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精神尋問プロトコルと仮面の裏側

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肺の奥深くに染み込む魔導廃棄霧の冷気と、脇腹を走る鋭い激痛。榊鏡夜は、スラムの闇に紛れて「榊時計店」の裏口へと滑り込んだ。不気味な赤色の信号弾が夜空を染め、司法省の執行官たちの足音が遠くで響くなか、彼は自身の気配を完全に遮断していた。


 店の奥の隠し階段を下り、防音と魔力遮断の結界が施された地下室へと至る。鏡夜は冷たい石壁に背を預け、荒い呼吸を整えた。昨夜、狂犬のジャックとの死闘で負った肋骨のひびが、呼吸をするたびにきしむような痛みを訴えかけてくる。しかし、それ以上に深刻なのは、自身の肉体を侵食しつつある「滅びの予兆」だった。


 鏡夜は仕立ての良い黒い司法省の制服の袖を捲り上げた。手首から始まった結晶化は、すでに肘のすぐ近くまで物理的に進行し、冷たい青い魔導ガラスの質感を帯びている。指先を動かそうとしても、冷たい粘土を動かしているかのように感覚が鈍い。「トラウマの逆流」を過剰に使用した代償は、彼の肉体を確実に削り取っていた。


 彼は懐から真鍮製の懐中時計を取り出した。悪魔から与えられた「悪魔の負債計数器(レテの時計)」だ。逆回転を続ける針は、次の納税期限まで残り「七百二十時間(三十日間)」を示している。ジャックを退け、シンの仲間である孤児たちの救出には成功した。だが、戦いの痕跡と信号弾の打ち上げにより、司法省特別捜査官クラインの包囲網は、このスラム外周区を完全にロックしつつある。


「……時間がないな」


 鏡夜の口から、乾いた掠れ声が漏れた。こめかみから流れた血が、眼鏡の銀縁を汚している。彼は懐中時計の裏蓋を爪の先で静かに押し開けた。そこには、榊家の血統魔術によって精製された、極小の青い結晶が埋め込まれている。榊家のバックアップコア――自身の「最も重要な記憶」を一時的に退避させるための、魂の保管庫だ。


 翌朝、クラインがスラムの全司法官に対し、死神の魔力波長を特定するための「司法省公認・精神尋問プロトコル」を強制執行する。嘘をつけば脳を直接焼き切られる、司法省最悪の罠。それに対抗するためには、自身の脳内を完全に「偽装」しなければならない。


「感情の凍結(コールド・マインド)」を一時的に解除し、鏡夜は脳内の「記憶の書斎」へと深くダイブした。整然と並ぶ書棚から、彼は最も神聖で、絶対に他者に触れられてはならない記憶を、一本ずつ慎重に引き抜き始めた。


 眠り続ける妹、結衣の天真爛漫な笑顔。彼女の温かい手の感触。父親の厳格だが慈愛に満ちた声。そして、自分自身の本当の名前――「榊鏡夜」という自己認識の核。


「く、っ……!」


 記憶を物理的に切り離す瞬間、脳の髄を熱い針で直接掻き回されるような、凄まじい激痛が走った。鏡夜は歯を食いしばり、声にならない悲鳴を上げながら、引き抜いた記憶の光を懐中時計の裏蓋のコアへと流し込んでいく。


 すべての重要記憶がコアに格納された瞬間、鏡夜の視界が急激に白濁した。猛烈な眩暈が彼を襲い、立っていられなくなって床に膝をつく。自分が誰なのか、なぜこの薄暗い地下室にいるのか、一瞬のあいだ、完全に理解を失う。脳内に広がる、底知れない空白と圧倒的な虚無感。


(私は……誰だ? なぜ、この時計を握りしめている……?)


 魂の根底が崩壊しかける恐怖。しかし、彼の無意識の防衛本能が、事前に用意していた「精神の偽装迷宮(マインド・パレス)」を強制起動させた。脳の表層に展開されたのは、「無能で臆病な下級徴税官」としてのダミー記憶だった。


 ギャンブルで借金を抱え、上司の高瀬長官に怯え、同僚のフィリップに見下されながら、日々スラムの貧民から小銭を毟り取る哀れな男。その卑屈な感情と偽りの日常が、鏡夜の脳細胞の隙間を完璧に埋め尽くしていく。紫色の瞳の光彩が、いつもの冴えない濁った色へと濁っていった。


 よし、と偽りの「自分」は思った。これで、仮面は完成した。


     *


 翌朝。帝国司法省・外周区支部の空気は、凍りつくような緊張感に支配されていた。


 廊下には武装した本省直属の執行官たちが等間隔で整列し、その黒鉄の甲冑が冷たい光を放っている。職員たちは誰もが青ざめた顔で俯き、一言も発することなく、地下へと続く階段の前に並んでいた。


「おい、聞いたか……。昨夜の倉庫の件で、クライン様が本気で死神をあぶり出すつもりらしい」


 鏡夜の前に並んでいた同僚のユーリが、ガタガタと歯を鳴らしながら、極小の声で囁いた。彼の額からは、冷や汗が絶え間なく流れ落ちている。


「精神尋問プロトコルだぞ……。嘘を検知する魔導具を頭に取り付けられて、脳を直接スキャンされるんだ。やましいことがなくても、脳が焼き切られるんじゃないかって、生きた心地がしないよ……」


 鏡夜は眼鏡の奥の目を怯えたように泳がせ、猫背の姿勢をさらに縮こまらせた。


「そ、そうですね……。私も、昨夜は闇酒場で賭け事をしていて、ノルマの報告書を一枚も書いていないんです。それがバレたら、高瀬長官にどんなお仕置きをされるか……」


「お前は呑気だな、サカキ! そんな次元の話じゃないんだよ!」


 ユーリが苛立たしげに吐き捨てる。鏡夜は怯える小市民の演技を完璧に維持しながら、周囲の状況を「真眼」を使わずに観察した。クラインの追跡魔針が近くにある以上、微小な魔力発動すら命取りになる。今は、ただの凡庸な人間に成り下がらねばならない。


 地下最深部にある「第4地下尋問室」。その重厚な鉄扉の前に、職員たちが一列に並ばされている。時折、扉の奥から「あ、あああ!」という短い悲鳴や、魔力回路がショートする不気味な破裂音が聞こえてくる。そのたびに、並んでいる職員たちの肩がビクリと跳ね上がった。


 尋問室から、顔を真っ白にして、執行官に両脇を抱えられた二級徴税官が引きずり出されていく。彼のこめかみからは、微かに煙が立ち上っていた。尋問システムの嘘検知に引っかかり、脳の魔導回路を強制シャットダウンされたのだ。


「次、サカキ・キョウヤ。前へ」


 執行官の冷徹な声が、薄暗い廊下に響き渡った。鏡夜は肩を大きく震わせ、怯える足取りで一歩を踏み出した。


 尋問室の重い鉄扉が開き、内部の冷たく張り詰めた空気が廊下へと流れ出す。部屋の中央には、不気味な銅製の針が何本も突き出た、王冠のような形状の魔導具が置かれていた。その背後には、一糸乱れぬ白い制服を纏った特別捜査官、クライン・ベルガーが、冷たい笑みを浮かべて立っていた。


 クラインの青い瞳が、獲物を狙う鷹のように、部屋に入ってきた鏡夜の姿をじっと見つめる。正体露呈の審判が、今、始まろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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