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鏡池の深淵、逆さまの新宿

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深夜の新宿御苑は、静寂という名の怪物に支配されていた。


 昼間の都会のオアシスとしての顔は完全に剥ぎ取られ、そびえ立つ木々は黒い手のひらのように夜空を覆い隠している。立ち入り禁止の重い鉄柵を乗り越える際、手のひらに触れた鉄の冷たさが、晴斗の皮膚を刺すように冷やした。


「……っ、う……」


 喉の奥から漏れ出たのは、掠れた呼気だけだった。雅楽代の工房での過酷な修行――『神降ろしの呼吸法・序ノ型』を強行した代償である喉の凍傷は、未だに癒えていない。まともな声を発することはできず、ただ肺腑を冷たい空気が通り抜けるたびに、剃刀で削られるような痛みが走る。


 晴斗はフードを深く被り、右頬に触れた。千代から手に入れた『記憶の雫』のおかげで、能面のように硬化していたヒノキの質感は一時的に和らいでいる。しかし、それは一時しのぎの麻酔に過ぎないことを、晴斗は痛いほど自覚していた。


 昨日の朝、教室で教科書を開いた時の、あの冷酷な喪失感が脳裏をよぎる。アルファベットという記号の意味が、頭の中から綺麗に削ぎ落とされていた。英語の知識という、日常を維持するための知性を切り売りして、彼はこの動く肉体と、鳴を救い出すための数日間の時間を買い取ったのだ。もう、後戻りはできない。


 晴斗は左手首にきつく巻き付けられた『鳴の赤い髪飾り』に触れた。縮緬のざらついた感触と、そこから伝わる微かな、だが確かな温もりだけが、彼の壊れかけた自我を現世に繋ぎ止める唯一の錨だった。


「行くぞ、白織」


 心の中で呼びかける。脳髄の奥で、狐の耳を持つ少女の霊が、ふんと鼻を鳴らす気配がした。


『水門へ潜るのだろう、少年。だが忘れるなよ。あの池の底は、生者を引きずり込む常世の泥濘だ。お前の薄汚れた記憶など、一瞬で溶けて消えるぞ』


 警告を無視し、晴斗はうっそうと茂る木々の隙間を抜け、御苑の中心に位置する『鏡池』へと辿り着いた。


 池のほとりに立った瞬間、晴斗の息が止まった。水面は、風もないのに波一つ立たず、まるで不気味な黒い鏡のように静まり返っている。そしてその水面には、星空でも木々の影でもなく、上下が反転した『もう一つの新宿のビル群』が、血のような赤と漆黒のネオンを放ちながら歪んで映し出されていた。


 ビル群の隙間には、無数の鳥居が逆さまに突き刺さり、まるで巨大な墓標のように並んでいる。千代の言葉は真実だった。この池の底こそが、浅草地下冥府へと繋がる境界の水門なのだ。


 晴斗が水門をスキャンするため、左眼の『不眠の眼』を覚醒させようとした、その瞬間だった。


 ゴボリ、と池の中央から巨大な気泡が湧き上がった。黒い水面が激しく波打ち、反転した新宿の街並みが粉々に砕け散る。水底から立ち上る凄まじい霊気の奔流に、晴斗の懐にある『神楽の鈴』が、チリチリと狂ったように鳴り響いた。


 現れたのは、半透明の歪んだ巨躯を持つ、体長十数メートルに及ぶ大蛇――『鏡池の守護蛇』だった。


 その皮膚は冷たい水で形成されたように透き通り、体内には逆さまの新宿のビル群の残影が、まるで内臓のように蠢いている。水蛇の巨大な赤い眼が、池のほとりに立つ晴斗を捉えた。言葉なき咆哮が、物理的な衝撃波となって周囲の木々を激しく揺らす。


 水蛇が鎌首をもたげると同時に、その裂けた口から、灰色に濁った霧が吐き出された。それこそが、触れた者のアイデンティティを融解させる『忘却の毒霧』だった。


 霧は一瞬にして池の周囲を包み込み、月光を遮って世界を暗黒へと変えていく。晴斗は咄嗟に身を翻そうとしたが、異変はすぐに起きた。足元を見下ろした晴斗の背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走る。


(影が……消えていく……)


 忘却の毒霧が這い寄るにつれ、晴斗の周囲の地面から、あらゆる輪郭が失われていく。電柱の影も、木々の影も、そして自分自身の影さえも、灰色の霧に貪り食われるようにして完全に消失していくのだ。


 影がなければ、彼の最大の武器である『影渡り』は発動できない。瞬間移動の座標を失った晴斗は、水上に逃げ惑う生身の高校生と同等の、圧倒的な物理的劣勢に追い詰められた。


 水蛇がその巨躯をくねらせ、水面を滑るようにして晴斗へと突進してくる。水しぶきが嵐のように舞い、逃げ場のない池のほとりで、晴斗は死の窮地に立たされた。


(落ち着け……呼吸を乱すな……!)


