木化の兆し、影縫いの牙
泥濘の底で、少年は死者の悲鳴に溺れていた。
新宿御苑の鏡池のほとり、黒く濁った『霊子泥土』に叩きつけられた霧島晴斗の視界は、どす黒い怨念のノイズで塗り潰されていた。耳を塞いでも、脳髄に直接流れ込んでくる何百もの死者の絶叫。それらは、境界空間に呑まれ、世界から存在を消去された哀れな漂流者たちの末期の未練だった。
(助けて、冷たい、私は誰、お母さん、忘れないで――)
「が、は……っ」
喉の凍傷のせいで、掠れた悲鳴すら声にならない。泥に触れた皮膚から冷たい穢れが侵入し、右頬の木化が痙攣を伴って首筋へと這い上がっていく。感覚が失われていく。不眠症によって過敏になった脳波が、死者の悲鳴と共鳴し、晴斗の自我の輪郭を急速に融解させていた。昨日、学校の教室で英語の教科書を開いた時の、あのアルファベットがただの無意味な幾何学記号に見えた絶望が、再び脳裏をよぎる。こうして、俺は一つずつ自分を失い、最後にはのっぺらぼうの怪物になるのだ。
『くく、心地よいか、少年。このまま泥の一部となり、すべてを忘れてしまえば楽になれるぞ』
脳髄の特等席で、狐の耳を持つ英霊・白織が妖艶に、そして冷酷に囁く。仮面の眼孔の向こうで、金色の瞳が愉悦に細められるのが分かった。
(うる、さい……。俺は、まだ……)
その時、晴斗の左手首にきつく巻かれた『鳴の赤い髪飾り』が、じゅっと音を立てるほどの猛烈な熱を放った。肉が焦げるような、しかし魂を現世に引き留めるための絶対的な熱。世界から消された妹の、兄を呼ぶ執念の光が、泥に塗れた晴斗の左眼を鋭く照らし出した。
「――っ!」
晴斗は泥から顔を跳ね上げた。金色の虹彩を放つ生身の左眼――『不眠の眼』が、モノクロに反転した視界のなかで、包囲する無数の子蛇と、その背後に聳え立つ『鏡池の守護蛇』の霊力の『脈絡』を捉える。
水蛇が放つ『忘却の毒霧』は、池の周囲のあらゆる影を概念的に消去し尽くしていた。影がなければ、影渡りも影壁も使えない。だが、影がないなら、創り出すまでだ。
晴斗は声を失った喉の奥で、無言の呪文を唱えた。右手の親指の爪を、自らの牙で強引に噛み切る。生々しい痛みが脳を覚醒させた。溢れ出たのは、微かに青い光を帯びた、霧島家相伝の『神解きの血液』。晴斗はその手を、鏡のように静まり返った池の水面へと物理的に叩きつけた。
「影縫い・弐獣召喚――!」
自身の血液が黒い水面に触れた瞬間、波紋が広がり、その中心から漆黒の闇が津波のように噴き出した。影を消去する毒霧に抗うように、晴斗の血液を糧とした巨大な影が垂直に立ち上がる。
ゴゴゴゴゴ、と境界空間の空間そのものを軋ませる音が響き、泥の中から這い出てきたのは、壱号の数倍の巨躯を持つ、漆黒の毛並みの巨大な狐だった。だが、その姿は異様だった。巨大な影の獣の肉体を覆うのは、白木の檜(ヒノキ)で削り出された、幾重もの能面の甲冑――『影縫い・弐号』。弐号は、主である晴斗を守るように立ちはだかり、水蛇に向けて音のない咆哮を放った。その咆哮の衝撃波だけで、周囲を這い寄っていた子蛇の群れが、一瞬にして泥の霧となって爆散する。
「シャアアアアッ!」
危機を察知した鏡池の水蛇が、鎌首をもたげ、その巨大な半透明の身体をうねらせて突進してきた。口から吐き出されるのは、万物を融解させる最大出力の『忘却の毒霧』。灰色の霧が、弐号の檜の甲冑へと襲いかかる。
晴斗は泥濘の中に膝をついたまま、肺を千切れんばかりに広げ、『神降ろしの呼吸法・序ノ型』を限界まで維持した。喉の凍傷が凍てつき、肺の内部が凍りつくような激痛が走るが、彼はその冷たい霊気を脳の松果体へと送り込み、弐号との同調率を極限まで跳ね上げた。
「防げ、弐号……!」
晴斗の意志と同期し、弐号の檜の甲冑が黒い影の防壁と融合し、巨大な『影壁』の盾となって毒霧の直撃を受け止めた。ジジジジ、と概念が融解する不気味な音が響き、檜の甲冑の表面が激しく火花を散らす。しかし、晴斗の執念が注ぎ込まれた盾は破れない。水蛇の放つ毒霧の結界を、弐号の質量と強固な防護力が物理的に弾き返していく。
(今だ、動くな……!)
