蠢く鋼鉄、新宿大百足
ガタガタと激しく振動する車内で、霧島晴斗はただ、死者の未練が放つ冷たい悪臭に耐えていた。
窓の外を覆うのは、光を一切反射しない真っ黒な泥水――『忘却の地下河川』の濁流だ。現世の物理法則を置き去りにした幽霊電車は、底なしの暗黒を走り続けている。現世の喧騒は、すでにこの密室の壁の向こうに溶けて消えていた。
しかし、その静寂はひどく歪んでいた。左耳だけが、車輪がレールを削る耳障りな金属音と、隣で縮こまっている後輩・遠野蓮の不規則な喘鳴を捉えている。右耳の奥は、まるで厚いコンクリートの壁で塞がれたように完全な無音だった。音の定位が狂った世界は、晴斗の平衡感覚を容赦なく狂わせ、立っているだけで奈落へ傾いていくような錯覚を強いる。
晴斗は、黒いパーカーのフードをさらに深く被り、顔の右半分を覆う『仮面偽装の術』の維持に意識を集中させた。右頬から首筋にかけて不可逆的に定着した『同調率五十パーセント』の木化皮膚。それを一時的に柔らかい生身の皮膚に見せかける影の偽装は、戦闘の余波による激しい霊力の乱れで、すでに崩壊の兆しを見せていた。右頬の奥で、ヒノキの繊維が筋肉を内側から締め付けるような、鈍い軋み音が響く。
「せ、先輩……本当に、僕たち、どこへ行くんですか……?」
蓮が震える声で、晴斗の左袖を掴んできた。重度の霊媒体質を持つ彼の身体は、車内に充満する冷気でガタガタと震えている。晴斗は何も答えなかった。いや、答えることができなかった。喉の凍傷による完全な失声状態。掠れた空気の抜ける音しか出せないこの喉では、言葉による安撫など最初から世界のシステムによって禁じられていた。
晴斗はただ、感覚の消失した右手の指先を隠すように、左手で蓮の肩を強く引き寄せ、座席の陰へと押し込んだ。指先からすべての触覚が失われた右手は、ペンを握る感覚すら曖昧だったが、蓮を保護するための「盾」としては十分に機能する。
その時だった。晴斗の左耳が、レールの擦れ合い音とは明らかに異なる、おぞましい「絶叫」を捉えた。
ギィィィィン――!
鼓膜を物理的に引き裂かんばかりの鋼鉄の絶叫。電車の天井が、まるでおもちゃの缶詰のように、外側から巨大な爪によって物理的に引き裂かれた。火花が激しく飛び散り、引き裂かれたコンクリートの粉塵と錆びた鉄くずが車内へと降り注ぐ。
天井の裂け目から侵入してきたのは、何百もの鋼鉄の節足を持つ、全長数十メートルに及ぶ巨大な異形――仮面蒐集会が地下鉄道の運行を妨害するために放った重機怪異『新宿大百足』だった。
その巨躯は錆びついたレールとコンクリートの破片で形成され、節足の一つ一つが巨大な油圧カッターのように不気味に蠢いている。百足の頭部に埋め込まれた、巨大な石造りの仮面の眼光が、血のように赤く発光した。百足は、逃げ場のない車内の獲物を貪り食うべく、その鋭い節足を振り下ろした。
「ひっ……!」
蓮が短い悲鳴を上げて頭を抱える。晴斗は本能的に、蓮の前に立ち塞がりながら、足元の影に身を滑り込ませようとした。影から影へ瞬間移動する『影渡し』。敵の背後へ回り込み、その隙を突くのが彼の基本戦術だった。
しかし、幽霊電車の発する磁気霊力と、大百足が全身から放射する強烈な電磁ノイズが、周囲の影の波長をぐにゃぐにゃに歪めた。影の座標が完全に捻じ曲がり、瞬間移動が途中で強制的にキャンセルされる。激しいバックプレッシャーの衝撃が晴斗の脳髄を直撃し、視界が真っ白に明滅した。
「――っ、……!」
声にならない苦悶の息が漏れる。激しい目眩に襲われながらも、晴斗は生身の左足で床を強く蹴り、上体を後ろへと反らした。彼の鼻先を、大百足の巨大な節足がかすめ、床の金属板をやすやすと切り裂いた。火花が晴斗のフードを焦がす。
接近戦は不可能。影の移動も封じられた。逃げ場のない動く密室の中で、大百足はさらにその巨躯をくねらせ、車内を蹂躙し始める。このままでは、数秒のうちに蓮もろとも肉片に変えられるのは確実だった。
晴斗は奥歯を噛み締め、肺を千切れんばかりに広げて『神降ろしの呼吸法・序ノ型』を起動した。凍りついた喉の奥が凍てつき、肺の内部が凍りつくような激しい激痛が走るが、彼はその冷たい霊気を脳の松果体へと送り込み、仮面との同調率を強制的に引き上げた。左眼の『不眠の眼』が覚醒し、視界の色彩が急激に退色してモノクロームの濃淡へと変化する。その中に、大百足の動きを示す赤い霊力の脈絡が浮かび上がった。
(防ぐ……!)
晴斗は左手を掲げ、足元から漆黒の影の幕を瞬間的に垂直に立ち上げた。展開された『影壁』が、大百足の第二波の突きを物理的に受け止める。キィィン、と硬質な金属音が車内に響き渡り、影の防壁が激しく火花を散らした。大百足の質量攻撃の衝撃が、晴斗の木化した右半身を通じて床へと逃げていく。動かないはずの右肩の関節が、ミシミシと乾いた檜の軋み音を立てて悲鳴を上げた。
しかし、大百足は攻撃の手を止めない。頭部の仮面が不気味に発光すると、その巨躯から、周囲の霊力を遮断する『電磁忘却結界』が放射された。
ジジジ、ジジジジ――!
