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特別捜査官クラインの影と沈黙の制服

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翌朝、帝都ルミナスの最下層に位置する「司法省・外周区支部」の重厚な石造りの庁舎は、氷を貼り詰めたかのような異様な緊張感に包まれていた。立ち込める朝霧はいつも以上に灰色く濁り、石床を濡らしている。出勤してきた職員たちは、互いに目を合わせることを避け、怯えたように肩を寄せ合って囁き合っていた。


 それも無理はなかった。昨夜、スラムを支配する屍術師ガストンの右腕であるレバールが、脳の記憶をすべて引き抜かれた「抜け殻」――忘却病の末期患者として発見されたという凶報が、夜明けとともに庁舎を駆け抜けたからだ。しかも、現場には司法省の内部事情に通じた、通称「記憶の死神」と呼ばれる違法な記憶強奪者の影があったという。


 榊鏡夜(サカキ・キョウヤ)は、いつもうだつの上がらない下級官僚が着る、少し着古された司法省の黒い制服に身を包み、銀縁の眼鏡の位置を指先で静かに直した。周囲の喧騒を余所に、彼の表情は完璧なまでに凡庸で、かつ臆病な役人のそれだった。しかし、その胸の内は冷徹な計算で満ちていた。


(レバールを廃人にした件で、本省がこれほど素早く動くとはな。だが、私の痕跡は残していないはずだ)


 鏡夜は無意識に、制服のボタンを第一ボタンまで固く締め直した。この制服の裏地には、スラムの偏屈な仕立て屋である「針使いのメイ」に莫大な対価――大罪人から奪った技能の記憶――を支払って縫い込ませた、特殊な銀糸の紋章が隠されている。これこそが、外部からの精神探査や魔力スキャンを音もなく吸収・拡散する「記憶遮断の銀糸制服」だった。


 黒い革手袋に覆われた彼の左腕は、すでに手首の上部まで冷たい青い魔導ガラスのように結晶化が進行しており、感覚が完全に消失している。だが、この制服の袖と手袋がある限り、その滅びの兆候が他人の目に触れることはない。


「おい、榊! 何をもたもたしている! 全員、地下一階の大会議室に招集だ!」


 背後から、傲慢な声が響いた。鏡夜を常に目の敵にしているエリート新人、フィリップだった。鏡夜はわざとらしく肩をビクつかせ、卑屈な笑みを浮かべて一礼した。


「は、はい! すぐに参ります、フィリップ様」


 鏡夜はフィリップの後ろを、頭を下げながら追った。向かう先は、冷たい湿気が澱む地下一階の大会議室。そこにはすでに、外周区支部の全職員が集められていた。重苦しい沈黙が満ちる中、壇上に一人の男が姿を現した瞬間、その場の空気が物理的な圧力となって職員たちを押し潰した。


 一糸乱れぬ帝国司法省特別捜査本部(CIB)の白い制服。非の打ち所がない端正な容姿に、すべてを見透かすかのような冷徹な青い瞳。彼の存在そのものが、うだつの上がらない外周区支部に「本省の絶対的な規律」を突きつけていた。


 彼こそが、本省から派遣された若き超エリート特別捜査官、クライン・ベルガーだった。


「静粛に」


 クラインが低く、だが驚くほど透き通った声で呟いた。その一言で、会議室の雑音が完全に消失した。


「昨夜、スラム外周区にて、特定大罪人ガストンの配下であるレバールが、何者かによってすべての記憶を剥奪され、廃人と化しているのが発見された。司法省の公式な徴収手続きを経ない記憶の強奪は、魂の窃盗罪であり、帝国法に対する重大な反逆である」


 クラインは冷たい視線を職員たちへ向けながら、懐から真鍮製の美しいコンパスを取り出した。文字盤の上で、細い針が不規則に、かつ鋭く震えている。それこそが、対象の精神の残り香や魔力の波長を執拗に感知して追跡する、悪夢の探知装置「クラインの追跡魔針」だった。


「現場からは、極めて微弱だが、司法省の徴収術式に酷似した魔力の残渣が検出された。犯人は、スラムの犯罪者ではない。この司法省の内部事情と、徴収魔術の高度な技術を熟知している『死神』と呼ばれる何者かだ。本日より、私は『捜査官クラインの執拗な追跡網』を展開し、この外周区支部のすべての職員に対する精神査問を実施する」


 会議室に、息を呑む音が響いた。クラインの言葉は、この中に犯人がいると断定しているに等しかった。クラインは魔針を掲げ、最前列に並ぶ職員たちから順番に、その魔力波長のスキャンを開始した。


 スキャンが進むにつれ、鏡夜の脳細胞は急速に冷えていった。彼は自身の精神世界の奥深く、無限の書棚が並ぶ「記憶の書斎」へと意識を沈め、固有技術「感情の凍結」を発動した。恐怖、焦燥、警戒――すべての感情の波形が完全に平坦化され、彼の心拍数と魔力の揺らぎは、無機質な石のようにフラットな状態へと固定された。


 やがて、鏡夜の順番が近づいてくる。その時、手柄を焦るフィリップが、クラインに向けて一歩踏み出し、勝ち誇ったような声を上げた。


「クライン特別捜査官! 容疑者について、一つ心当たりがございます。そこにいる三級徴税官の榊鏡夜です! 奴は昨夜、不審な時間帯に外出し、アリバイが曖昧なはずです。日頃の徴収ノルマも異常に低く、何か裏で不当な取引を行っているに違いありません!」


