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比丘尼の取引、失われる知性

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花園神社の鳥居を包んでいた青い火炎が、夜風に揺れながらゆっくりと収束していく。神域の地主神が放つ微かな黄金の残光と、晴斗の展開した「影壁」の漆黒の霧が交じり合い、参道には奇妙な静寂が満ちていた。


 足音の主――火男の背後から近づいていた複数の気配は、神社の結界が一時的に復元した光の波動を警戒したのか、闇の奥へと静かに退いていった。これ以上の強襲はない。だが、晴斗に安堵する余裕など微塵もなかった。


「がはっ……! う、ぅ……」


 仮面を外し、鳥居の根元に崩れ落ちた晴斗は、激しく胸を掻きむしった。喉の奥が熱い鉄を流し込まれたように熱く、同時に氷の針で滅多刺しにされたように冷たい。雅楽代から伝授された『神降ろしの呼吸法・序ノ型』を実戦で強行した代償だった。極限の冷気を強引に肺腑へ送り込んだ反動で、気管支が物理的に凍傷を起こしている。掠れた声すら出ない。喉が完全に潰れ、音を失ってしまったのだ。


 さらに恐ろしいのは、右頬の感覚だった。指先で触れても、そこには皮膚の温もりがない。カチカチとした、硬く冷たい木の質感。鏡を見ずともわかる。変身を解除した今も、右頬の皮膚が不気味なヒノキの木肌へと不可逆的に硬化し始めているのだ。引き攣れるような痛みが、右耳の奥へとじわじわと這い登っていく。


(このままじゃ……鳴を見つける前に、俺は完全に『木の人形』になる……)


 焦燥が、冷たい泥のように心臓を侵食していく。不眠症の脳が、警告の金属音を耳の奥で鳴らし続けていた。この浸食を止める方法を、晴斗は一つだけ知っていた。雅楽代の古文書に記されていた、新宿の境界空間の片隅に現れるという謎の比丘尼――千代の存在だ。彼女だけが、仮面の浸食を一時的に遅らせる唯一の特効薬『記憶の雫』を精製できるという。


 晴斗は黒いパーカーのフードを深く被り、右顔の木化を隠しながら、深夜の街へと這い出した。目的地は、夜間は完全な禁足地となる「新宿御苑」の鏡池。現実の境界をすり抜け、人が立ち入れない闇の領域へと、影を滑るようにして侵入した。


 日没後の新宿御苑は、現実の緑豊かな公園とは完全に異なる様相を呈していた。そびえ立つ木々は黒い手のひらのように夜空を遮り、空気は肌を刺すほどに冷たい。その中心に広がる鏡池(かがみいけ)のほとりに辿り着いた瞬間、晴斗の足が止まった。


 池の水面は、風もないのに波一つ立たず、まるで一枚の巨大な黒い鏡のように静まり返っていた。そしてその水面には、現実の夜空ではなく、上下が反転した「もう一つの新宿のビル群」が、歪んだネオンの光と共に不気味に映し出されていた。


「おや、珍しい客人が来たね。それも、ずいぶんと無茶なハッキングをしたものだ」


 静寂を裂いて、鈴の鳴るような、しかし底冷えする声が響いた。


 池のほとりに立つ一本の枯れ木の影から、滑るようにして一人の女性が姿を現した。着物姿のその女性は、二十代半ばの妖艶な美女に見えた。しかし、その瞳の奥には、数百年という果てしない歳月を生き抜いた者だけが持つ、凍りついた虚無が揺らめいている。人魚の肉を喰らい、不老不死の呪いを受けた比丘尼――千代だった。


 千代の手には、微かに青い光を放つ小さな「白磁の瓢箪」が握られていた。


 晴斗は声の出ない喉を押さえながら、必死に彼女を見つめた。千代は音もなく晴斗との距離を詰めると、冷たい指先を、晴斗の右頬の硬化した木肌へと滑らせた。


「ふむ……皮膚の同調率が上がっている。第二階梯:仮面同調者への移行が始まっているね。このままでは、あと数日のうちに君の脳髄までヒノキの繊維が侵入し、目鼻のない『無貌の神使』になってしまうよ」


 千代は白磁の瓢箪を軽く振った。中から、チャプ、と澄んだ水の音が響く。その音を聞くだけで、晴斗の右頬の引き攣れが微かに和らぐような気がした。瓢箪の中に眠っているのは、死者の未練の泥水を濾過して作られた『記憶の雫(レムリア)』。浸食を一時的に遅らせる唯一の延命薬だ。


 晴斗は懇願するように、千代の持つ瓢箪を指差した。声が出ないため、視線と手の動きだけで懇願するしかない。


「欲しいかい? いいよ。だけど、私の取引は等価交換が鉄則だ。この『記憶の雫』を精製するには、純度の高い『人間の記憶』を濾過フィルターの触媒にしなければならない」


 千代は薄く笑い、晴斗の目を覗き込んだ。


「君の脳内にある『記憶』を、私に切り売りしてもらう。……そうね、歌舞伎町のゴミ捨て場の臭いとか、昨日すれ違った他人の顔といった、価値のないゴミのような記憶ではこの雫は作れない。もっとお前の脳に深く刻まれた、純粋な『知性』や『概念』をよこしなさい」