空気が物理的に歪み、晴斗が展開していた影壁の組成が、内側から急速に融解し始めた。影の粒子が霧のように霧散していく。それと同時に、晴斗の脳波に直接、忘却のノイズが流れ込んできた。脳の引き出しが、強制的にこじ開けられ、記憶が白紙へと塗り替えられていく恐怖。彼は頭部を激しい偏頭痛に割られながら、必死に『不眠の防壁』を維持しようとした。だが、ガスの侵食と電磁波の二重の圧力に、影の霊力は完全に枯渇しかけていた。
このままでは影壁が崩壊し、百足の牙に貫かれる。
晴斗は左眼から一筋の血の涙を流しながら、決断した。通常の影の操作では、この鋼鉄の質量と結界には抗えない。ならば、より強固な、圧倒的な物理的質量を以て、この百足を車外へと押し出すしかない。
そのためには、あの『獣』を呼ぶ。
晴斗は右手の指先を見つめた。触覚が完全に消失し、ただ冷たい石板のようになった右手。彼はその右手の親指を、自身の口元へと運び、奥歯で思い切り噛みちぎった。
感覚はなかった。肉が裂ける痛みも、骨に達する衝撃も、何一つ感じない。ただ、口の中に広がった、鉄の錆に似た生温かい血液の味だけが、自傷の事実を伝えていた。溢れ出たのは、微かに青い光を帯びた、霧島家相伝の『神解きの血液』。
晴斗はその血塗られた右手を、自身の足元に広がるわずかな影の泥濘へと physical に叩きつけた。
「影縫い・弐獣召喚――!」
喉の凍傷を破り、掠れた絶叫が車内に響き渡る。晴斗の血液が影に触れた瞬間、波紋が広がり、その中心から漆黒の闇が津波のように噴き出した。影を消去する電磁忘却に抗うように、晴斗の血液を糧とした巨大な影が、垂直に立ち上がる。
ゴゴゴゴゴ、と境界空間の空間そのものを軋ませる音が響き、泥の中から這い出てきたのは、全身が白木の檜(ヒノキ)で削り出された、幾重もの能面の甲冑を纏った巨大な影の狐――『影縫い・弐号』だった。
弐号は、主である晴斗を守るように立ちはだかり、大百足に向けて音のない咆哮を放った。その咆哮の衝撃波だけで、車内の窓ガラスが一斉に粉々に砕け散り、外から吹き込む忘却の泥水が、火花を散らす車内を濡らした。
「シャアアアアッ!」
危機を察知した新宿大百足が、その巨大な半透明の身体をうねらせて突進してきた。油圧カッターのような節足が、弐号の檜の甲冑へと襲いかかる。
「防げ、弐号……!」
晴斗の意志と同期し、弐号の檜の甲冑が黒い影の防壁と融合し、巨大な盾となって大百足の突進を真っ向から受け止めた。檜の甲冑の表面が激しく火花を散らし、大百足の電磁忘却を結界の物理的な質量で弾き返していく。弐号は、その巨大な前足で大百足の頭部を掴み、引き裂かれた天井の穴へと向けて、力尽くで押し戻し始めた。
狭い車内での、鋼鉄の巨獣と影の防盾要塞の質量激突。電車の車体が物理的に大きく傾き、レールから火花が狂ったように噴き出す。晴斗は、激しい揺れに這いつくばりながら、弐号への同調を維持し続けた。
しかし、限界以上の力を解放した代償は、晴斗の肉体に容赦なく襲いかかった。右頬の木化が、耳元から首筋にかけて、急激に数センチ侵食していく。木の繊維が皮膚の下を這い回る激痛に、晴斗の脳波が乱れた。
その瞬間、彼の右顔面を覆っていた『仮面偽装の術』の影の触手が、耐えかねて「メキメキ」と音を立てて引き裂かれた。偽りの皮膚が、ボロボロと乾いたヒノキの木くずとなって剥がれ落ちていく。
「あ、……先輩、……?」
隣で這いつくばっていた蓮が、驚愕と恐怖に満ちた目で、晴斗の顔を見上げた。
フードの奥から露出したのは、人間の顔ではなかった。右半分が完全に乾燥した無機質な木肌に変貌し、目鼻の凹凸が失われかけた、まるで作りかけの能面のような『無貌』の素顔。その中央で、生身の左眼だけが、血の涙を流しながら不気味に赤く発光している。
「ひっ、……あ、……」
蓮が恐怖に息を呑み、身体を硬直させた。憧れていた先輩が、半分怪物の異形へと変貌している現実。その視線が、晴斗の凍りついた心臓を冷たく突き刺した。声を失った晴斗は、ただ黙って、その貌を隠すように再びフードを深く引き下ろすことしかできなかった。
その時、車外へとram(押し出し)された大百足が、最後の力を振り絞って、電車の床下にある脱線装置へとその巨大な節足を物理的に突き刺した。
ガガガガガガッ――!
凄まじい破壊音と共に、電車の車輪がレールから完全に浮き上がった。車体が大きく左へと傾き、窓の外の『忘却の地下河川』の真っ黒な泥水が、砕けた窓から車内へと一気に流れ込んでくる。
浮き上がった幽霊電車は、線路を外れ、地下のさらなる深淵――底なしの忘却の急流へと、真っ逆さまに落下し始めた。
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