13番ホームの怪
世界から右半分の輪郭が消え去ったかのような、歪んだ感覚がそこにあった。
深夜二時前。丑の刻参りとも、逢魔が時とも呼ばれるその時刻、新宿駅の地下通路は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。しかし、その静寂はひどく非対称だった。湿ったコンクリートの床を濡らす水滴の音も、自身の不規則な喘鳴(ぜんめい)も、すべてが左耳の鼓膜だけを叩く。右耳の奥は、まるで厚い鉛の壁で塞がれたように完全な無音だった。音の定位が狂った世界は、晴斗の平衡感覚を容赦なく蝕み、一歩進むたびに奈落へ傾いていくような錯覚を強いる。
晴斗は泥だらけの黒いパーカーのフードを深く被り、冷たい地下の壁に左肩を預けて立ち止まった。右手の指先を、視線だけで見下ろす。人差し指から小指にかけて、感覚は完全に消失していた。爪を立てて肉を握っても、そこにあるのが自分の肉体なのか、それとも冷たい石板なのかさえ判別がつかない。ただ、左手の中にしっかりと握りしめられた、錆びついた銅銭――『境界の渡し船の古銭』の重みだけが、彼を現世に繋ぎ止めるかすかな錨だった。
「……ヒュー、……っ」
凍りついた喉から漏れるのは、掠れた空気の抜ける音だけだ。神代零の退魔光を浴び、限界まで霊力を絞り出した代償としての失声状態。言葉を失い、親友の健太に存在を忘れられ、実家のアパートの自室すら砂となって消えゆく今、彼には帰るべき日常などどこにも残されていなかった。あるのは、夜の東京の深淵に消えた妹・鳴を救い出すという、狂気にも似た執念だけだ。
足元で、かすかな衣擦れのような音がした。
見下ろすと、闇に溶けるような漆黒の毛並みを持った猫が、晴斗の足首に身体を擦り付けていた。左の眼が金色、右の眼が青色に輝くオッドアイ――雅楽代宗次の使い魔である黒猫のクロだった。クロは晴斗の木化した右顔を見上げると、声を出さずに喉を鳴らし、錆びついた地下のシャッターの隙間へと滑り込んでいく。
そこは、現実世界の駅員や乗客が「立ち入り禁止」の看板に目を背け、無意識のうちに認識から排除している暗黒の隙間だった。晴斗はクロの後を追うように、身体を屈めてシャッターの下へ潜り込んだ。
「ミシ、……ミシ……」
身体を捻った瞬間、右頬から首筋にかけて、乾いたヒノキの軋み音がかすかに響いた。同調率五十パーセント。不可逆的に定着した木化皮膚は、鉄のシャッターの冷たさを一切感じさせず、ただ無機質な硬度をもって晴斗の肉体を締め付けていた。晴斗は痛覚を喪失した右顔をフードの闇に隠し、クロが先導する暗渠の奥へと足を踏み入れた。
進むにつれ、新宿駅の近代的なタイル床は徐々に失われ、湿った土と腐食した木造の梁が剥き出しになった古い坑道のような空間へと変貌していった。空気は急速に淀み、古いお香の甘い香りと、何かが腐敗したような生温かい悪臭が混ざり合って鼻腔を突く。壁に設置された剥き出しの電球は、血のように赤く、不規則に明滅していた。
左耳が、かすかな摩擦音を捉えた。何かが、無数に這いずり回るような音。そして、その奥から聞こえてくる、聞き覚えのある怯えた悲鳴。
(……この声、まさか……)
晴斗は左眼の『不眠の眼』を強制的に覚醒させた。瞬間、視界の色彩が急激に退色し、モノクロームの濃淡の中に、怪異の霊力の流れを示す「赤い脈絡」が血管のように浮かび上がった。
その赤い線の先、存在しないはずの『新宿駅「開かずの13番線」』のプラットホームが見えた。錆びついたレールと、闇に沈む白木の鳥居が物理的に重なり合ったその場所で、一人の少年が床にへたり込んでいた。大きなパーカーのフードを深く被り、おどおどと周囲を見回している少年――都立新宿山吹高校の後輩であり、重度の霊媒体質を持つ遠野蓮だった。
蓮の周囲を、十数体の異形が包囲していた。それは、顔に白い無地のお札を貼り付けた、最下級の怪異『能人形』の群れだった。関節を「ミシミシ」と不気味に軋ませながら、能人形たちは蓮の持つ「霊媒体質の生気」を喰らうべく、骨ばった白い手をじわじわと伸ばしている。
蓮は懐の改造ICレコーダーを震える手で握りしめ、声にならない悲鳴を上げていた。このままでは、彼の自我は能人形たちのお札に吸い取られ、存在ごと世界から消去されてしまう。
(助けなきゃ、……でも、どうやって……)
晴斗の右半身は硬直し、喉からは声も出ない。まともに突撃すれば、自身の気配を感知されて一斉に襲われる。おまけに、右手の指先は完全に麻痺しており、精密な影の操作は不可能に近かった。
晴斗は左手で懐を探り、真鍮製の『神楽の鈴』を取り出した。右手には感覚がない。だからこそ、生身の左手でその冷たい真鍮の感触を噛み締めるように握りしめる。そして、息を殺し、能楽の「摺り足」をベースにした『影渡りの歩法』を繰り出した。
一歩。体重移動の音を完全に消し、床に足を密着させながら滑るように進む。自身の影が、ホームの柱が落とす黒い影と接触した瞬間、晴斗の肉体は音もなく漆黒の闇の中へと溶け込んだ。影から影へ、水が流れるように高速で移動し、能人形たちの死角である背後の影へと回り込む。不眠の眼が、能人形たちのお札から放たれる微弱な精神汚染のノイズを捉えた。脳髄を直接掻き回されるような不快感が晴斗を襲うが、彼の脳波は「不眠の防壁」によって常に緊急覚醒モードにあり、その汚染を入り口で火花を散らして弾き返した。
晴斗は左手を掲げ、神楽の鈴を微かに振った。
――チリ、……ン。
澄んだ、しかし氷のように冷たい鈴の音が、閉ざされた地下ホームに響き渡った。音波の同心円状の衝撃波が空気の歪みを震わせ、能人形たちのお札を一斉に激しく揺らす。蓮を襲おうとしていた怪異たちの動きが、ピきりと一瞬にして停止した。彼らの無機質な「お札の顔」が、一斉に音の発生源である晴斗の方へと向けられる。
(今だ……!)
