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歌舞伎町『常世』の残響

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夕闇が新宿の街を紫黒色に染め上げる頃、東京都立新宿山吹高校の校舎は、昼と夜の境界線上で所在なげに佇んでいた。三部制の定時制課程を持つこの学校は、不眠症に蝕まれた霧島晴斗にとって、辛うじて現実世界に繋ぎ止められている唯一の錨だった。


 しかし、今日の晴斗の脳内を支配していたのは、重苦しい疲弊と、冷たい虚無感だった。


(……母さんの、笑顔は、どんな顔だった?)


 授業中、黒板の文字を見つめながら、晴斗は何度も自問していた。母親の志乃の顔は思い出せる。彼女が自分を心配してくれていることも分かっている。だが、かつて自分を温かく包み込んでくれたはずの「優しい笑い顔」のディテールだけが、記憶の引き出しのどこを探しても見つからない。そこにあるのは、ただ灰色の、のっぺらぼうのような他人の輪郭だけだった。

 仮面を被り、神の力を振るった最初の代償。それはあまりにも生々しく、晴斗の心を内側から削り取っていた。さらに、右頬の皮膚が時折、引き攣るように強張る。前髪を深く下ろし、その異変を隠すようにして、晴斗は机に突っ伏していた。


「――霧島くん、大丈夫?」


 不意に、鈴の鳴るような声が頭上から降ってきた。晴斗が顔を上げると、そこにはクラスメイトの柊琴音が立っていた。黒髪のロングヘアを後ろで清楚に結んだ彼女は、実家である花園神社の防除のお守りを制服の胸元に忍ばせている。その瞳には、晴斗に対する純粋な心配の色が浮かんでいた。


「顔色がすごく悪いよ。また、全然眠れていないの?」


「……別に、いつものことだ。気にするな」


 晴斗は強張る右頬を隠すように顔を背け、冷たく突き放した。これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。世界が妹の鳴を忘れていく中で、琴音だけは晴斗の異変に気づこうとしてくれている。その優しさが、今の晴斗には痛ましかった。彼は鞄を掴むと、終業のチャイムが鳴るのと同時に教室を飛び出した。


 日没が過ぎ、逢魔が時が新宿を包み込む。歌舞伎町の喧騒へと足を踏み入れた瞬間、晴斗の周囲の空気が「変質」した。現実のネオンの光が急激に退色し、血のように赤く淀んだ境界空間の色彩が世界を上書きしていく。ビルの隙間に、歪んだ鳥居の残影が物理的に重なり合って出現する。不眠のバグを持つ晴斗の脳波が、夜の境界空間を強制的に観測し始めたのだ。


「鳴……どこにいるんだ……」


 手首に巻かれた「鳴の赤い髪飾り」の微かな体温を感じながら、晴斗は薄暗い路地裏を進む。その時、鼻腔を突いたのは、安っぽい香水の匂いと、何かが腐敗したような甘ったるい悪臭だった。境界のノイズが、晴斗の鼓膜を不快に震わせる。


「――ねえ、お姉さん。僕と一緒に、もっと楽しい場所へ行かない?」


 路地の奥から、男の慇懃無礼な声が響いた。ホストのような派手なスーツを着た男が、一人の少女を壁際に追い詰めている。男の顔には、人間のものとは思えない、異様に引き裂かれた「偽りの笑顔」の仮面が張り付いていた。歌舞伎町の捕食者――怪異「客喰い」だ。


 そして、その客喰いに魅了され、虚ろな目で影の深淵へと引きずり込まれそうになっている少女の姿を見て、晴斗は息を呑んだ。


「……柊、琴音……!?」


 なぜ彼女がここにいるのか。実家の神社の結界を越え、彼女の強い霊感が、この境界空間の歪みに引き寄せられてしまったのだろうか。琴音の目は焦点を失い、客喰いが足元から広げる漆黒の影の沼へと、泥酔したように足を沈めかけていた。


「やめろ……!」


 晴斗は懐から「狐神の仮面」を取り出し、自身の右顔面へと強く押し当てた。肉とヒノキの繊維が物理的に癒着する、あの恐るべき激痛が走る。右頬の神経が仮面の呪いと同調し、左目――生身の「不眠の眼」が、血のように赤く発光した。


