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神降ろしの呼吸、不眠の防壁

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肺腑が凍りつく。その一呼吸は、剃刀の刃を何百枚も喉奥へ流し込まれたかのような、凄絶な激痛を伴うものだった。


「無駄な力が入っている。息を吸うのではない。境界の冷気――『神降ろしのおろし』を、脳の松果体へと直接滑り込ませるのだ。肺を広げろ、小僧。己の肉体をただの空洞と化せ」


 新宿の雑居ビル地下二階、雅楽代古美術店のさらに奥に隠された薄暗い工房。古いお香の匂いと樟脳の香気が立ち込める空間で、晴斗は上半身を裸にし、畳の上に両膝をついていた。背後からは、盲目の老能楽師――雅楽代宗次の冷徹な声が響く。突如、背中に白木の杖が「トン」と鋭く叩きつけられた。


「がはっ……!」


 晴斗の口元から、氷のように白い息が一本の細い糸となって吐き出された。それと同時に、胸の奥から押し寄せる強烈な悪寒に、激しく咳き込む。呼吸を整えようとするたびに、肺の内部が物理的に凍りついていくような痛みが走り、視界がチカチカと明滅した。


「それが『神降ろしの呼吸法・序ノ型』だ」


 雅楽代は閉ざされた眼のまま、白木の杖を床に突いた。


「狐神の仮面を被ることは、神のハッキング端末を脳に繋ぐことと同義。通常の脳波のままでは、お前のニューロンは一瞬で上書きされ、自我は消滅する。だが、この呼吸法によってお前の『不眠の脳波』を仮面の神性と完全に同調させれば、脳の侵食――記憶の消費速度を三分の一に抑え込むことができる。……ただし、その代償はお前の肉体が引き受けることになるがな」


 晴斗は震える手で自身の右頬に触れた。今朝、さらに強張りを増した皮膚は、触ると完全に冷たいヒノキの質感へと変貌していた。右腕には、客喰いの爪によって破られた黒いパーカーの右袖と、その下に巻かれた痛々しい包帯が残っている。指先の触覚は一時的に完全に失われており、己の顔に触れているという感覚すら、泥の向こう側にあるように曖昧だった。


 さらに、脳の片隅には、ぽっかりと冷たい空白が広がっていた。昨日まで頭の中にあったはずの、学校の英語の授業の記憶。単語の意味も、文法の規則も、まるで最初から存在しなかったかのように、手帳のインク精霊「頁(ページ)」に喰われて消え去っている。学業という日常の知性を切り売りして、彼は「霧島晴斗」という少年の輪郭を辛うじて繋ぎ止めているのだ。


「休んでいる暇はないぞ、小僧」


 雅楽代の言葉が、重く響く。


「仮面を狙う『仮面蒐集会・新宿支部』の猟犬どもが、すでに動き始めている。お前が一度でも呼吸を乱せば、仮面の神性はお前の脳を内側から喰らい尽くすだろう」


「わかって、る……!」


 晴斗は掠れた声で応じ、再び肺を極限まで広げた。氷の針を吸い込むような苦痛のなかで、必死に「神降ろしの呼吸」を維持しようとした、その時だった。


 晴斗の黒いパーカーのポケットの奥で、真鍮製の「神楽の鈴」が、チリ……と冷たく、警告の音を激しく響かせた。


「――来たか」


 雅楽代の閉ざされた眼が、鋭く細められた。晴斗は立ち上がり、白木の面箱に仮面を収める間もなく、それを懐にねじ込んで工房を飛び出した。鈴の微細な振動は、彼にある特定の場所を指し示していた。新宿歌舞伎町に隣接する、あの黄金の結界に守られた聖域――花園神社だ。


 夜の帳が下りた新宿の街は、すでに現実と境界空間のグラデーションに染まり始めていた。ネオンの色彩が不気味な血の赤へと退色し、ビルの隙間から古い千本鳥居の幻影が重なり合って出現する。晴斗はフードを深く被り、右頬の木化を隠しながら、影を滑るように走った。


 花園神社の鳥居の前に辿り着いた瞬間、晴斗の肌を襲ったのは、夜の冷気ではなかった。肺腑を物理的に圧迫するような、凄まじい熱風と、鼻を突く硫黄の悪臭だ。


「ヒャハハハ! 燃えろ、燃えろ! 神の結界など、この俺の青炎の前にはただの薪に過ぎん!」


 鳥居の前に立っていたのは、防火服をボロボロに纏い、滑稽な笑みを浮かべた「ひょっとこ」の仮面を被った男――仮面蒐集会の火炎アタッカー、「蒐集員・火男(コレクター・ひょっとこ)」だった。


 火男が口を大きく開くと、その仮面の歪んだ口元から、境界の青い火炎が激しく吹き出された。その炎は通常の火ではない。死者の未練と怨念を燃料とする、精神をも焼き尽くす「穢れ」の青炎だ。神社の参道を守る見えない黄金の結界が、青い炎を浴びて「メキメキ」と物理的な音を立ててひび割れていく。本殿の奥からは、琴音と茜が必死に退魔の祝詞を唱える声が、微かに響いていた。


(柊……神社の結界が破られたら、あいつらまで焼き殺される……!)


