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忘却の急流と白紙の式神

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鉄塊が引き裂かれる絶叫が、暗黒の虚空に響き渡った。


 レールを外れ、制御を失った幽霊電車は、奈落の底へと真っ逆さまに落下していく。窓ガラスが次々と物理的に砕け散り、その破片と共に、冷たく粘り気のある黒い泥水が車内へと一気に流れ込んできた。新宿の地下深く、靖国通りのさらに底に隠された禁足地――『忘却の地下河川』の濁流である。


 右耳の奥は、分厚いコンクリートで塞がれたように完全な無音のままだった。晴斗は、唯一機能している左耳だけで、押し寄せる濁流の轟音と、隣で気絶した遠野蓮の不規則な喘鳴を聞き取っていた。非対称な音響世界は晴斗の平衡感覚を狂わせ、上下の感覚すらも泥の中に溶かしていく。


(冷たい……いや、これは『冷気』じゃない)


 流れ込んできた黒い水が晴斗の生身の左手に触れた瞬間、脳髄を直接剃刀で削られるような、おぞましい『空虚』が走った。物理的な冷たさではなく、精神の境界を融解させる忘却の毒。水に触れた部位から、脳内のニューロンが急速に白紙へと塗り替えられていくのが分かった。


 昨日、学校の教室で感じたあの恐怖が蘇る。アルファベットがただの幾何学記号にしか見えなくなった、あの知性の剥離。今、この濁流は、晴斗の脳からさらに多くの『言葉』を奪おうと、容赦なく牙を剥いていた。


「――っ、……!」


 喉の凍傷のせいで、掠れた息の音しか出せない。晴斗は声にならない叫びを上げながら、水没しつつある座席にしがみついた。フードが濡れてめくれ上がり、耳元まで急激に侵食した右頬の木化皮膚が剥き出しになる。乾燥したヒノキの質感を持つ右顔は、水に濡れても何の感覚も返さなかった。ただ、無機質な木目の軋みだけが、首を動かすたびに脳内に直接響く。


 隣を見れば、蓮の身体が濁流に浮かび、流されかけていた。霊媒体質である彼の身体は、この忘却の水に対して極めて脆弱だ。もし蓮の頭部がこの水に完全に浸かれば、彼の自我は数秒のうちに融解し、名前すら思い出せない抜け殻――能人形の素体へと変わり果ててしまうだろう。


(助けなきゃ、ならない。でも、どうやって……)


 晴斗の右手の指先は、仮面の呪いによって完全に触覚を失っていた。冷たい石のようになった右手では、カバンのジッパーを開けるような精密な動作は不可能だ。左手は、蓮の濡れた襟元を死守するために使われている。


 大百足が残した電磁ノイズの残響が、周囲の影をぐにゃぐにゃに歪め、瞬間移動の術式『影渡り』を完全に封殺していた。濁流の勢いは増し、水面はすでに晴斗の胸元にまで達している。


 晴斗は奥歯を噛み締め、動かない右膝を座席の金属フレームに強引に引っ掛けた。木化した関節がミシミシと乾いた音を立てるが、痛みは感じない。その隙に、空いた左手で自身のバッグを強引に引き裂いた。


 中から飛び出したのは、雅楽代宗次から譲り受けた古い白紙の束。感情を持たないただの紙切れ――簡易式神『白紙』だ。


 これを使う。だが、起動するための霊力を込めるには、霧島家の血液が必要だった。右手の親指は先ほどの召喚で噛みちぎり、すでに感覚がない。晴斗は躊躇うことなく、自身の唇を強く噛み切った。冷たい水の中で、鉄の錆に似た生温かい血の味が、失声した口内に広がる。


 晴斗は、唇から溢れた『神解きの血液』を、左手に握った『白紙』の表面に直接擦りつけた。


 血を吸った白い和紙が、境界の闇の中で微かに青黒く発光し、手のひらサイズの人型へと蠢き始める。晴斗は左眼の『不眠の眼』を極限まで見開き、モノクロームに退色した視界の中で、蓮の魂の輪郭を捉えた。彼の魂は、忘却の水に削られ、今にも霧散しそうに揺らめいている。


(しまえ。あいつを、俺の影の中に……!)