「影を渡るよ、少年。あの怪異は、人間の未練を喰らう汚らわしい獣だ」


 脳内で白織の妖艶な声が響くのと同時に、晴斗は自身の影に沈み込んだ。「影渡り」――電柱やビルの影を滑るように瞬間移動し、晴斗は一瞬で客喰いと琴音の間に割り込んだ。影の爪を具現化した右腕を振り抜き、客喰いの腕を弾いて琴音を強引に引き離す。


「ギャアッ!? 誰だ、僕の食事を邪魔する奴は!」


 客喰いが耳を裂くような金切り声を上げた。その瞬間、男の顔面の「偽りの笑顔の皮」がベリベリと剥がれ、空間に無数の、宙に浮かぶ不気味な笑い顔の残像が放出された。視界全体が狂った笑顔のモザイクに覆われ、晴斗の視覚が完全に狂わされる。


「柊、下がれ!」


 晴斗は叫び、生身の体で琴音を庇うように立ち塞がった。しかし、視界を奪われた隙を突かれ、客喰いの異常に引き伸ばされた鋭い爪が、晴斗の黒いパーカーの袖を物理的に切り裂いた。右腕に熱い痛みが走り、鮮血が飛び散る。


「くっ……!」


「あははは! 騙されるがいい、人間の醜い笑顔に!」


 無数の笑い顔が包囲してくる。だが、晴斗はパニックに陥る脳を、不眠症の過敏な脳波で強制的に覚醒させた。左目の「不眠の眼」が金色に変調し、世界の色彩がモノクロへと反転する。宙に舞う無数の笑顔の残像の裏側に、血管のように蠢く「霊力の赤い流れ」が一本の線として見えた。本物の客喰いの位置が、そこにある。


 晴斗は左ポケットから「神楽の鈴」を掴み出し、天に向けて激しく振り鳴らした。


『チリン――!』


 氷のように冷たい真鍮の共鳴音が、物理的な衝撃波となって同心円状に広がった。衝撃を浴びた客喰いの笑顔の幻影が、ガラスが割れるように一斉に粉砕され、霧散していく。


「なっ、僕の笑顔の皮が……!」


「これで、終わりだ」


 晴斗は摺り足で踏み込み、自身の影を客喰いの足元へと一気に伸ばした。式神の力を右腕に同化させる。「影縫い・壱閃」――!

 伸ばした漆黒の影が、客喰いの足元の影を地面に物理的に縫い留め、その身動きを完全に封じる。客喰いが絶望に目を見開いた瞬間、晴斗の右腕に具現化した影の巨大な爪が、無音の速度でその首元を一閃した。


 切り口から黒い霧が噴き出し、客喰いの巨躯は泥のように崩れ落ち、境界空間の闇へと溶けて消えていった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 変身を解除した晴斗の脳を、強烈な疲弊と割れるような偏頭痛が襲う。右頬の皮膚が、これまで以上に硬く、冷たく強張っていく感覚。右手の感覚が、一時的に完全に麻痺していた。これ以上の連続同調は、自我の崩壊を意味している。


 晴斗は、足元に倒れ込んでいる琴音に目を向けた。彼女は境界の霧から解放され、呼吸を荒くしながらも、意識を取り戻しつつあった。


「大丈夫、か……?」


 晴斗は声をかけ、彼女に手を伸ばそうとした。しかし、琴音が顔を上げた瞬間、晴斗の動きは凍りついた。


「あ、嫌……来ないで、化け物……!」


 琴音の瞳に宿っていたのは、絶対的な恐怖だった。彼女には、仮面を被った晴斗の姿が、影の爪を蠢かせ、右顔面を不気味なヒノキの木肌に変貌させた「異形の怪物」にしか見えていなかったのだ。彼女は晴斗の手を拒絶するように払い除けると、腰を抜かしながらも、必死に路地の奥へと逃げ去っていった。その背中を見送る晴斗の心に、冷たい、鋭い楔が突き刺さる。


(俺は……誰を救うために、この仮面を被り続けているんだ?)


 他者を救うたびに、他者から恐れられ、忘れ去られていく孤独。晴斗は血の滲む右頬を震える手で覆い、その場に跪いた。


 その時、客喰いが消滅した泥の跡から、チリ、と微かな音が響いた。晴斗が視線を落とすと、そこには、人間の幸福な思い出が結晶化した、青く輝く丸い珠――「記憶の雫」が転がり落ちていた。


 それを見つめる晴斗の背後の暗闇から、不気味な、しかしどこか哀愁を帯びた足音が、ヒタ、ヒタ、と近づいてくる気配が迫っていた。

HẾT CHƯƠNG

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