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狐の隠れ処、鉄の掟

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「すり……すり……」


古びた衣服が擦れ合う不気味なノイズが、血のように赤い境界空間の空気に溶けていく。目も鼻も口もない、ただ古い和紙のお札を顔面に貼り付けた異形の群れ――「能人形・無貌」が、関節をミシミシと軋ませながら距離を詰めてくる。


不眠症によって極限まで研ぎ澄まされた霧島晴斗の聴覚は、人形たちのお札の裏側から漏れ出る「ヒタ、ヒタ」という濡れた粘着音を、脳髄の奥で直接受信していた。頭痛がひどい。割れるような偏頭痛が、視界を赤く染め上げていく。物理的な攻撃は通用しない。非常階段を登っても空間の歪みによって元の路地裏に引き戻される。退路は完全に断たれていた。


(ここで、俺は消えるのか……?)


能人形たちの白い、骨のような手が晴斗の顔面に届こうとしたその刹那、朽ち果てた廃神社の祠の前に、忽然と現れた白木の面箱。その表面に貼られた封印の呪符が、生き物のように微かに蠢いた。


「それを開けなさい、不眠の少年」


頭の中に、冷たく、しかし鈴を転がすように美しい少女の声が響き渡った。現実の耳からではなく、脳の松果体に直接突き刺さるような、妖艶な響き。


「抗うか、それともここで無貌の泥人形として記憶を喰われるか。選ぶのはお前だ。妹を捜し出すという、その狂気のような執念が本物なら――その箱を開け、私を抱きなさい」


「鳴を……救うためなら……っ!」


晴斗は叫び、手首の「鳴の赤い髪飾り」が放つ火傷しそうなほどの熱に背中を押されるようにして、白木の面箱へ手を伸ばした。封印の呪符を力任せに引き剥がす。箱の蓋が跳ね上がり、中から古いヒノキの乾いた匂いと、微かなお香の香りが立ち上った。


箱の底に収められていたのは、二つの器物だった。一つは、切れ上がった赤い眼と、何かを嘲笑うような不気味な笑みをたたえた「狐神の仮面」。もう一つは、真鍮で作られた古ぼけた三段の「神楽の鈴」。


「我が名は白織。さあ、契約を始めよう」


脳内の声が歓喜に震えた。晴斗は迫り来る能人形の爪先から逃れるように、狐神の仮面を掴み、自身の顔へと強く押し当てた。それが「仮面同調の儀」の始まりだった。


「あ、が……っ!? ぁあああああ!」


凄まじい激痛が晴斗の右顔面を襲った。仮面の裏側から、まるで生きているヒノキの根のような無数の細い木質触手が這い出たのだ。触手は晴斗の皮膚を物理的に突き破り、筋肉の繊維を割り、神経の束へと直接潜り込んでいく。肉と木が、生々しい音を立てて癒着していく。右頬が、首筋が、仮面の神性と物理的に一体化していく感覚に、晴斗は絶叫した。


不眠症の脳波が、仮面の放つ強烈な神性と異常な周波数でシンクロしていく。晴斗の左目――生身のまま残された唯一の眼が、血のように赤く発光した。


「影を渡りなさい。お前の足元には、無限の闇が広がっている」


白織の囁きと同時に、晴斗の足元の影が液体のように蠢き、垂直に立ち上がった。「影渡り」の力が、彼の肉体を包み込む。能人形の骨ばった手が晴斗の喉元を掴む直前、彼の肉体は漆黒の影へと溶け込み、その場から音もなく消失した。


「すり……?」


標失った能人形たちが、困惑したようにお札を揺らす。その背後に広がる鳥居の影から、平らな影が立ち上がり、霧島晴斗の姿へと再構成された。彼の右腕には、漆黒の影で形成された巨大な獣の爪が具現化していた。


「そこだ……!」


晴斗は摺り足の型で踏み込み、先頭の能人形の首元を影の爪で切り裂いた。物理攻撃を煙のように透過させていたはずの怪異の肉体が、影の爪に触れた瞬間、黒い霧となって激しく霧散した。断末魔の代わりに、お札が「チリ、チリ」と焦げる不気味な音が響く。


