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買収された衛兵と秘密の地図

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深夜二時。帝都ルミナスの地下に広がる外周区は、いつも以上に濃い魔導廃棄物の霧に包まれていた。青白く湿った闇が路地を這い、司法省外周区支部の重厚な石造りの外壁を濡らしている。


 榊鏡夜は、冷たい霧の中に立ち尽くし、自身の左腕をそっとさすった。制服の黒い袖の奥で、肘まで完全に硬化し、感覚を失った青い魔導ガラスの皮膚。他者の記憶を吸い上げ、ロードするたびに進行する「結晶化」の呪いは、確実に彼の肉体を蝕んでいた。こめかみの奥では、日中の尋問で「瞬間的記憶消去」を強引に連発したことによる、焼き付くような頭痛が残響のように脈打っている。


 だが、鏡夜に立ち止まっている時間はない。懐から取り出した真鍮製のアンティーク懐中時計――「レテの時計」の逆回転する針が、無慈悲に時を刻んでいる。残り時間は十分にない。新月の夜までに最高純度の「大罪人の記憶結晶」を悪魔レテに捧げなければ、地下室で眠る妹・結衣の命は尽きる。


「フィリップが動き出した……。あの愚か者がガストンの罠に嵌まれば、クラインの部隊が秘密工房を力ずくで制圧する。そうなれば、ガストンの特級記憶結晶は司法省に回収されるか、あるいは戦闘の衝撃で永遠に破壊される」


 そうなれば、結衣を救う唯一の手段は失われる。クラインの精鋭部隊が動く前に、ガストンの工房の位置を突き止め、先手を打って潜入しなければならない。そのためには、司法省の汚職の根源である高瀬長官が、自身の権限で隠蔽している「ガストンの地下工房の正確な地図」を奪う必要があった。


 鏡夜は眼鏡の位置を指先で直し、泥濘む地面を無音で踏みしめながら、支部の裏門へと近づいた。夜勤の衛兵が一人、だらしなく壁にもたれかかり、ランタンの薄暗い光の中で舟を漕いでいる。守衛ボリス。ギャンブル中毒で、常に借金に追われているうだつの上がらない男だ。


「ボリス」


 闇の中からかけられた静かな声に、ボリスは心臓を跳ね上がらせて飛び起きた。手にした魔導銃の銃口を向けようとしたが、相手が同じ支部の「無能な三級徴税官サカキ」であることに気づくと、露骨に安堵の息を吐き出した。


「な、なんだ、サカキか……。脅かすなよ。こんな夜更けに何の用だ? 勤務時間外だぞ」


「君に、少し見てもらいたいものがあってね」


 鏡夜は冷徹な「感情の凍結」を脳内で静かに稼働させながら、懐から極小の青い記憶結晶を取り出した。それをボリスの目の前で軽く振ると、結晶が放つ微弱な光が衛兵の怯えた顔を照らし出す。


「これは……非合法賭博場『錆びた歯車』の裏帳簿から、私が『徴収』した記憶だ。そこには、君が司法省の制服を担保にして、天文学的な額の借金を重ねている映像が克明に記録されている。もしこれが本省の監査官――例えば、あの冷酷なクライン特別捜査官の目に留まれば、君はどうなると思う?」


 ボリスの顔から一瞬にして血の気が引いた。男は魔導銃を握る手を小刻みに震わせ、後退りした。鏡夜の紫色の瞳が、眼鏡の奥で冷酷な光を放っている。その視線は、普段の「怯える下級官僚」のものでは決してなかった。ボリスは、目の前の男が「死神」の影を纏っていることを、本能的に察知して恐怖に支配された。


「お、お前……なぜそれを……。脅迫するつもりか!?」


「脅迫ではない、取引だよ」


 鏡夜は淡々と告げた。


「今から私を、支部の最奥にある『極秘証拠保管庫』へ案内しろ。警備ルートの隙間を教え、防犯アラームを作動させないように手引きするんだ。それができれば、この借用書の記憶結晶は、今この場で物理的に粉砕して消去してあげる」


 ボリスは激しい葛藤に顔を歪めた。保管庫への不法侵入の手引きは、発覚すれば即座に精神消滅刑(死刑)に値する。しかし、このまま借金が露呈し、クラインに尋問されれば、どのみち彼の人生は終わるのだ。鏡夜の冷徹な論理が、ボリスの退路を完全に断っていた。


「……分かった、付いてこい。だが、もしアラームが鳴ったら、俺は容赦なくお前を撃ち殺して逃げるからな」


「賢明な判断だ。その必要は訪れないよ」


 裏門の重い鉄扉が静かに開き、鏡夜はボリスの先導で、深夜の司法省支部へと足を踏み入れた。廊下の天井に設置された防犯用の魔力センサーが、不気味な赤い光を放っている。鏡夜はとっさに、自身の第二スロットに「ボリスの警備行動の記憶」を一時的にロードした。ボリスが日々行っている「公式な警備コード」の歩行パターンと魔力波長が、鏡夜の肉体へと同期していく。


 センサーの感知限界をミリ単位で見極め、ボリスの影に完全に重なるようにして歩みを進める。魔力センサーは、鏡夜の存在を「ボリスの巡回行動の一部」として誤認し、アラームを鳴らすことはなかった。


 幾重もの廊下を通り抜け、二人は地下最深部にある重厚な金属扉の前に到達した。扉のプレートには『極秘証拠保管庫』と刻まれている。ここから先は、本省直属の防衛結界が張られた禁域だった。


