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血溜まりの初陣

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湿った暗闇が肌にまとわりつく。鉄檻街の地下深く、冷気と野獣のような体臭、そして生臭い血の臭いが混ざり合う通路を、武己は引きずられるように歩いていた。剛右衛門の配下である屈強な看守たちが、武己の左右の腕を強引に掴んでいる。前夜、五虎会会長である趙金虎から受けた強烈な蹴りの衝撃は、未だ胸骨の奥で燻るような熱い痛みを残していた。だが、首にかけられた白檀の古い数珠――亡き師、無名が遺した唯一の形見――から伝わるかすかな冷気が、暴走しがちな逆脈を静かに宥めていた。


「おい、泥人形。さっさと歩け。今夜はお前の墓場が決まる日だ」


 看守が武己を「血溜まりの檻」の重い鉄門の前に突き飛ばした。見上げる円形の舞台は、錆びついた太い鉄格子で囲まれ、その上部には鋭い鉄の棘が牙のように並んでいる。逃げ場は一切ない。床は、これまでに数千人の敗者が流した血を吸い込んで、黒赤色に変色し、乾いた血の膜が足裏にまとわりつく。鉄檻街闘技盟が執行する「不殺不退」の掟。どちらかが死ぬか、あるいは完全に動けなくなるまで、この檻が開くことはない。


 観客席からは、欲望に飢えた無法者たちの怒号と叫び声が地鳴りのように響いていた。彼らは、昨夜の処刑から生き延びたこの「死なない泥人形」が、今夜どのようにして引き裂かれるのかを期待しているのだ。


「対戦相手の入場だ! 鉄檻街の奴隷殺し――剛蔵!」


 地響きのような歓声と共に、檻の反対側の扉が開いた。そこに立っていたのは、丸太のような太い四肢を持つ巨漢、剛蔵だった。首がないように見えるほど異常に発達した肩の筋肉、無数の闘技の傷跡で覆われた赤銅色の肌、そしてつぶれた耳。長年、この闘技場で何十人もの奴隷を文字通り「へし折って」きたベテランの風格が、その重苦しい足取りから漂っていた。


 剛蔵は檻に入ると、獰猛な笑みを浮かべて両拳を打ち鳴らした。その手には、滑り止めの白いチョーク粉が不気味にまぶされている。


「お前が噂の泥人形か。攻撃を一切しない、ただのサンドバッグだと聞いたぞ。趙金虎様に逆らった不届き者め、その生意気な骨を一本残らず噛み砕いてやる」


 武己は何も答えなかった。ただ、両足を肩幅に開き、両手をだらりと下げて無防備に直立した。それは、一切の防御動作を行わずに敵の打撃を受ける不気味極まりない姿勢――『肉案山子の構え』だった。死んだ魚のような、冷徹で静かな銀色の瞳が、剛蔵の巨躯を真っ直ぐに見つめている。


 観客席の片隅で、擦り切れたサイコロ箱をいじる老博徒・留吉が、その武己の姿を見て目を細めた。


「ほう……怯えがねえ。ただの廃物じゃねえな、あのガキ」


 留吉は、周囲の賭け狂いたちが剛蔵の圧勝に金を注ぎ込む中、懐のわずかな蓄えを握りしめ、武己の「生存」に賭ける準備を静かに始めた。


「始めろ!」


 剛右衛門の冷酷な合図と共に、重い鉄格子が上から完全に降ろされ、鋭い金属音が檻の中に響き渡った。不殺不退の戦いが、幕を開けた。


「死ねい!」


 剛蔵が猛然と踏み込んだ。その巨体からは想像もつかない神速の踏み込み。丸太のような右拳が、風を切り裂いて武己の顔面へと真っ直ぐに放たれた。直撃すれば、常人なら頭蓋が粉砕される破壊力だ。


 武己は動かない。避ける動作すらしない。ただ、拳が自らの皮膚に接触するコンマ一秒の瞬間――無名から授かった『逆天鏡力・吸気法』を稼働させた。


 ――接触の瞬間、武己は肺の中の空気を「ハッ」と一気に吐き出した。


 グシャリ、と鈍い音が響く。剛蔵の拳が武己の頬を捉えた。だが、衝撃が肉体を破壊する前に、武己の体内で暴走する逆脈が、その物理エネルギーをそのまま吸い込み、経絡の隙間へと逃がしていった。衝撃の波動は武己の脊椎を通り、足裏を通じて大地の摩擦へと逃げていく。武己の顔は大きく歪んだが、その足は一歩も後ろへ退いていなかった。


