狂犬のジャックと絶望の逆流
不気味に青く光る「魔導廃棄霧」が立ち込める倉庫の奥から、獣じみた重苦しい呼吸音が聞こえていた。その湿った死臭のなかに、はっきりと異質な、そして暴力的な魔力の波動が混ざり合っている。
正面の闇を睨みつける榊鏡夜の紫色の瞳に、廃棄霧の向こう側から浮かび上がる巨大な影が映し出された。ガストンに雇われた凄腕の傭兵――「狂犬のジャック」。ボロボロの鎖帷子を纏い、全身に返り血を浴びたその男の瞳は、狂気的な赤色に発光していた。
「おいおい、ネズミが迷い込んできたと思えば、司法省のうだつの上がらない徴税官様じゃないか。いや、それとも……裏でガストンの縄張りを荒らし回っている『死神』様かな?」
ジャックは不敵な笑みを浮かべ、その巨大な両拳を打ち鳴らした。金属同士がぶつかり合うような重い音が倉庫内に響き渡る。彼の首元に揺れる「獣の牙のネックレス」が、禍々しい赤黒い光を放ち始めていた。
(くそ、このスリルはたまらないね! 徴税官の制服を着た死神だなんて、傑作じゃないか!)
鏡夜の脳の第二スロットに装填された「銀の狐」の記憶が、彼の意識の隙間から軽妙な笑い声を響かせる。スリルを渇望する怪盗の人格が、鏡夜の理性を内側から揺さぶろうとしていた。鏡夜は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷酷な声で脳内の雑音を遮断した。
「黙れ、泥棒。私の邪魔をするな」
鏡夜は即座に「感情の凍結(コールド・マインド)」の出力を最大まで引き上げた。脳内を支配していた怪盗の軽薄な愉悦感が一瞬にして凍りつき、機械のような絶対的な静寂が彼の精神を包み込む。心拍数は一定に保たれ、視界は「真眼」による紫色の世界へと完全に切り替わった。
「ハッ! 澄ました顔をしやがって。その澄ましたツラを、肉片ごと噛み砕いてやるよ!」
ジャックが吠えた。瞬間、男の肉体が不自然に膨張を始める。皮膚は灰色がかった頑丈な獣の表皮へと変貌し、筋肉が鋼鉄のように引き締まっていく。固有技術「獣化身体強化(ビースト・ブースト)」の発動だ。ジャックが床を踏み荒らすと、頑丈な石床がクモの巣状に砕け散り、その巨躯が弾丸のような速度で鏡夜へと突進してきた。
「――銀の狐の歩法。」
鏡夜はロードされた怪盗の隠密移動技術を反射的に起動した。自身の肉体の存在感を周囲の廃棄霧と同化させ、物理的な摩擦を極限まで減らして真横へと滑り込む。ジャックの巨大な拳が、鏡夜のいた空間を猛烈な風圧と共に突き抜けた。
ドゴォン!
ジャックの拳が背後のレンガ壁に直撃し、分厚い壁が一撃で粉砕される。だが、ジャックの突進速度は異常だった。回避したはずの鏡夜の視界に、即座に第二撃の回し蹴りが迫る。
鏡夜はとっさに左腕を盾にして防ごうとした。しかし、手首の上まで完全に結晶化し、感覚を失っている左腕は、彼の意図した速度よりもわずかに遅れてしか動かなかった。左半身の物理的な敏捷性の低下。その致命的な遅れが、ジャックの蹴りを完全にかわしきることを阻んだ。
ドッ!
