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最初の喪失、親友の貌

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世界から右半分の輪郭が消え去ったかのような、歪んだ感覚がそこにあった。


 靖国通りの地下深く、冷たい湿気と泥の臭いが充満する暗渠の底。霧島晴斗は、コンクリートの床に横たわったまま、激しく胸を上下させていた。右耳の奥は、まるで鉛を流し込まれたように静まり返り、何も聞こえない。水が滴る音も、地下鉄の遠い振動も、すべてが左耳の鼓膜だけを不規則に震わせる。音の方向感覚が完全に狂い、頭が割れるような偏頭痛が視界を白く染めていた。


 動かない右手を、視線だけで確認する。人差し指から小指にかけて、泥に汚れた皮膚はピクリとも動かない。触覚が完全に消失していた。コンクリートの冷たさも、自身の衣服の感触すらも、指先からは一微細な信号すら戻ってこない。ただそこにある肉の塊を、視覚だけで「自分の手だ」と認識するしかないもどかしさが、晴斗の喉を締め付けた。


(……ぁ、……っ)


 出ない声を絞り出そうとしても、喉からは掠れた息の音がヒュー、と漏れるだけだった。神代零の結界を破るために『神楽の鈴』を限界突破させた反動。凍りついた喉は、言葉を紡ぐ機能を完全に拒絶していた。


『くく、惨めなものだねえ、少年。日常に戻りたいなら、早くその冷たい白木の顔を隠しなよ。お前の大好きなクラスメイトたちが、腰を抜かして逃げ出す前にね』


 脳裏で、狐神の仮面の英霊である白織が、妖艶な毒を含んだ声で囁く。彼女の言う通りだった。仮面を外し、衣服の袖を捲り上げて触れた右頬は、硬く冷たい。触れても温もりはなく、ただ無機質なヒノキの木肌の感触が、不可逆的な『木化』の定着を告げていた。同調率五十パーセントの臨界点。生身の皮膚の半分を失った怪物の貌。


 晴斗は残された左手で、懐から『忘却の手帳』を取り出し、泥のついた指でページを開いた。そして、白織から授けられた『仮面偽装の術』を起動する。


 じわじわと、右頬の木目の隙間から、漆黒の影の触手が這い出してきた。影は意思を持つかのように這い回り、冷たい木肌を覆い尽くしていく。メキメキと、骨が軋むような鈍い痛みが走り、影の霧が「偽りの生身の皮膚」へと作り変えられていく。鏡を見ることは禁忌だが、指先のない右手で頬をなぞると、一時的に柔らかい皮膚の感触が偽装されていることだけは分かった。効果時間は三十分。激しい戦闘や強い光を浴びれば、この偽りの仮面は一瞬で剥がれ落ち、ヒノキの木くずとなってボロボロと崩れ落ちるだろう。


 晴斗は泥だらけの黒いパーカーのフードを深く被り、左手の中に、死守した『境界の渡し船の古銭』が確かにあることを握りしめて確認した。この錆びついた銅銭こそが、鳴の待つ浅草地下冥府へと繋がる幽霊電車の切符。これだけは、誰にも奪わせない。


 冷たい朝の光が、新宿の街を白く照らし始める頃、晴斗は何とか都立新宿山吹高校の校門をくぐった。登校する生徒たちの喧騒が、左耳からだけ非対称に流れ込んでくる。右側からの音を失った世界は、常に平衡感覚を失わせ、まっすぐ歩くことすら薄氷を踏むような緊張感を強いた。


 教室に入り、自身の席に座る。周囲の生徒たちは、フードを深く被ったまま机に突っ伏す晴斗を、いつもの「陰気な不眠症の少年」として無視していた。声を失った晴斗は、ただ黙って机の上のカバンから英語の教科書を取り出した。


 一限目のチャイムが鳴り、教師が教壇に立つ。教科書を開いた瞬間、晴斗の息が物理的に止まった。


「……っ!?」


 視界に入ってきたのは、かつて見慣れていたはずの英語の文字列ではなかった。アルファベットの一文字一文字が、ぐにゃりと歪み、角の尖った幾何学的な「記号」にしか見えない。単語としての意味も、文法の規則も、脳の引き出しから完全に消去されていた。千代との『記憶の雫』の等価交換。日常の知性を切り売りした代償が、白紙の空白となって脳髄を支配していた。


 教師が読み上げる英語の音声は、意味を持たない金属質の不快な雑音として左耳を突き刺す。晴斗は頭を抱え、冷や汗が額を伝うのを止められなかった。学校という、自身が辛うじて繋ぎ止めていたはずの日常のシステムから、自分が根こそぎ脱落していく。社会的な実在が、内側から崩壊していく冷たい恐怖が、彼の全身を支配した。


 その時、引きずり込まれそうな絶望の霧を切り裂くように、聞き慣れた陽気な声が左側から響いた。


「よお、晴斗! お前、今日も酷い顔してんな。また一睡もできなかったのか?」


 短髪にスポーツバッグを肩にかけた、健康的な少年。中学時代からの唯一の親友、佐々木健太だった。健太はいつものように、晴斗の肩を軽く叩き、隣の席の椅子を引いて座った。


 晴斗の胸の奥に、微かな安堵の光が宿る。健太。こいつだけは、俺のことを心配してくれる。こいつとの繋がりだけは、まだ切れていない。


 晴斗は、声が出ないことを伝えるため、筆談用のノートを左手で開いた。そして、カバンの中から、一つの古いキーホルダーを取り出した。中学時代のサッカー部の勧誘の帰り、二人でお揃いで買った、少し塗装の剥げたサッカボール型のキーホルダーだ。それを健太に見せながら、筆談用のペンを握ろうとする。