「何だと……!?」


 剛蔵の目に驚愕が走る。手応えは確かにあった。しかし、まるで泥の中に拳を叩き込んだかのように、自らの打撃のエネルギーが武己の肉体の奥深くに「吸い込まれ」、消え去ったのだ。それどころか、跳ね返るはずの衝撃が吸収されたことで、剛蔵自身の拳の骨に微かな痺れが走った。


「小癪な真似を!」


 剛蔵は怒りに任せ、左右の連打を叩き込んだ。胸、脇腹、顎。骨がきしむ凄まじい音が檻の中に木霊する。武己の肉体は殴られるたびに微かに震えるが、その瞳の銀色の光は曇らない。痛覚を遮断する自己催眠により、激痛は脳に届く前に遮断され、武己は完全に冷静な状態で、剛蔵の打撃の「力の波」と同調し続けていた。


 しかし、剛蔵は単なる力任せの荒くれ者ではなかった。長年、この血溜まりの檻で生き残ってきたベテランだ。十数発の打撃がすべて無効化された段階で、彼は即座に戦術を切り替えた。


「打撃が効かねえなら、へし折るだけだ!」


 剛蔵が獰猛に笑い、武己の懐へと深く潜り込んだ。彼の狙いは、武己が攻撃を行わないという絶対的な隙だった。剛蔵の太い両腕が、武己の胴体を背後から強引に抱え込む。相手の体に蛇のように巻き付き、骨の隙間に力を加えて物理的に破壊する関節術――『大蛇骨砕締め』だ。


 みしみし、と武己の肋骨と脊椎が、恐ろしい圧力で締め付けられ始めた。


「ぐっ……!」


 武己の口から、微かに血の混じった息が漏れる。これは打撃ではない。一瞬の衝撃であれば、吸気法によって経絡の隙間に逃がすことができる。だが、この持続的な「締め付け」に対しては、衝撃の逃げ場がない。呼吸が物理的に塞がれ、吸気法の調息リズムが根底から崩れかける。


「ハはは! どうだ、これなら吸い込めまい! お前の骨が一本ずつ砕ける音を、ここで聞かせてみろ!」


 剛蔵がさらに腰を落とし、全体重を乗せて武己の背骨を逆方向にねじ曲げようとする。武己の視界が、酸欠と激痛によって徐々に赤く染まり始めた。首にかけられた白檀の数珠が、彼の乱れる心拍を必死に安定させようと、冷たい真気を放ち続けているが、肉体の物理的な限界はすぐそこに迫っていた。


(このままでは、本当に骨が砕ける……)


 武己は脳裏に、無名の最期の言葉を響かせた。「お前の体は鏡だ」。鏡は、力を押し返すのではない。力をそのまま、自らの内側に調和させるのだ。


 武己は、極められた関節の激痛に耐えながら、自らの真気を能動的に放つのではなく、骨と靭帯の「隙間」へと静かに流し込んだ。それは、関節を固定して抵抗するのではなく、骨の弾性を極限まで高めて圧力を逃がす技術――『骨弾性衝撃吸収術』の基礎だった。


 骨と骨の間に、真気の極薄いクッションが滑り込んでいく。剛蔵がどれほど力を込めても、武己の肉体は不自然なほど柔らかくしなり、決して「ポキリ」と折れることはなかった。まるで、水を含んだ頑丈な革袋を締め付けているかのような、不気味な手応えが剛蔵の両腕に伝わる。


「なぜだ……なぜ折れん! この化け物が!」


 剛蔵は息を荒らし、額から滝のような汗を流しながら絶叫した。彼の筋肉は、武己を締め上げ続けるために限界まで過熱し、自らの『鉄筋功』の真気がすり減っていく。殴っても倒れず、締めても折れない武己の不気味さに、剛蔵の心の中に、生まれて初めて「死」への焦りと恐怖が芽生え始めていた。


「なぜ死なない! お前は人間か!」


 剛蔵は狂気に駆られたように叫び、さらに凶暴な締め技で武己の頸椎を直接ねじ切ろうと、両手を武己の顎にかけた。その瞬間――。


 熱狂に包まれていたはずの観客席の頭上から、耳を劈くような、鋭く、そして不気味な一音の旋律が響き渡った。


 ベン、と。冷たく乾いた、三味線の音が、血生臭い檻の中に鋭く刺さるように響いたのだ。

HẾT CHƯƠNG

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