忘却のインク、白木の箱
目が覚めた瞬間、世界はひどく希薄だった。
新宿区の片隅にある、古びた木造アパートの二階。湿ったカーテンの隙間から差し込む朝光は、灰色に濁って見えた。霧島晴斗はベッドの上に上体を起こし、激しい偏頭痛にこめかみを押さえた。脳髄の奥を冷たい針で突かれるような痛みが、不眠症の彼にとっては日常の始まりを告げる合図だった。
だが、今朝の異常は痛みだけではなかった。
「……俺の、名前は」
声を出そうとして、喉が張り付いていることに気づいた。パニックが、冷たい泥のように足元から這い上がってくる。自分の名前。昨日まで当たり前に口にしていたはずの、自分を定義する最も単純な文字列が、脳の引き出しのどこを探しても見つからない。
「き、り……きりしま……はると」
数秒の恐ろしい空白の後、辛うじて記憶の底から名前を引きずり出した。冷や汗が背筋を伝う。視線を落とすと、左手首に巻かれた赤い縮緬の髪飾りが目に入った。その瞬間、妹の存在が強烈な光となって脳裏に蘇る。
「鳴(めい)……!」
妹の名前は忘れなかった。だが、昨日、歌舞伎町の路地裏で起きた出来事の輪郭は、すでに薄い霧の向こうに霞み始めている。怪異「客喰い」との死闘。そして、救い出したはずのクラスメイト、柊琴音の瞳に宿っていた、自分に対する絶対的な恐怖の色彩。
『あ、嫌……来ないで、化け物……!』
その拒絶の言葉だけが、耳元で呪いのようにリフレインしていた。晴斗は自嘲気味に息を吐き、シーツの上に投げ出された右腕を見た。黒いパーカーの右袖は無残に切り裂かれ、その下には客喰いの爪による生々しい裂傷が、包帯越しに鈍く痛んでいた。そして、右頬。触れてみると、そこには生身の皮膚の温もりはなく、乾燥したヒノキの木肌のような、冷たく硬い強張りが確実に定着し始めていた。仮面を被り、神の力を振るうたびに、彼は人間としての肉体と記憶を削り取られているのだ。
(このままじゃ、鳴を救い出す前に、俺自身が消える……)
昨晩、歌舞伎町の闇から現れたホームレスの老人――源さんの言葉が耳の奥で蘇る。
『おい、小僧。その青い結晶(記憶の雫)は、お前の摩耗を一時的に止める薬だ。だが、それだけじゃ足りねえ。自分の存在を繋ぎ止めたければ、寝る前に自分の血を混ぜたインクで手帳に事実を書き留めろ。そして、新宿の地下にいる盲目の能楽師を訪ねるんだ』
晴斗は震える手で、机の引き出しから昨日購入したばかりの黒い革表紙のシステム手帳を取り出した。右手の指先は、仮面の影響で一時的に触覚を完全に失っており、ペンを握る感覚すら曖昧だった。それでも、左手でカッターナイフを握り、右腕の傷口の包帯を少しずらして、滲む血を万年筆のインク瓶へと一滴落とした。
青黒いインクに、赤い血が混ざり合い、不気味な紫色へと変色する。晴斗はペン先を浸し、手帳の真っ白な紙面に、自身の存在を証明する言葉を書き殴り始めた。
『俺の名前は霧島晴斗。都立新宿山吹高校の一年生。妹の鳴が歌舞伎町の境界空間に消えた。俺は狐神の仮面を被り、怪異を調伏して彼女を探している。昨日、柊琴音を救ったが、彼女は俺を怪物と呼んで逃げ去った。俺の右頬は木化し始めている』
書き終えた瞬間、紙面の上でインクが微かに波打った。血の混ざった文字が金色に明滅し、そこから煤のような黒い霧が立ち上る。霧は空中で凝縮し、手のひらサイズの、インクのシミが集まったような小さな人型の精霊を形成した。
「……お前が、手帳の精霊か」
晴斗が呟くと、精霊――「頁(ページ)」は無言で淡々と頷き、手帳のページをパタパタと捲って、晴斗が書いたばかりの文字を指し示した。頁がこの手帳を守る限り、翌朝目覚めた晴斗が「自分が誰であるか」を忘れることはない。それは、崩壊しつつある晴斗の自我に用意された、悲痛な自律バックアップシステムだった。
だが、対価は即座に支払われた。脳髄の奥で、何かが物理的に千切れ、融解していくような強烈な寒気が走る。
「がはっ……!?」
晴斗は机に突っ伏し、激しく咳き込んだ。脳内の一部が、完全に白紙の空白へと塗り替えられていく感覚。彼は必死に頭を振った。失われたのは何か。鳴の記憶か? 母親の顔か?
