存在しない妹
脳が、眠ることを拒絶している。
霧島晴斗の視界は、常にコンマ数秒の「遅延」を伴っていた。重度の不眠症がもたらす慢性的な脳の疲弊。乾ききった眼球の裏側で、絶えず微弱な耳鳴りが高周波の電子音のように鳴り響いている。彼にとって、現実世界とは常にピントのずれた、ザラついた古いフィルム映画のようなものだった。
深夜二時。新宿歌舞伎町の喧騒をすり抜け、晴斗は重い足取りで帰路についていた。都立新宿山吹高校の夜間部からの帰り道、いつもなら深夜のネオンが放つ暴力的な光に頭痛を覚えるだけのはずだった。しかし、その夜の新宿は、何かが決定的に狂っていた。
(……今、ズレた?)
スクランブル交差点を渡る人々の影が、一瞬だけ、物理法則を無視して横に「ブレ」た。まるで安価な液晶画面の表示が乱れたかのように、空間そのものが数ミリだけズレて、すぐに元に戻る。すれ違うサラリーマンも、客引きの若者も、誰もその異変に気づいていない。晴斗は乾いた瞼を指先で強く揉んだ。不眠症が見せる、ただの幻覚だ。そう自分に言い聞かせるしかなかった。
新宿区の隅に佇む、築四十年の薄暗い木造二階建てアパート。霧島家が暮らすその部屋のドアを開けた瞬間、晴斗の肌にまとわりついたのは、凍りつくような「静寂」だった。
いつもなら、居間のソファでうたた寝しているはずの母親、志乃の姿がない。いや、それだけではない。家全体の空気が冷え切り、まるで何年も人が住んでいない廃屋のような、無機質な匂いが漂っている。
胸に湧き上がる不気味な予感に急かされ、晴斗は廊下の突き当たりにある妹の部屋へと向かった。十四歳になる妹、鳴の部屋だ。
「鳴、起きてるか……?」
返事はない。ノブを回して扉を開けた瞬間、晴斗は息を失った。
そこにあったのは、妹の部屋ではなかった。ピンク色のカーテンも、勉強机も、お気に入りのウサギのぬいぐるみもない。ただ、埃を被った段ボール箱と、使わなくなった古い扇風機が乱雑に積み上げられた、冷たい「物置」が広がっていた。
「な……んでだ?」
頭の中の耳鳴りが、突如として耳を劈くほどの金属音へと跳ね上がった。心臓が肋骨の裏側を激しく叩く。晴斗は狂ったように居間へと引き返し、寝室の戸を開けた。布団の中に、疲れ切った表情の母親、志乃が横たわっていた。目の下に濃いクマを浮かべた彼女は、息子の尋常ではない様子に、怪訝そうに身を起こした。
「晴斗? どうしたの、そんなに血相を変えて。夜中に大声を出すなんて……」
「母さん、鳴の部屋が……鳴の荷物が全部なくなってるんだ! 鳴はどこへ行ったんだよ!?」
志乃は眉をひそめ、哀れむような、同時に完全に冷めきった視線を晴斗に向けた。
「……鳴? 晴斗、何を言っているの。寝不足のせいで頭がおかしくなったの?」
「何を言って……鳴だよ! 俺の妹の、霧島鳴だよ!」
「うちには、子供はあんた一人しかいないでしょう。あんたは最初から、一人っ子よ」
志乃の言葉は、冷酷な刃となって晴斗の脳髄を突き刺した。冗談を言っている目の真剣さではない。彼女の認知の網から、「霧島鳴」という存在のデータが、根こそぎ消去されている。晴斗は棚から家族アルバムを引っ掴み、狂ったようにページをめくった。幼少期の旅行の写真。そこには晴斗と志乃、そして――鳴がいるはずの場所に、不自然な「空白」があった。まるで最初から誰も立っていなかったかのように、背景の景色だけが不自然に引き伸ばされ、白く抜けている。
世界が、妹を忘れた。
吐き気に襲われながら、晴斗は再び物置と化した鳴の部屋へ戻った。床に膝をつき、必死に床板を這い回る。世界のバグ修正システムが、どれほど完璧に彼女の痕跡を消し去ろうとも、物理的な「矛盾」は必ず残るはずだ。
その時、晴斗の指先が、段ボール箱の隙間の床に触れた。そこだけ、埃が積もっていない。つい数時間前まで、そこに鳴の勉強机の脚が乗っていたことを示す、わずかな「空白の輪郭」がそこにあった。