 晴斗は血塗られた『白紙』を、蓮の額へと強く貼り付けた。


 術式『白紙の荷運び』が起動する。白紙が放つ霊的な青い光が蓮の全身を包み込むと、彼の肉体は質量を失ったように平らになり、晴斗の足元に辛うじて残されていたわずかな『影』の隙間へと、音もなく滑り込んでいった。影の深層に広がる、水の影響を受けない漆黒の空間。そこに蓮を収納した瞬間、晴斗の左手から重みが消えた。


 蓮の脳は守られた。だが、無理な二重使役の代償は、晴斗の脳髄を直接焼き尽くすようにして支払われた。


「――ぐ、……あ、……っ!」


 脳の奥深く、記憶を司る領域が物理的に千切れ、灰へと変わっていく凄まじい寒気が走る。頭蓋骨の内側を直接熱湯で洗われるような激痛。晴斗は水面で激しく身悶えした。失われたのは、何の記憶だ? 鳴の顔か? 雅楽代の言葉か?


 違う。彼の脳内から、日常の中で愛していた『音楽の旋律』が、根こそぎ消去されていた。 sleepless な夜にヘッドホンから流れていたお気に入りの曲、幼い頃に鳴と歌った鼻歌のメロディ、そのすべての「音の並び」が、真っ白な虚無へと融解していく。彼は記憶を失ったことに気づく恐怖のなかで、掠れた喉から鼻歌を歌おうとした。しかし、喉から漏れ出たのは、冷たい風の音だけだった。旋律という概念そのものが、彼の世界から永久に失われたのだ。


 絶望に浸っている時間はなかった。忘却の地下河川は、晴斗の身体を容赦なく下流へと押し流していく。彼は感覚のない右腕を泥水に浸しながら、必死に左手で周囲の岩壁を探った。


 不眠の眼が、前方の暗闇に、わずかな霊力の脈絡が上昇しているポイントを捉えた。靖国通りの地下通路へと繋がる、古い排水口の格子だ。


 晴斗は最後の霊力を振り絞り、水面に向けて左手を突き出した。水面を這う微かな影を強引に引きずり上げ、水平に固定する。即興の『影壁』。漆黒の影の筏が水上に形成され、晴斗はその上に這い上がった。影の足場を蹴り、彼は錆びついた排水口の格子へと飛びついた。


 指先の感覚がない右手で格子を強引に掴み、木化した右半身の質量を力尽くで引き上げる。ミシ、ミシ、と首筋から檜の軋み音が響くなか、晴斗は靖国通りの地下通路の、冷たいコンクリートの床へと這い上がった。


 ベチャリ、と汚水に濡れた黒いパーカーが重い音を立てる。晴斗はそこに突っ伏し、凍りついた息を吐き出した。左耳だけが、地下通路の不気味な静寂を捉えている。


「おや、泥ネズミが這い上がってきたねえ」


 静寂を切り裂いて、ねっとりとした不快な嘲笑が響いた。


 晴斗は濡れたフードの隙間から、ゆっくりと顔を上げた。左眼の赤い眼光が、暗闇の奥を射抜く。


 そこに立っていたのは、隻眼の男だった。頭部に角のような突起を持ち、手には古い木工用のノミを握っている。仮面蒐集会・新宿支部の能面師であり、新宿のあちこちに「見ると発狂する仮面」を配置している歪んだ技術者――『一角』だった。


 一角は、晴斗の半分木化した『無貌』に近い素顔を見つめ、歪んだ薄笑いを浮かべた。


「斑木様がお待ちかねだよ、霧島晴斗。その美しい『檜の顔』、私のコレクションに加えてあげるよ」


 一角がノミを軽く振ると、地下通路の天井に配置された不気味な罠仮面たちが、一斉にその口をカタカタと鳴らし始めた。

HẾT CHƯƠNG

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