 フィリップの告げ口に、職員たちの視線が一斉に鏡夜へと集まった。鏡夜はわざとらしく視線を泳がせ、手を小刻みに震わせて見せた。


「な、何をおっしゃるのですか、フィリップ様! 私は昨夜、書類の整理で遅くなり、その後は自室で休んでいただけです……!」


「嘘を言うな! お前の昨夜の日誌には不審な空白があるはずだ!」


 フィリップが鏡夜を指差して怒鳴り散らしたその時、会議室の隅から、大きな丸眼鏡をかけた少女が、大量の書類を抱えながらおどおどと手を挙げた。文書管理室の事務員、ニコラだった。


「あ、あの……! フィリップ様、大変失礼ですが、それは誤解です……!」


 ニコラの気弱な、しかし通る声に、クラインの視線が動いた。


「……説明しなさい」


「は、はい! 昨夜の榊様の待機記録および書類提出ログは、私の手元で正常に処理されています。むしろ、フィリップ様が先ほど提出された昨夜の巡回日誌ですが……時間の記録が二時間も重複しており、物理的にあり得ないタイムラインになっています。榊様を疑う前に、ご自身の提出書類の誤りを訂正されるべきかと……」


「なっ、何だと!? バカな、そんなはずは――」


 フィリップが顔を真っ赤にして絶句した。ニコラは鏡夜の「うだつの上がらない態度」に同情し、無自覚に彼の味方をしてくれたのだ。実際には、鏡夜が事前にニコラの整理するデータベースに微細なハッキングを施し、自身のログを改ざんしていたのだが、ニコラはそれを自身の処理ミスを修正しただけだと思い込んでいた。


 クラインの冷徹な青い瞳が、フィリップへと向けられた。


「他者を告発する前に、自身の義務を正確に果たすことだ。二時間の重複……職務怠慢の疑いがあるな、フィリップ徴税官」


「くっ……そ、そのようなことは……!」


 フィリップが恥辱と恐怖で引き下がる中、クラインはついに鏡夜の目の前へと歩み寄った。その距離、わずか一歩。


 クラインの放つ、法典の論理で鍛え上げられた鋭い魔力の気配が、鏡夜の肌を刺した。鏡夜は「感情の凍結」を維持したまま、怯えた下級官僚の瞳でクラインを見上げた。


「榊鏡夜。君の経歴を見たが、魔導の才能は平凡、徴収率も常に最下位。だが、これほど無能でありながら、なぜこの支部で解雇されずに残っていられる?」


 クラインの質問は、静かだが容赦のない刃だった。鏡夜は小さく身を縮め、消え入りそうな声で答えた。


「……申し訳ありません。私は、生まれつき魔力の処理速度が遅く、フィリップ様のような優秀な方々に、いつも徴収対象を先を越されてしまい……。一条検事様のご温情がなければ、今頃スラムで野垂れ死んでいたところです……」


 徹底的な無能の演技。クラインのようなエリートは、「不自然な有能さ」や「完璧すぎる沈黙」を最も疑う。あえて自己の弱さと凡庸さを誇張し、同情と侮蔑を誘うことが、この心理戦における鏡夜の最適解だった。


 クラインは無言で鏡夜を凝視した。その青い瞳の奥で、鋭い疑念の光が蠢いている。クラインは右手を伸ばし、鏡夜の肩へとそっと置いた。瞬間、クラインの指先から、嘘や魔力の乱れを検知する微弱な「精神探査(スキャン)」の波長が放たれた。


 鏡夜の心臓が、警告を鳴らそうとする。だが、「感情の凍結」によって彼の肉体は一切の動揺を示さない。そして次の瞬間、クラインの放った探査の魔力は、鏡夜が着用している「記憶遮断の銀糸制服」の裏地に施された銀糸の紋章に接触した。


 チリ、と微かな熱が鏡夜の肩に生じたが、それだけだった。メイが仕立てた銀糸は、クラインの探査パルスを自身の魔力と同化させ、何事もなかったかのように外部へと逃がした。クラインの手元にある「追跡魔針」の針は、全く反応を示さず、静止したままだった。


「……異常な魔力反応はなし、か」


 クラインは微かに眉をひそめ、鏡夜の肩から手を離した。彼の表情には、自身の直感が外れたことに対する、かすかな不満が滲んでいた。


「榊鏡夜、君の無能さは十分に理解した。だが、スラムでの行動には気を引き締めることだ。死神の鎌は、いつ君のような弱者の首を刈るか分からない」


「は、はい……肝に銘じます……」


 鏡夜は深く頭を下げ、冷や汗を隠した。クラインは踵を返し、次の職員の査問へと移っていった。大会議室を満たしていた張り詰めた空気が、鏡夜の周囲だけ微かに緩む。


 直接の疑いは免れた。しかし、クラインの登場により、この外周区支部、そしてスラム全域に対する監視の目は確実に強まる。これ以上の違法な記憶強奪は、これまで以上に困難になることは明白だった。


 査問が終了し、職員たちが解放される中、鏡夜は静かに会議室を後にしようとした。だが、廊下へと出た瞬間、背後から音もなく近づいてきた影があった。


 鏡夜の真横で、その足がピタリと止まる。


 見上げると、そこにはいつの間にか移動していたクライン・ベルガーが立っていた。彼の冷徹な青い瞳が、銀縁眼鏡の奥にある鏡夜の紫色の瞳を、じっと射抜いていた。


 クラインは微かに首を傾げ、鏡夜にしか聞こえない極小の声で、静かに囁いた。


「君、どこかで嗅いだことのある魔力の匂いがするな」

HẾT CHƯƠNG

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