼の生身の左頬を薄く切り裂いた。赤い血が、白い砂の上に一滴、滴り落ちる。


 体勢を崩し、泥の上に転がった晴斗の頭上へ、零は追撃の手を緩めずに踏み込んできた。白木刀が描く五行の軌道は、一切の無駄がなく、美しく、そして冷酷だった。


「五行結界――『木・火・土・金・水』。巡りて、外道の回路を閉ざさん」


 零が白木刀を地面に突き刺した瞬間、晴斗を取り囲むように、空中へ五つの発光する呪符が実体化した。呪符は互いに光の糸で結ばれ、晴斗を閉じ込める強固な障壁を形成していく。


 結界が完成した瞬間、晴斗は胸を強烈な圧力で押し潰されるような感覚に襲われた。体内の霊力回路が、外側から物理的にロックされていく。顔に癒着した狐神の仮面から流れ込む霊力が、結界の力によって急速に遮断され、彼の身体から力が抜けていく。


(仮面の力が……消える……? このままじゃ、捕まる……!)


 捕まれば、この古銭も、鳴を救うための手段もすべて失われる。それだけは、死んでも受け入れられない。


『くく、みっともないねえ、少年。正義の味方に嬲り殺しにされる気分はどうだい?』

 脳内で白織が嘲笑う。だが、その声には、晴斗の執念がここで潰えることを拒む、不気味な愉悦が混ざっていた。

『お前のその、バグだらけの眼を使いな。神の台本に、一ミリの歪みもないなんてことはあり得ないのさ』


 白織の言葉に弾かれるように、晴斗は左眼――生身の『不眠の眼』を極限まで見開いた。


 ドクン、と心臓が激しく脈打つ。左眼の毛細血管が引き裂かれ、視界が真っ赤に染まった後、世界は一瞬にして色彩を失い、モノクロの静止画へと変貌した。重度の不眠症によって現実と睡眠の境界に張り付いた晴斗の脳波が、零の展開した結界の「構造」を直接ハッキングし始める。


 晴斗の視界に、結界を形成する光の糸のなかに、一筋の細い赤い線が視認された。五行のエネルギーが循環する、その接点。そこだけ、ほんの僅かに、一ミリにも満たない霊力の「歪み」が生じていた。


(あそこだ……っ!)


 晴斗は震える右手で、ベルトの裏に隠し持っていた『影縫いの小刀』を抜き放った。右腕はすでに木化の兆候による軽い痙攣を起こしており、感覚はほとんどない。それでも、彼は残されたすべての霊力を小刀の刃先へと集中させた。


 そして、身体を這わせるようにして、結界の『一ミリの歪み』へと小刀を突き刺した。


 同時に、左ポケットの中の『神楽の鈴』を、衣擦れの音に紛れさせて微かに振動させる。チリ……と冷たい、しかし極めて鋭い鈴の音波が、小刀を伝って結界の歪みへと直接叩き込まれた。


 キィィィィン――!


 耳を劈くような金属の摩擦音が、晴斗の左耳の中で爆発した。五行結界の光の糸が、鈴の音波の共鳴によって激しく乱れ、ハチの巣のようにひび割れていく。


「何……っ!? 結界の脈絡を突いたというのか!?」


 神代零の冷徹な表情が、初めて驚愕に歪んだ。完璧であるはずの神代家の退魔術が、名もない仮面使いの泥臭い一撃によって、内側から強制的にショートさせられたのだ。


 パリン、と硝子が砕けるような音と共に、五行結界が霧散する。だが、その代償は晴斗の肉体を容赦なく蝕んだ。限界以上の共鳴を強行した結果、右手の指先から、すべての温もりと感覚が完全に消え去った。指先の触覚の完全な麻痺。彼は、自身の手が小刀を握っているのかすら、視覚でしか確認できなくなっていた。


「だが、まだ終わらん……!」


 零は瞬時に体勢を立て直し、白木刀を構えて晴斗の喉元へと突進してくる。その速度は、結界を破った直後の晴斗の動体視力を遥かに凌駕していた。


(まともにやっても、絶対に逃げ切れない……!)


 晴斗は、不眠の眼で自身の足元を見つめた。結界が壊れたことで、周囲の立ち枯れた木々の影が、僅かに地面に復活している。彼は、自身の「本物の影」を、肉体から物理的に切り離すイメージを脳内で急激に膨らませた。


「影縫い・壱号――!」


 無言の叫びと共に、晴斗の足元から漆黒の影が立ち上がり、仮面を被った晴斗自身の姿を完璧に模した「デコイ」となって、零の白木刀へと向けて突撃した。影の偽装逃走戦術。


「小細工を!」


 零の白木刀が、突撃してきた影の晴斗を一刀のもとに両断した。清浄な退魔光が影の肉体を包み込み、一瞬にしてそれは黒い霧となって浄化消滅していった。式神が消滅した瞬間、晴斗の脳髄に、脳を引き裂かれるような強烈な精神的フィードバックが走り抜ける。


「が、はっ……!」


 しかし、その一瞬の隙こそが、晴斗が求めた唯一の活路だった。本物の晴斗は、デコイが斬られるのと同時に、池のほとりにある古い排水口の影の中へと、自身の肉体を滑り込ませていた。『影渡り』。影から影へと、音もなく瞬間移動する暗殺の歩法。


 ドサリ、と冷たいコンクリートの感触が、晴斗の左半身を打った。新宿御苑の池から靖国通りへと繋がる、暗黒の地下排水路。現実世界では立ち入り禁止の、陽の光が一切届かない暗渠の底だ。


「……逃げたか。だが、あの穢れの深さ、長くは持つまい」


 排水口の上から、零の冷徹な声が微かに響き、やがて去っていった。追撃を振り切ったのだ。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 晴斗は湿ったコンクリートの床に横たわり、激しく息を荒げた。全身の筋肉が千切れんばかりに軋み、右頬の木化部分は冷たく凍りついている。右耳は死んだように静まり返り、右手の指先は感覚を失ってピクリとも動かない。肉体も、精神も、完全に限界を迎えていた。


 このまま、暗闇のなかで意識を失えば、二度と目覚めることはないかもしれない。不眠の防壁が消えれば、仮面の神性に脳を完全に乗っ取られ、目鼻のない「無貌」の怪物になってしまう。


『くく、酷い有り様だねえ、少年。死にたくなければ、私の力を使いなよ』


 暗闇のなか、懐の狐神の仮面から、白織の甘く不気味な囁きが脳内に直接響いた。


『お前のその醜い白木の顔じゃ、明日学校へ行けば一瞬で化け物だとバレる。琴音だって、二度とお前を見てはくれないだろうね。……教えてあげるよ。影の霧でその木肌を覆い、他人の生身の皮膚に見せかける、とっておきの「偽装」の方法をね』


 白織の囁きと共に、晴斗の右頬の木化皮膚の奥から、黒い影の触手がじわじわと這い出し、凍りついた顔面を覆い尽くそうとうごめき始めた――。

HẾT CHƯƠNG

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