 晴斗の脳裏で、狐神の仮面の英霊である白織が、おぞましい牙を剥いて咆哮した。


『何を舐めた口を……晴斗、その比丘尼を喰い殺せ! その瓢箪ごと『記憶の雫』を奪い取ればいい! 私がお前の肉体を動かしてやろう!』


 白織の狂暴な神性が晴斗の右目を赤く染め、右手の影の爪が「メキメキ」と実体化しかける。しかし、晴斗は強引に『神降ろしの呼吸』を肺に送り込み、白織の衝動をねじ伏せた。不老不死の比丘尼を相手に、声を失い木化の進む今の身体で戦いを挑むなど、自殺行為でしかなかった。


 晴斗は懐から「忘却の手帳」を取り出し、ペンを握る感覚のない左手で、震えながら文字を書き殴った。


『代わりに、何を奪う』


 千代はその文字を眺め、満足そうに目を細めた。


「君が学校で学んだ『英語の知識の記憶』をすべて、私の白磁の瓢箪に吸い取らせてもらう。単語の意味、文法の規則、発音の仕方……君が積み上げてきたその知性を、この瓢箪の濾過触媒としてパージしてもらうよ」


 英語の知識。それは、都立高校に通う晴斗にとって、日常を維持するための重要な知性の一部だった。それを失えば、明日からの学校生活がどうなるか、想像するだけで背筋が凍る。しかし、天秤にかけるまでもなかった。知性を失うことと、妹を救う前に怪物となって死ぬこと。どちらを選ぶべきかなど、最初から決まっていた。


 晴斗は深く頷き、手帳を閉じた。


「賢い選択だ。では、取引を始めよう」


 千代の白く細い指先が、晴斗の左右の顳顬(こめかみ)へと押し当てられた。氷のように冷たい霊力が、晴斗の脳内へと容赦なく侵入してくる。


「――く、っ……あ、あああ……!」


 声にならない悲鳴が、晴斗の喉の奥で押し潰された。脳髄を直接、銀の剃刀で削り取られているかのような、凄絶な精神的激痛が走る。脳内のニューロンが物理的に引き裂かれ、引き抜かれていく感覚。晴斗の左眼から、青く光る涙のような光の粒が溢れ出した。


 それは、彼が中学から高校にかけて必死に暗記した英単語、授業で書いたノートの記憶、アルファベットの配列といった「英語の概念」そのものだった。青い光の帯となった晴斗の知性が、千代の指先を通じて、白磁の瓢箪の中へと吸い込まれていく。脳の一部が、物理的に「凍結」し、急速に白紙へと塗り替えられていく恐怖に、晴斗は白目を剥いて痙攣した。


 どれほどの時間が経っただろうか。千代が指を離した瞬間、晴斗は泥の上に激しく突っ伏した。頭痛が割れるように響き、脳の一部に、ぽっかりと冷たい空洞が穿たれていた。


「はい、これが代価の『記憶の雫』だよ」


 千代は瓢箪から、青く光り輝く一滴の液体を晴斗の口元へと垂らした。喉を通ったその液体は、冷たい霧となって晴斗の全身へと行き渡る。瞬時に、右頬の皮膚の強張りが和らぎ、硬化していたヒノキの繊維が、微かに柔らかい人間の皮膚の質感へと戻っていくのがわかった。痛覚と感覚が、一時的に右顔面へと戻ってくる。


「……ふぅ、っ……」


 晴斗は泥を握りしめ、荒い呼吸を繰り返した。延命には成功した。だが、その代償の重さは、まだこの時の彼には理解できていなかった。


「一つ、良いことを教えてあげよう」


 立ち去ろうとする千代が、鏡池の黒い水面を指差した。


「君が捜している妹、鳴(メイ)の身体はね……この新宿の境界よりもさらに深い場所――『浅草地下冥府』の底に沈められている。そして、そこへ繋がる水門は、この鏡池の底に隠されているんだよ。……もっとも、今の君の同調率では、潜った瞬間に水蛇の毒霧に記憶を溶かされて、二度と戻れなくなるだろうけどね」


 千代は不敵な笑みを残し、夜の霧の中へと溶けるように消え去った。後に残されたのは、静まり返った鏡池と、脳内に穿たれた冷たい空白を抱えた晴斗だけだった。


 ――翌朝。


 晴斗は、重い足取りで都立新宿山吹高校の教室に座っていた。「仮面偽装の術」で右頬の僅かな強張りを隠し、何事もなかったかのように授業に臨もうとしていた。


 一限目のチャイムが鳴り、英語の教師が教壇に立つ。教師が黒板に向かってチョークを走らせ、英語の教科書を開くよう指示した。


 晴斗は机の上の教科書を開いた。しかし、その瞬間、彼の全身の血の気が一時に引いていくのを感じた。


「……っ!? これ、は……」


 教科書の紙面に並んでいるのは、かつて見慣れていたはずの『A』や『B』といったアルファベットではなかった。それは、意味を完全に失った、不気味な「幾何学的な記号の羅列」にしか見えなかった。単語の並びも、文法の構造も、すべてが脳内で完全に融解し、ただの無意味なノイズとして視覚を滑り落ちていく。


 教師が読み上げる英語の発音も、ただの不快な雑音(ノイズ)にしか聞こえない。ノートに書かれた自分の筆跡すら、何語で書かれているのか理解できなかった。


 晴斗は、震える手で自身の頭を抱え込んだ。脳内のあの冷たい空白が、物理的な喪失となって彼に牙を剥いていた。彼は確実に、日常の知性を削り落とされ、人間としての輪郭を失いながら「摩耗」し始めていたのだ。


 その絶望のなかで、彼の懐にある「神楽の鈴」が、チリ……と、冷たい警告の音を微かに響かせた。まるで、日常への未練を断ち切り、次の境界へと進めと急かすように――。

HẾT CHƯƠNG

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