呼吸が乱れかけ、白織の神性が晴斗の自我を乗っ取ろうと脳内で暴れ狂う。左眼から、一筋の血の涙が流れ落ちた。しかし、晴斗はそれを無視し、不眠の眼で水蛇の喉元に流れる霊力の脈絡が、弐号の突撃によって一瞬だけ固定されたのを見逃さなかった。
弐号が巨大な影の顎を開き、水蛇の半透明の喉元へと深く噛み付いた。水蛇が苦悶にのたうち回るが、檜の甲冑がその巨体を地面の泥へと物理的に縫い留める。
晴斗は泥を蹴って跳躍した。弐号の影を足場にし、水蛇の頭上へと舞い上がる。右腕に狐神の爪を具現化し、残された全霊力をその一撃に圧縮する。
「影縫い・壱閃――!」
虚空を切り裂く漆黒の爪の閃光。水蛇の脳天から喉元にかけて、赤い霊力の脈絡に沿って一筋の影の刃が走り抜けた。一瞬の静寂の後、体長十数メートルの巨蛇の身体が、ガラスが砕けるような音と共に真っ二つに両断され、黒い泥水となって池へと崩れ落ちていった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
晴斗は池のほとりに着地すると同時に、激しい脱力感に襲われ、泥の中に両手をついて跪いた。仮面を強引に剥ぎ取ろうとするが、右顔面の皮膚が、まるで最初からそうであったかのように、冷たく硬い感触に変貌していることに気づく。
ミシミシ、ミシミシ――。
静まり返った御苑の森に、乾いた、しかしおぞましい木の軋み音が響き渡る。晴斗の右頬から耳、そして首筋にかけての皮膚が、完全に無機質な白木の『檜の木肌』へと硬化していた。触れても、冷たい木彫りの能面の感触しか返ってこない。感覚の完全な消失。同調率50%の臨界点への到達だった。
さらに、突如として右側の世界からすべての音が消え去った。激しい耳鳴りの後、右耳の聴覚が完全に失われ、左耳だけで拾う不完全な静寂が彼を包む。
(これが、代償……)
晴斗が絶望に震える手で自身の顔を覆ったその時、水蛇の死骸が溶けた池の底から、青い光を放つ小さな物体が浮かび上がってきた。それは、寛永通宝に似た、錆びついた古い銅銭――『境界の渡し船の古銭』だった。表面には「常世」の文字が薄く刻まれている。これこそが、浅草地下冥府へと繋がる幽霊電車の乗車券。
晴斗が震える左手でその古銭を拾い上げた、その瞬間だった。
「――そこまでだ、外道」
右耳の静寂を破り、左耳の鼓膜を、冷徹で凛とした少年の声が震わせた。
晴斗が顔を上げると、霧が晴れかけた池の対岸に、一人の少年が立っていた。仕立ての良い狩衣風の制服を纏い、端正な顔立ちをしたその少年は、一切の穢れを許さない鋭い眼光を晴斗に向けている。その手には、清浄な霊力を放つ一振りの『白木の祓刀』が握られていた。
神代家の次期当主、神代零。
零は白木刀を晴斗へと向け、冷酷に言い放った。
「怪異の仮面を被り、境界の秩序を乱す者よ。神代の名において、その穢れをここで祓う」
白木刀の刃先から、闇を切り裂くような清浄な退魔の光が放たれ、晴斗の周囲の泥を白く焼き払い始めた。
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