晴斗は左手から影の触手を伸ばし、床にへたり込んでいた蓮のフードを強引に引っ張り上げた。蓮の身体が宙を舞い、晴斗の足元の影へと引き寄せられる。
「ひゃっ!? せ、先輩……!?」
蓮が涙目で晴斗を見上げた。その瞬間、レールの奥から、空間を物理的に引き裂くような金属の擦れ合い音が響き渡った。キィィィィン、と鼓膜を物理的に破壊せんばかりの絶叫を上げて滑り込んできたのは、窓ガラスがすべて割れ、車体が赤黒い錆と泥に覆われた、大正期の旧型客車――浅草地下冥府へと繋がる幽霊電車だった。
電車の扉が、ベリベリと錆を剥がしながら開く。晴斗は蓮を抱えたまま、影の中に身を滑り込ませ、一瞬で車内へと瞬間移動する『影渡し』を発動しようとした。
しかし、その瞬間、電車の車体から放たれた不気味な磁気霊力が、周囲の影の波長を強烈に歪めた。影の座標がぐにゃりと捻じ曲がり、晴斗の瞬間移動は途中で強制的にキャンセルされた。
「がはっ……!?」
強烈なバック域の衝撃が晴斗の脳髄を直撃した。視界が激しく明滅し、右頬の木化部分が、木の繊維を引き裂かれるような激しい疼きを上げる。立っていられなくなり、膝が折れそうになる。軽い立ち眩みが晴斗の思考を白く染めた。
「すり、すり、すり!」
警戒を解いた能人形たちが、お札を激しく羽ばたかせながら、一斉に晴斗と蓮を目がけて殺到してくる。影の連続移動は使えない。右手の感覚もない。
晴斗は奥歯を噛み締め、生身の左足で床を強く蹴り上げた。蓮の身体を左腕で抱きかかえ、右半身の硬直を執念だけで引きずりながら、開いた幽霊電車の扉へと物理的に飛び込んだ。背後から伸びてきた能人形の爪が、晴斗の黒いパーカーの裾をかすめ、繊維を切り裂く。
二人の身体が、埃っぽい幽霊電車の冷たい床の上を転がった。それと同時に、電車の扉が、重い金属音を立ててピシャリと閉ざされた。
ガタ、ゴト……。
電車は、運転士もいないまま、新宿駅の「開かずの13番線」を滑るように発車した。能人形たちの白い顔が、窓の外へと急速に遠ざかっていく。晴斗は床に這いつくばったまま、激しく喘いだ。左耳に、電車の不気味な駆動音だけが流れ込んでくる。
「せ、先輩……本当に、先輩なんですか……?」
蓮が震える声で、晴斗のフードの奥を覗き込もうとした。晴斗は無言のまま、顔を伏せた。仮面偽装の術の維持時間は残り少ない。このフードの奥にある、半分木化した怪物の貌を、まだこの後輩に見せるわけにはいかなかった。
その時、電車の窓の外の景色が、一瞬にして変貌した。
コンクリートの壁は消え去り、窓の外は、光を一切反射しない真っ黒な泥水――『忘却の地下河川』の濁流によって完全に覆い尽くされた。電車は、現世の物理法則を無視し、三途の泥の中へと潜行を始めたのだ。車内は、泥水から染み出る死者の未練の気配によって、急速に冷え切っていく。
そして、電車の進行方向、暗黒のレールの先から。
キィィィィン、と、線路を物理的に噛み砕き、コンクリートの壁を削り散らしながら迫る、巨大な鋼鉄の擦れ合い音が、晴斗の唯一聞こえる左耳を、狂暴に震わせ始めた。線路の奥から、うねるような巨大な『鋼鉄の影』が、この幽霊電車を正面から粉砕せんと、凄まじい速度で接近してくる気配が迫っていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!