 晴斗は懐から「狐神の仮面」を取り出し、右顔面へと強く押し当てた。


「あ、あああああ!」


 肉とヒノキの繊維が物理的に癒着する、あの恐るべき激痛が再び走る。右頬の神経が仮面の呪いと同調し、左目――生身の「不眠の眼」が、血のように赤く発光した。同調率が急激に上昇していく。


「影を渡りなさい、晴斗。あの炎の男、なかなか美味そうな未練を滾らせているじゃない?」


 脳内で白織の妖艶な声が響くのと同時に、晴斗は自身の影に沈み込もうとした。「影渡りの歩法」を繰り出し、火男の背後へと瞬間移動を試みる。


 しかし、その瞬間、晴斗の肉体は影の狭間で激しい衝撃に襲われ、現実世界へと強引に弾き出された。


「がはっ……!?」


 地面に転がり、晴斗は信じがたい思いで周囲を見た。火男が撒き散らす青い火炎の光があまりにも強烈すぎて、地面に存在していたはずのすべての「影」が、物理的にかき消されていたのだ。光が全方位を支配する戦場において、影を渡る瞬間移動は完全に封殺されていた。


「ハハハ! 影のネズミめ、炙り出してやる!」


 火男が晴斗の存在に気づき、仮面の口から一直線に青い炎を放った。それと同時に、彼の周囲に「炎上結界」が展開され、半径十メートルの空気が一瞬で沸騰する。接近した晴斗の黒いパーカーの袖が、熱風だけで「ジリジリ」と焦げ、右腕の裂傷が熱に炙られて激痛を訴えた。


 熱風に含まれる穢れの精神汚染が、晴斗の脳を内側から焼きにかかる。脳髄が沸騰するような眩暈。しかし、その侵食が自我のコアに達する直前、晴斗の左眼の瞳孔が限界まで収縮し、脳内で「キーン」という鋭い警告音が鳴り響いた。


「臨界点:不眠の防壁」――重度の不眠症によって常に緊急覚醒モードにある彼の脳波が、火炎の精神汚染を脳の入り口でギリギリと弾き返す。


(熱い……脳が、焼ける……。だが、負けるわけにはいかない……!)


 晴斗は泥を這うように立ち上がり、極限の熱気のなかで、あえて「神降ろしの呼吸法・序ノ型」を強行した。肺の奥深くに、境界の冷気を無理やり吸い込む。胸の内部を凍りつかせるような凄絶な冷気と、外側から肉体を焼き焦がす青炎の熱風。極端な温度差が、晴斗の肉体を内側と外側から引き裂くような激痛となって襲いかかる。


 しかし、その「極限の冷気」が、熱風による脳の痛覚を一時的に麻痺させ、彼の精神を異常なまでに研ぎ澄ませた。


「白織……力を貸せ……!」


 晴斗は左手で「神楽の鈴」を強く握りしめ、頭上で激しく振り鳴らした。


「チリン――!」


 澄んだ真鍮の音が、物理的な同心円状の衝撃波となって周囲の空気を震わせた。「神楽鈴の共鳴」が炎上結界の熱を物理的に吹き飛ばし、火男の放つ青い光を一瞬だけ遮る。その僅かな暗がりの一瞬、晴斗の足元に、強固な「本物の影」が錨のように固定された。


「影壁(かげかべ)――!!」


 晴斗が床を摺り足で踏みしめると、その足元の影が一瞬にして垂直に立ち上がった。厚さ数センチに及ぶ、漆黒の光沢を帯びた固体化された影の防壁。それが、晴斗の眼前に巨大な盾となって出現する。


 直後、火男が放った最大出力の青い劫火が、影の防壁へと正面から激突した。ゴウ、という地鳴りのような音と共に、防壁の表面が激しく火花を散らし、熱によって黒い霧が蒸発し始める。晴斗の肺は凍りつき、喉は完全に焼き切られたかのように掠れ、一時的に声を発することすらできなくなっていた。


 影の絶対防御と、すべてを焼き尽くす青い火炎。二つの異形の力が、花園神社の鳥居の前で、激しく火花を散らしながら拮抗していた。しかし、その影の壁の向こう側から、さらにおぞましい複数の足音が、ゆっくりと近づいてくる気配が漂い始めていた――。

HẾT CHƯƠNG

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