そして、その空白の境界線に、一本の赤い絹糸が落ちていた。鳴がいつも手首に巻いていた、縮緬で作られた赤い髪飾りだった。世界が彼女を抹消する際、あまりに矮小なこの遺留品だけを、システムが見落としたのだ。
「鳴……!」
晴斗は震える手でその髪飾りを拾い上げ、自身の左手首にきつく巻き付けた。微かに残る、妹の体温。その瞬間、彼の脳裏に、鳴が「歌舞伎町のビルの隙間」へ引きずり込まれていくような、おぞましい残像がフラッシュバックした。不眠症の異常な脳波が、世界の歪みの「残響」を受信したのだ。
晴斗はアパートを飛び出し、深夜の歌舞伎町へと全速力で走った。
深夜三時の歌舞伎町。現実のネオンが不気味に明滅するなか、晴斗は路地裏のビルとビルの狭間、物理的に人間が進入できないはずの「数センチの隙間」を見つめた。普通なら視線が通り抜けないはずのその闇の奥に、不気味な「赤」が揺らめいている。
手首の髪飾りが、じわりと熱を帯びた。
晴斗は躊躇うことなく、そのビルの隙間へと体をねじ込んだ。肉体がコンクリートの壁をすり抜けるような、奇妙な浮遊感。次の瞬間、周囲の喧騒が完全に消失した。
そこは、現実の新宿の地図と、古朽ちた神社が物理的に重なり合った「境界空間」だった。空は見上げるような血の赤に染まり、立ち並ぶビルの壁面から、錆びついた鉄の千本鳥居が何重にも突き出している。湿った土とお香の匂いが、鼻腔をきつく刺激した。
「ここは……一体……」
晴斗が息を呑んだその時、背後の闇から、乾いた衣擦れの音が響いた。
「すり……すり……」
摺り足のような、不気味な足音。晴斗が勢いよく振り返ると、千本鳥居の影から、異形の集団が音もなく這い出てきていた。
それは、白い狩衣のような衣服を纏った人型の怪異だった。だが、その顔面には目も鼻も口もない。ただ、不気味な古い和紙の「お札」が顔面を完全に覆うように貼り付けられている。お札の表面には、血のような墨で、歪んだ文字が書き殴られていた。
「能人形・無貌」
顔のない人形たちが、関節を「ミシミシ」と不自然に軋ませながら、晴斗を包囲するように距離を詰めてくる。不眠症によって極限まで過敏になった晴斗の聴覚は、彼らの衣服が擦れ合う微細なノイズ、そして彼らのお札の裏側から漏れ出る「ヒタ、ヒタ」という濡れた粘着音を克明に捉えていた。
「来るな……!」
晴斗は本能的な恐怖に駆られ、背後の非常階段を登って逃れようとした。しかし、階段を三段登った瞬間、空間が不気味に歪み、彼の身体は元の路地裏の泥の上へと強制的に引き戻された。境界空間の法則が、物理的な逃走を拒絶している。
能人形たちの距離は、すでに数メートルにまで迫っていた。顔のお札が、晴斗の「記憶」を品定めするように不気味に明滅している。晴斗は足元の錆びついたゴミ箱を掴み、渾身の力で先頭の人形へ投げつけた。
だが、金属のゴミ箱は、能人形の肉体を煙のようにすり抜け、虚しくコンクリートの床に転がった。物理的な攻撃が一切通用しない。
(頭が、割れる……!)
極限の緊張と不眠の疲弊が重なり、晴斗の脳を凄まじい偏頭痛が襲った。視界が真っ赤に染まり、膝が崩れかける。能人形たちが、白い骨のような手を伸ばし、晴斗の脳から「記憶」を直接刈り取ろうと、一斉に襲いかかってきた。
その絶体絶命の瞬間、晴斗の左手首に巻かれた「鳴の赤い髪飾り」が、火傷しそうなほどの熱を放った。脳裏に、妹の泣き顔が鮮烈に蘇る。
(俺がここで消えたら、誰が鳴を覚えているんだ……!)
逃げ場のない千本鳥居の結界の奥、朽ち果てた廃神社の祠の前に追い詰められた晴斗。その眼前に、不気味な紋章が刻まれた、古い白木の「面箱」が忽然と姿を現した。能人形たちの白い手が、晴斗の顔面に届こうとしたその刹那、晴斗の運命の歯車が、最悪の音を立てて回り始める――。
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