「ここが限界だ……。この扉の魔導錠は、高瀬長官の固有魔力波長がなければ開かない。魔術で無理にハッキングしようとすれば、結界が暴走して、お前の脳は瞬時に焼き切れるぞ」


 ボリスが恐怖に声を震わせながら囁く。鏡夜は「真眼」を極小に出力し、金属扉の鍵穴を透視した。確かに、物理的な歯車の奥に、複雑に絡み合った本省直属の防衛ルーンが張り巡らされている。もしここで自身の judicial magic を使えば、その魔力残渣はクラインの持つ「追跡魔針」に即座に感知され、この場所に包囲網が敷かれるだろう。


(魔術による解除は不可能。ならば、物理的な『技術』でこじ開けるまでだ)


 鏡夜は懐から、真鍮製の細長いピッキングツールを取り出した。かつて帝都を騒がせ、記憶を奪われて処刑された伝説の怪盗「銀の狐」の遺品。そして、脳内の第三スロットに「銀の狐の解錠技術」をロードする。


 瞬間、鏡夜の指先が、驚くほど軽やかで過敏な感覚を取り戻した。怪盗の軽妙な人格の残響が脳裏をかすめ、スリルに対する不敵な高揚感が湧き上がりそうになるが、鏡夜は即座に「感情の凍結」でそれを圧殺した。


「私の指先よ、完璧に動け」


 鏡夜は「銀の狐のピッキングツール」を鍵穴の奥へと差し込んだ。極細の特殊合金製の針が、複雑な魔導錠の内部構造に物理的に触れていく。魔力を一切放出しない。ただ、指先の超人的な触覚だけを頼りに、防衛結界のルーンが配置された「魔力の隙間」を縫うようにして、物理的なピンを一本ずつ押し上げていく。


 カチ、カチ、カチ……。


 静寂に満ちた地下廊下に、微小な金属音が響く。ボリスは冷や汗を流しながら、鏡夜のその神業のような指先の動きを、信じられないものを見るかのように見つめていた。魔力を一切放出していないため、防犯センサーも結界も、何が行われているかを全く感知できていない。


 最後のピンが噛み合った瞬間、重厚な金属扉の奥から、ガシャリと重い解錠音が響いた。防衛結界は暴走することなく、静かにその門戸を開いた。


「あ、開いた……。本当に、物理的なピッキングだけでこの結界を破りやがった……」


 ボリスの驚愕を無視し、鏡夜は無言で保管庫の内部へと滑り込んだ。室内には、過去に押収された禁忌の記憶結晶や、高瀬長官が私的に隠匿している不正の証拠資料が、整然と棚に並んでいた。


 鏡夜は「真眼」を起動し、棚の一角に配置された高瀬長官のプライベート金庫を捉えた。金庫の表面には、高瀬とガストンの裏取引を示す、不気味な黒い魔力の澱みが付着している。鏡夜は再びピッキングツールを駆使し、無音で金庫を解錠した。


 金庫の内部から、数冊の裏帳簿と共に、一本の異様な形状をした記憶結晶が転がり出た。それは、スラムの地下運河の構造と、廃棄された地下聖堂の位置が、緻密な魔導数式によって描かれた「秘密の地図」だった。地図の最深部には、赤く不気味に発光する文字で『死者の墓標』と刻まれている。ガストンの地下工房の正確な座標だった。


「見つけた……」


 鏡夜は地図の記憶結晶を懐へと収め、高瀬の汚職の記録が刻まれた帳簿を金庫に戻した。これで、ガストンの工房へ先んじて侵入するための、唯一の鍵は手に入った。


 保管庫を出た鏡夜は、約束通り、ボリスの借用書の記憶結晶を彼の目の前で握りつぶした。青い光の破片が霧のように霧散していくのを見届けると、ボリスは腰を抜かすようにしてその場にへたり込んだ。


「約束は果たした。君の借金の記録は、この世から完全に消滅したよ。……今すぐここを離れ、何も見なかったことにするんだ」


「あ、あぁ……分かった。お前が何者だろうと、俺は何も知らない……」


 ボリスがふらつく足取りで逃げるように去っていくのを見送り、鏡夜は脱出ルートへと向かった。裏門へ繋がる薄暗い地下通路を走り抜けようとした、その瞬間。


 通路の四隅から、物理的な光を完全に吸い込むかのような、異様な「影」が這い出してきた。


「――しまっ……!」


 鏡夜がとっさに後退しようとしたが、足元の影が物理的な鎖となって彼の両足を強固に縛り上げた。固有魔術「影縫い魔術(シャドウ・バインド)」。気配が全くなかった。自身の「真眼」さえも、その影に潜む殺意を直前まで感知できなかったのだ。


 背後の闇が物理的に歪み、一人の人影が音もなく滑り出てきた。全身を黒い忍び装束で包み、顔すらも布で隠した暗殺者。影縫いのシャドウ。


 冷たい風が吹き抜けた瞬間、鏡夜の首元に、極限まで研ぎ澄まされた一本の漆黒のダガーが、物理的な冷たさをもってピタリと押し当てられた。皮膚が一枚、かすかに裂け、一滴の血が伝う。


「動くな、司法省の死神」


 闇の中から響いたのは、性別すら判別できない、氷のように冷徹な声音だった。ダガーの刃先から放たれる圧倒的な殺気が、鏡夜の喉元を完全にロックしている。一呼吸でも動けば、その刃は躊躇なく彼の頸動脈を切り裂くだろう。

HẾT CHƯƠNG

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