(違う……これは……)
今日、学校の夜間部で受けるはずだった、英語の授業の知識だった。単語の意味、文法の規則、昨日まで頭の中にあったはずの学業の記憶が、跡形もなく消え去っている。日常の些細な知識を贄として捧げることで、彼は「霧島晴斗」という本質の輪郭を辛うじて維持したのだ。あまりにも残酷な、等価交換のルールだった。
晴斗はフードを深く被り、アパートを出た。とても学校へ行ける状態ではなかった。琴音と顔を合わせることも、今の彼には耐え難い。
向かうべきは、源さんが告げた場所――新宿の裏路地に潜む、絶対的な安全地帯。
昼間であるにもかかわらず、新宿の雑居ビル街の空気は重苦しく淀んでいた。晴斗は人混みを避け、歌舞伎町の外縁にある、錆びついた商業ビルの地下へと階段を下りていった。地下二階、突き当たりにある古びた鉄の扉。そこには、煤けた真鍮のプレートで「雅楽代古美術店」と刻まれていた。
晴斗がノブに手をかけ、扉を押し開けると、チリン、と冷たい鈴の音が響いた。
店内に満ちていたのは、現実世界の排気ガスの匂いではない。古いお香の甘い香りと、カビ臭い古書の匂い、そして樟脳の強い香気が混ざり合った、時間を凍結させたかのような空気だった。薄暗い店内には、壁一面に不気味な能面が並び、ガラスケースの中には出所不明の古い刀剣や骨董品が押し込まれている。
「誰だ」
店の奥から、低く、しかし驚くほど張り詰めた声が響いた。
帳場の奥に腰掛けていたのは、和服を端正に着こなした痩身の老人だった。白髪を後ろで綺麗に結び、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。その目は静かに閉じられていた。盲目の能楽師――雅楽代宗次だ。
「源さんに……言われて、来ました。俺の、この頬の治療法を知っていると聞いて」
晴斗が踏み出すと、雅楽代は手にしていた白木の杖を、トントン、と畳の床に叩いた。
その微かな振動が、晴斗の右頬の木化皮膚を物理的に震わせる。雅楽代の閉ざされた眼蓋が、正確に晴斗の顔へと向けられた。
「ほう……。重いヒノキの香りと、人間に裏切られた狐の怨念が、この地下まで漂ってくる。小僧、お前、その顔に『狐神の仮面』を癒着させたな?」
「……!」
「隠すな。心眼の剣術を持つ私には、お前の右顔面が、すでに死んだ神木の肉へと変貌し始めているのが、嫌というほど視認できる。愚かなことだ。神の仮面とは、天界の能楽師が人間界を操るための『ハッキング端末』に過ぎん。人間がそれを被るということは、自らの脳を神の意志に差し出す契約を結んだも同然なのだ」
雅楽代の言葉は冷酷だった。晴斗は焦燥感に駆られ、自身の鞄から、布に包んだ狐神の仮面を取り出そうとした。
「見せてやる。俺は、この力を使ってでも、妹を救わなきゃいけないんだ!」
「愚か者が。止めよ」
雅楽代が白木の杖を、一閃させた。
目にも留まらぬ速度で放たれた杖の先端が、晴斗の右手首――裂傷を負い、髪飾りが巻かれた箇所を、正確に突き通した。物理的な衝撃はほとんどなかった。だが、晴斗の体内の霊力の流れが、その一突きによって完全に『遮断』された。
「ぐっ……!?」
全身の力が抜け、晴斗はその場に膝をついた。足元から立ち上がりかけていた影の触手が、一瞬にして霧散していく。仮面の力を、指先一つで完全に封じ込められたのだ。圧倒的な実力差に、晴斗の背中に冷や汗が流れる。
『殺せ……! この盲目の老いぼれを、お前の影の爪で引き裂いて喰らえ……!』
脳内で、仮面に宿る英霊・白織(しおり)の狂暴な声が響き渡る。仮面の神性が、晴斗の脳を乗っ取ろうと激しい精神汚染を仕掛けてくる。晴斗は左目で自身の影を凝視し、奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
「黙れ……白織! 俺の体で、勝手に吠えるな!」
晴斗が脳内で強く念じると、白織の声は不満げな舌打ちを残して沈黙した。それを見た雅楽代は、閉じた目のまま、微かに眉を動かした。
「仮面の意思に抗うか。その不眠症によるバグだらけの脳波、なるほど、神の支配(シナリオ)を狂わせる『器』としては最悪で、最高というわけか」
雅楽代は白木の杖を引き、帳台の奥から、古い桐で作られた頑丈な箱を取り出した。表面には、神聖な霊力を帯びた古い呪符が幾重にも貼られている。これこそが、晴斗の父親がかつて残したものと同系統の、仮面保管容器――「白木の面箱」だった。
「これを持っていけ。仮面を被っていない時は、必ずこの箱の中に封印しておくのだ。さすれば、仮面が放つ不気味な神性が、お前の睡眠中に脳波をハッキングするのを一時的に遮断できる。お前の人間としての残り時間を、数日間だけ猶予するためのセーフツールだ」
晴斗は差し出された白木の箱を見つめた。ずっしりとした重みと、邪気を弾くような清浄な気配が、指先を通じて伝わってくる。
「……どうして、俺を助ける?」
「勘違いするな、小僧」
雅楽代宗次の声が、氷のように冷たく響いた。
「私はお前を助けているのではない。お前がこれ以上、仮面の呪いに呑まれて『無貌の神使』となり、この新宿の街を破壊する怪物になるのを防ぐため、楔を打ち込んでいるだけだ。もし、その仮面を使い続けるつもりなら、私から『神降ろしの呼吸法』を学べ。さもなくば、次の変身でお前の脳は完全に消滅し、最初から存在しなかったこととして、世界から消去されるだろう」
老能楽師の厳しい言葉の裏にある、残酷な真実。晴斗は白木の面箱を強く抱きしめ、唇を噛んだ。
「そして、もう一つ警告しておく」
雅楽代は、閉じた目のまま、新宿の夜の闇を見据えるように言った。
「お前が客喰いを調伏したことで、歌舞伎町の地下を牛耳る『仮面蒐集会・新宿支部』の者どもが、すでに動き始めている。お前の持つ『狐神の仮面』は、彼らにとって何としても手に入れたい禁忌の御神体だ。彼らの構成員が、すでにこのビルの周囲をお前の匂いを追って嗅ぎ回っている。……舞台に上がる覚悟はあるか、小僧」
その言葉と同時に、晴斗のポケットの中で、「神楽の鈴」が、チリ……と冷たく、警告の音を微かに響かせた。
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