 声を失った喉を強引に鳴らし、晴斗は脳波を『覚醒と睡眠の境界』へと張り付かせた。左眼の瞳孔が限界まで収縮し、虹彩が金色に変貌する。『不眠の眼』の覚醒。モノクロへと反転した視界のなかで、迫り来る水蛇の体内に流れる霊力の『脈絡』が、太い赤い線となって視認された。


 赤い線の動きが、水蛇の次の一手を先読みする。左へ、いや、上空からの叩きつけだ。


 晴斗は泥を蹴って右へ跳んだ。直後、彼がいた場所のコンクリートが、水蛇の巨大な尾によって爆破されたように粉砕される。飛び散る破片が晴斗の頬をかすめ、血が滲む。


 しかし、毒霧は容赦なく彼の肺へと侵入しようとしていた。吸い込めば、今度は何の記憶を失うかわからない。晴斗は左手をポケットにねじ込み、真鍮製の『神楽の鈴』を掴み出すと、頭上で全力で振り鳴らした。


「チリン、チリリン――!」


 澄んだ、しかし耳を劈くような冷たい音波が、同心円状の衝撃波となって周囲に放射された。音波が忘却の毒霧と物理的に衝突し、晴斗の周囲数メートルだけ、霧が引き裂かれるようにして霧散した。一瞬だけ、月光が差し込み、足元に『自身の影』が復活する。


「今だ……!」


 影が消える前に、晴斗は自身の影を垂直に立ち上げ、厚さ数センチの漆黒の強固な防壁――『影壁』を展開した。


 直後、水蛇の口から放たれた、高圧の水流突撃『激流波』が影壁へと激突する。凄まじい金属音が響き渡り、影壁の表面が激しく軋み、火花を散らした。晴斗は両脚を泥に深く沈め、全身の骨が軋むほどの衝撃に耐え抜いた。スタミナと霊力が秒単位で削られ、右頬の木化部分が「ミシミシ」と熱い痛みを放ち始める。


 防壁が耐えきれるのはあと数秒。晴斗は影壁を解除すると同時に、残された一瞬の影を利用して跳躍した。水蛇の巨体を駆け登り、その脳天へと『影縫いの小刀』を突き立てるための、決死の特攻だった。


 だが、水蛇の反応速度は晴斗の予測を上回っていた。空中へ逃げ場のない体勢で躍り出た晴斗の視界に、反転した新宿のビル群の影が迫る。水蛇の巨大な尾が、鞭のようにしなって晴斗の胴体を捉えた。


「がはっ……!」


 強烈な打撃が晴斗の脇腹を直撃した。肋骨が悲鳴を上げ、晴斗の肉体は放物線を描いて池のほとりの黒い泥地へと叩きつけられた。


 顔面から泥の中に突っ伏した晴斗を、さらなる地獄が襲う。その泥は、ただの土ではなかった。数百年かけて堆積した死者の未練と怨念が混ざり合った『霊子泥土』だったのだ。


 泥が皮膚に付着した瞬間、晴斗の脳内に、冷たいノイズと共に「見知らぬ誰かの悲鳴」が津波のように流れ込んできた。


『助けて、冷たい、私は誰、お母さん、忘れないで――』


 何百人もの死者の断末魔の叫びが、不眠症によって過敏になった彼の鼓膜を内側から爆破するように鳴り響く。激しい聴覚過敏と偏頭痛。泥から伝わる死者の怨念が、晴斗の脳を内側から掻き回し、彼の精神の核(アイデンティティ)を急速に汚染していく。右頬の木化皮膚が、激しい痙攣と共に首筋へと数ミリ広がっていくのがわかった。感覚が失われていく恐怖と激痛に、晴斗は泥を握りしめて悶絶した。


 水蛇は勝利を確信したように、再びその半透明の巨躯をうねらせ、泥地に倒れる晴斗を見下ろした。そして、池の水面が再び激しく泡立ち、水蛇の周囲から、何十匹もの半透明な子蛇の怪異が這い出てくる。子蛇たちは赤い眼を光らせ、晴斗を完全に包囲するようにして泥地を這い寄ってきた。


 忘却の毒霧が再び立ち込め、晴斗の足元の影を完全に消去していく。身体は激痛で動かず、影も使えない。死者の悲鳴が脳内を支配し、晴斗の意識は暗黒の忘却へと沈みかけ、彼の目は光を失いかけた。


 その絶対的な絶望のなかで、晴斗の左手首に巻かれた『鳴の赤い髪飾り』が、突如として物理的な熱を帯びた。


 ジュッ、と皮膚が焼けるような強烈な熱。それは、世界から消し去られた妹が、兄の魂を呼び戻すために放った、執念の赤い光だった。髪飾りの絹糸の一本一本が、闇の中で血のように赤く、そして強く発光し始める――。

HẾT CHƯƠNG

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