 だが、健太は晴斗の差し出したキーホルダーと、フードの奥の彼の左目を見つめたまま、ピきりと表情を凍らせた。その瞳に浮かんだのは、親しみでも、心配でもなかった。……ただの、見知らぬ不審者を見るような、冷たく張り詰めた『警戒感』だった。


「……え、誰だお前? 隣のクラスの奴か?」


 健太の声は、驚くほど冷えていた。冗談を言っている目の真剣さではない。彼の記憶の網から、「霧島晴斗」という親友の存在が、最初から存在しなかったかのように消去されていた。


 晴斗の心臓が、ドクンと激しく脈打った。出ない声を絞り出そうと、喉がヒュー、と悲鳴を上げる。左手で必死にキーホルダーを健太の目の前に突き出し、ノートに『俺だ、晴斗だ。一緒に買っただろ』と書き殴ろうとする。だが、感覚のない右手はペンを握ることすらできず、机の上にペンがカラリと虚しく転がった。


「おい、なんで俺の部活のキーホルダーのこと知ってんだよ……。なんでお前がそれ持ってんだ? 不気味だな。……先生、この人、なんか変です」


 健太は椅子を後ろに引き、晴斗から物理的な距離を置いた。周囲のクラスメイトたちの視線が一斉に晴斗へと集まる。だが、その視線のどれもが、晴斗を「クラスメイト」としては認識していない。名簿を確認した教師が、怪訝そうに眉をひそめる。


「霧島……? うちのクラスに、そんな生徒は在籍していないはずだが……。君、本当にうちの生徒かい?」


 教師が手にする出席簿の、霧島晴斗の名前の欄。そこは、まるで最初から空白だったかのように、白い紙の繊維が剥き出しになって掠れていた。世界のシステム、バグ修正機能。仮面を多用しすぎた代償は、最も身近な親友の記憶から、そしてこの学校の記録から、晴斗の存在証明を完全に抹消するという形で、容赦なく執行されていた。


 晴斗の胸ポケットの奥で、柊琴音から手渡された『琴音のお守り』が、ジリジリと熱を帯びて発光し始めた。脳に心地よい電気ショックが走り、忘却の霧に呑まれかけた晴斗の自我を、辛うじて人間として繋ぎ止める。だが、お守りは晴斗の自我を守るだけで、他人の脳内から消えた晴斗の記憶を修復する力はなかった。


(……あ……ぁ……)


 健太の冷たい目が、晴斗の胸を物理的に突き刺す。中学時代の楽しかった部活の帰り道、一緒に笑い合った日々、不眠症に荒れる自分を温かく見守ってくれた健太の笑顔。そのすべてが、健太の脳内から消え去り、ただの「不気味な他人」として処理されている現実。これ以上、この日常に執着すれば、周囲の人間を世界のバグ修正システムに巻き込み、精神的に破壊してしまう。


 自分が社会的に「死に始めている」現実を、晴斗は血を吐くような絶望と共に自覚した。


 晴斗は、転がったペンを左手で拾い上げると、教科書とカバンを乱暴に掴み、席を立ち上がった。健太や教師の呼び止める声を、左耳だけで聞き流しながら、静まり返った教室を飛び出す。廊下を走り、階段を駆け下りる晴斗の右半身からは、ミシミシ、と乾いた檜の軋み音がかすかに響いていた。


 もう、実家のアパートの『空き部屋』にも、この学校にも、自分の居場所はない。自分は世界から爪弾きにされた、無貌の幽霊なのだ。


 晴斗は新宿駅の地下通路へと逃げ込んだ。薄暗い通路の隅で、彼は震える左手で『忘却の手帳』を開いた。手帳の紙面の上で、インクの精霊「頁(ページ)」が悲しげに明滅している。晴斗は、健太の名前が書かれていたページの横に、青いインクのペンで、静かに文字を書き殴った。


『佐々木健太:忘却済。俺を他人と認識』


 インクが血の混ざった文字に吸い込まれ、金色に明滅して固定される。感情を書き出すたびに、健太と過ごした楽しかった日々の「温もり」が手帳に吸い取られ、晴斗の心は徐々に無感動な能面へと近づいていく。だが、こうして記録しなければ、明日目覚めた自分自身すら、健太のことを忘れてしまうのだ。


 手帳を閉じた晴斗の足元に、一匹のオッドアイの黒猫が、音もなく姿を現した。雅楽代の使い魔、黒猫のクロだった。クロは左の金色の眼と、右の青い眼で晴斗の木化した右顔を見つめ、短くニャアと鳴いた。その鳴き声は、次の目的地へと進めと急かすように、地下のさらに深淵を指し示していた。


 晴斗は左手の中に、死守した古銭を強く握りしめた。日常のすべてを失った。親友の貌も、もう思い出せない。だが、まだ鳴が残っている。妹を救い出すまでは、この魂が木に還ろうとも、立ち止まるわけにはいかない。


 晴斗は、深夜の新宿駅地下に隠された、存在しないホーム――『新宿駅「開かずの13番線」』へと、迷いのない足取りで進み始めた。彼の背後で、日常の喧騒が、冷たい影のなかにゆっくりと溶けて消えていった。

HẾT CHƯƠNG

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