強烈な衝撃が鏡夜の脇腹を襲う。防護制服の銀糸が魔力を遮断したものの、物理的な衝撃までは完全に殺しきれない。肋骨に微細なひびが入る鈍い痛みが走り、鏡夜の身体は倉庫の床を滑るようにして数メートル後退した。口内に鉄の味が広がる。
「あはは! どうした死神! 動きが鈍いぞ! その左腕、まるで死人のガラス細工じゃないか!」
ジャックは鏡夜の結晶化した左腕を嘲笑い、さらに距離を詰めてくる。男はこれまでに殺害してきた無数の犠牲者たちの「死の間際の絶望の記憶」を自らの脳内にロードしていた。それにより、彼の痛覚と恐怖心は完全に遮断され、肉体は限界を超えた出力を維持し続けているのだ。
(接近戦は分が悪い。動きを止める)
鏡夜は右手を伸ばし、極細の魔力波長を指先から放った。
「記憶の針(メモリー・ニードル)。」
目に見えない魔力の針が、突進してくるジャックの右肩の運動神経野を正確に貫いた。通常であれば、これで右腕の筋肉を動かす記憶(命令)が一瞬で麻痺し、攻撃は不発に終わるはずだった。
しかし、ジャックの動きは止まらなかった。男は右腕の神経が麻痺していることすら無視し、強引にその強靭な腕を振り下ろしてきたのだ。痛覚を遮断し、脳の警告を無視して肉体を駆動させる狂戦士の暴力。
「無駄だ! 俺は痛まねえ! 壊れねえ! ガストンの旦那がくれたこの脳みそは、どんな痛みも『快楽』に変換するんだよ!」
ジャックの拳が鏡夜の肩口を掠め、制服の生地が裂ける。冷や汗が鏡夜の額を伝う。「記憶の針」による運動記憶の遮断すら、ジャックの脳内に蓄積された犠牲者たちの怨念の記憶が「緩衝材」となって吸収されてしまっているのだ。物理的なダメージや、通常の魔術的干渉では、この狂犬を止めることはできない。
(痛覚を持たず、恐怖も感じない肉体。ならば、肉体ではなく――その脳内の『感情回路』そのものを焼き切るしかない)
鏡夜は覚悟を決めた。彼は自身の精神世界「記憶の書斎」の最深部へと意識を向け、これまで厳重に維持してきた「感情の凍結」を、自らの意志で一時的に解除した。
ドクン、と心臓が激しく脈打つ。
凍りついていた精神の檻が解き放たれ、鏡夜の胸の奥から、どす黒い感情の濁流が一気に噴き出した。それは、妹の結衣が悪魔レテに記憶を奪われ、目の前で感情を失った抜け殻となったあの日の、狂おしいほどの絶望。救えなかった己の無力さに対する、底なしの怒りと悲痛な叫び。榊家が粛清された夜の、燃え盛る炎と血の匂い。
鏡夜の瞳が、狂気的な深い紫色に染まり、全身から冷たい魔力の霧が立ち上る。彼は自らの最も深い傷口(トラウマ)を抉り、その絶望の記憶を魔力の弾丸へと変換した。
「ジャック。お前の脳内にある『死の記憶』など、ただの玩具に過ぎない」
鏡夜はあえてジャックの突進を避けるのをやめた。ジャックの巨大な手が鏡夜の胸倉を掴み、彼を壁へと叩きつける。背中の骨がきしむ音がしたが、鏡夜は表情一つ変えず、感覚のない左腕でジャックの腕を固定し、自由な右手を伸ばしてジャックの頭部を鷲掴みにした。
「見せてやる。本物の『地獄』を」
「あ……?」
ジャックが不審そうに呻いた瞬間、鏡夜の指先から、黒く濁った魔力の奔流がジャックの脳内へと直接流し込まれた。
「トラウマの逆流(マインド・アビス)。」
瞬間、ジャックの赤い瞳が恐怖に見開かれた。男の脳内に、鏡夜の抱える底なしの絶望の記憶が、濁流となって逆流していく。
そこは、光の一片すら届かない忘却の深淵だった。愛する妹の翡翠色の瞳から、光が消え去っていく無限のループ。自分が誰であるかさえ忘れ、ただガラスの人形のように眠り続ける妹を、毎日見つめ続けなければならない生殺しの絶望。榊一族が歴史から消し去られ、両親が冷酷に処刑された夜の、骨まで凍りつくような虚無。