「すり、すり、すり!」


仲間を消された能人形たちが、関節を「ミシミシ」と激しく軋ませながら、一斉に晴斗へと襲いかかった。四方から伸びる白い手の包囲網。しかし、晴斗は「影渡りの歩法」を本能的に繰り出した。体重移動の音を完全に消し、自身の影が隣の影と接触した瞬間に、肉体を滑り込ませる。能人形たちの手が空を切り、晴斗はその影を伝って彼らの死角へと瞬間移動を繰り返した。


影の爪が閃くたびに、能人形の肉体が泥のように崩れ落ちていく。だが、仮面がもたらす圧倒的な身体強化と万能感の裏で、晴斗の脳内には恐るべき「侵食」が始まっていた。


「ふふ、素晴らしいだろう? だが、忘れるな、少年。力には対価が必要だ。お前の脳のニューロンは、いま私の神性によって上書きされている」


白織の冷酷な笑い声が、脳髄の奥で反響する。急激な忘却の波が晴斗を襲った。自分がなぜここにいるのか、誰を救おうとしているのか――自我のコアが急速に融解していく。視界が白濁し、膝が折れかける。


その時、左手首に巻かれた「鳴の赤い髪飾り」が、皮膚を焼き切るほどの物理的な熱を放った。脳裏に、妹の泣き顔が鮮烈に蘇る。


(俺がここで消えたら……誰が鳴を覚えているんだ!)


「うおおお!」


晴斗は叫び、左手に強く握りしめていた「神楽の鈴」を天に向けて激しく振り鳴らした。澄んだ、しかし氷のように冷たい真鍮の音が、物理的な同心円状の衝撃波となって周囲の空間を震わせた。


「神楽鈴の共鳴」――衝撃波を浴びた能人形たちの顔に貼られたお札が、一斉に「パン、パン」と乾いた音を立てて弾け飛んだ。お札を失った人形たちは、ただの古い衣服の塊となって地面へと崩れ落ち、動かなくなった。


静寂が、境界空間を支配した。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


晴斗は荒い息を吐きながら、右顔面に癒着した仮面に手をかけた。指先が仮面の縁に触れた瞬間、引き剥がすことへの本能的な拒絶反応が走る。しかし、彼は歯を食いしばり、力任せに仮面を顔から引き剥がした。


「あ、あああああ!」


肉とヒノキの繊維が物理的に引き裂かれる、凄まじい激痛。右頬から血が滲み、晴斗はその場に崩れ落ちた。仮面が外れた瞬間、脳のニューロンが無理やり元の形に歪められるような、割れるほどの偏頭痛が彼を襲う。右頬の皮膚が、極初期の木化による微かな強張りを帯びていた。


そして、脳の奥深くから、最も大切な何かが「物理的に削り取られた」ような、冷たい虚無感が急速に広がっていった。


夜が明ける前の午前四時。這うようにして新宿の現実世界へと戻り、アパートの自室のドアを開けた晴斗は、居間のソファの横に立ち尽くす母親、志乃の姿を目にした。


「晴斗……? どこへ行っていたの? 顔色が真っ白よ。また眠れなかったのね……」


志乃が心配そうに声をかけ、晴斗の顔を覗き込んだ。晴斗は彼女の顔を見つめた。しかし、その瞬間、彼の全身の血液が凍りついた。


(……母さんの、笑顔は、どんな顔だった?)


志乃の顔のパーツははっきりと見える。彼女が自分を心配していることも理解できる。だが、彼の記憶のなかにあったはずの、幼い頃から自分を温かく見守ってくれた「母親の優しい笑顔」のディテールが、脳内のどこを探しても、完全に消え去っていた。志乃の表情が、ただの無機質な灰色の他人のようにしか見えない。


これが、仮面を被った最初の代償。「母親の笑顔の記憶」の完全な喪失だった。


晴斗は自身の右頬の、微かに硬化し始めた皮膚を震える手で触りながら、戻れない片道切符の旅が始まったことを、底知れぬ恐怖と共に理解した。

HẾT CHƯƠNG

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