ジャックがこれまでに収集してきた、犠牲者たちの小市民的な「死の恐怖」など、鏡夜の抱える「存在そのものが消滅していく絶望」の質量には遠く及ばなかった。ジャックの脳内の感情回路は、許容量を遥かに超えた絶望のエネルギーによって、瞬時にオーバーヒートを起こした。
「ガ、ハッ……なんだ、これは……! 寒い、暗い……! 結衣……? 誰だ、お前は……! 俺を、俺の記憶を消すなァァ!」
ジャックは鏡夜の胸倉を掴んでいた手を離し、自らの頭を抱えて悲鳴を上げた。彼の強靭な肉体強化魔術が内側から崩壊し、全身の皮膚から青白い魔力の光がパチパチと弾け飛ぶ。脳が絶望の負荷に耐えかねて狂乱し、肉体の制御信号を完全にシャットダウンさせていた。
「うあああ! 頭が割れる! 消える! 俺が、俺が消えるぅぅ!」
ジャックは発狂した獣のように叫びながら、倉庫の頑丈な石柱に向けて、自らの頭部を何度も、何度も全力で叩きつけ始めた。骨が砕ける鈍い音が響くが、脳内の絶望から逃れるため、彼は自傷行為を止めることができない。
やがて、数回目の激突の後、ジャックは白目を剥いて床へと崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。彼の頭部から、青黒い未練結晶の残渣が煙を立てて消え去っていく。脳内の感情回路が完全に焼き切れたのだ。
「はぁ、はぁ……」
鏡夜は膝をつき、激しい呼吸を繰り返した。鼻から生温かい血が滴り、眼鏡のレンズを汚す。「トラウマの逆流」の反動による、激しい精神的疲弊とフラッシュバック。脳の奥が、焼きごてを押し当てられたように熱い。
彼は懐中時計を取り出し、震える指で裏蓋を確認した。榊のバックアップコアは無事だが、自身の精神侵食度が確実に上昇しているのを感じる。そして、彼の左腕を見下ろすと、結晶化の青い領域が手首からさらに数センチ上、肘の近くまで物理的に拡大していた。冷たい感覚が、彼の肉体を侵食し続けている。
「先生……! 大丈夫!?」
倉庫の影から、シンが恐る恐る姿を現した。彼の背後には、怯えた表情の孤児たちが身を寄せ合っている。子供たちの頭部には、まだ記憶を抜かれた痕跡はない。間一髪で救出が間に合ったのだ。
「……私は大丈夫だ、シン。子供たちを連れて、すぐに黒川の診療所へ向かえ。あそこなら安全だ」
鏡夜は「感情の凍結」を再び稼働させ、血を拭いながら立ち上がった。声はいつもの冷徹なトーンに戻っていた。
「うん! わかった。みんな、僕についてきて!」
シンは子供たちの手を引き、倉庫の裏口へと迅速に誘導し始めた。子供たちの無事な姿を見送り、鏡夜は静かに安堵の息を漏らした。シンの仲間を救い出すという個人的な動機(ミクション)は、ここに果たされた。
だが、彼らが裏口の扉を開けようとした、その瞬間だった。
倉庫の天井近く、崩れたレンガ壁の隙間に潜んでいた人影が、不気味な笑みを漏らした。それは、倒れたジャックのパートナーであり、ガストンファミリーの残党だった。
「ひひっ、死神め、ジャックを倒して油断したな……。お前の正体は、司法省のクライン様に教えてやるよ!」
その男の右手から、一本の魔導筒が夜空に向けて突き出された。鏡夜が「真眼」でそれを捉え、制止の魔力を放とうとしたが、結晶化した左腕の遅れと、戦闘の疲労が彼の動きをわずかに鈍らせた。
ヒュゥゥゥ――パンッ!
倉庫の崩れた天井から放たれたのは、眩い赤色の信号弾だった。それは、スラムの外周区全体を包囲しているクラインの精鋭部隊に向けて、「死神がここにいる」と告げる、最悪の警告灯だった。
夜空を赤く染める光を見上げながら、鏡夜の紫色の瞳に、冷たい緊張感が再び走り抜けた。遠くから、司法省の執行官たちの重厚な足音と、魔針の警報音が、こちらへ向けて急速に近づいてくるのが聞こえ始めていた。
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