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新月の納税と眠れるガラスの人形

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帝都ルミナスの地下に広がる「外周区」の夜は、這い回る廃棄魔導霧によって常に青白く濁っている。錆びた鉄と湿った泥の臭いが立ち込める路地を抜け、榊鏡夜(サカキ・キョウヤ)は自身の隠れ家である「榊時計店」へと滑り込んだ。古びた木製の扉を閉め、頑丈な閂を下ろした瞬間、張り詰めていた緊張がわずかに緩む。


 鏡夜は偽装外套のポケットから、先ほど強奪したばかりのレバールの「上級記憶結晶」を取り出した。ピンセットの先で鈍く光る結晶は、誘拐された子供たちの恐怖や、ガストンの地下工房に関する非道な情報が詰まった青黒い塊だ。これがあれば、新月の夜の納税は果たせるはずだった。


 だが、懐から取り出した真鍮製のアンティーク懐中時計――悪魔から与えられた「悪魔の負債計数器(レテの時計)」の文字盤を見つめた瞬間、鏡夜の眉が険しく寄せられた。


 数字のない盤面の上で、不気味に逆回転を続ける針が示している残り時間は、あとわずか数時間。今夜こそが、悪魔レテへの「月次納税」の刻限だった。左腕の感覚は、すでに手首の上部まで完全に消失している。冷たく、硬い、青い魔導ガラスのような質感が皮膚の下で確実に広がっているのを感じ、鏡夜は小さく息を吐いた。


「時間がないな……。結衣、待っていてくれ」


 鏡夜は店の奥にある重厚な扉を開け、地下へと続く薄暗い石造りの階段を降りていった。防音と魔力遮断の結界が幾重にも施された最深部。そこには、榊家の血統魔術にのみ反応する隠し部屋――「悪魔レテの召喚の間」が存在する。


 石室の中央には、複雑な幾何学模様が刻まれた黒い石造りの祭壇が鎮座していた。周囲の空気は、現実世界の物理法則を拒絶するように歪み、極限の寒気が肌を刺す。鏡夜は自身の指先を小刀で微かに傷つけ、祭壇の縁に血を滴らせた。血統の紋章が赤く発光し、空間の歪みがさらに激しくなる。


 鏡夜は、レバールから奪った青黒い記憶結晶を祭壇の中央へと捧げ、静かに詠唱を始めた。


「忘却の淵より、約束の履行を。我が魂の負債を、この記憶の質量をもって返済せん」


 悪魔の月次納税儀式が始まった。


 突如として、石室の四隅から影のような黒い霧が噴き出し、空間全体を支配した。霧の中から、ジャラジャラと不気味な音を立てて現れたのは、実体のない虚無の鎖(レテ・チェイン)だ。その鎖が祭壇を縛り上げるように蠢き、霧の最深部から、二つの冷酷な紫色の光が浮かび上がった。


『――呼んだか、我が契約者よ』


 脳髄に直接響く、悍ましいほどに静かで冷徹な声。それこそが、鏡夜の妹・結衣の記憶を奪い、彼の魂を担保にしている「忘却の悪魔レテ」だった。悪魔の姿は形を持たず、ただ渦巻く黒い霧と虚無の鎖、そして凍りつくような眼光だけで構成されている。


 レテは祭壇の上に置かれたレバールの記憶結晶を見つめ、霧の触手でそれを包み込んだ。結晶がパキパキと音を立てて砕け、中の記憶が黒い霧に吸い込まれていく。だが、悪魔は満足するどころか、不快そうに鎖を鳴らした。


『……ふん。期待外れだな、鏡夜。これはただの上級(ハイグレード)に過ぎぬ。屍術師の腰巾着の記憶など、雑味ばかりで魂の質量が足りぬ。あの眠れる人形の生命を維持するには、これでは到底、納税の額に達しない』


 レテの冷酷な眼光が、鏡夜を射抜いた。凄まじい虚無の圧力が鏡夜の精神世界「記憶の書斎」を揺らし、脳内に激しい頭痛が走る。鏡夜はすかさず脳内の「多重精神回路」を限界まで展開し、自我の完全な消失をギリギリで防いだ。


「……レバールの記憶だけでは、足りないと言うのか」


『当然だ。等価交換こそが絶対のルール。足りぬ分の税は、お前自身の『記憶』で支払ってもらう』


 悪魔の霧が触手のように伸び、鏡夜の頭部へと迫る。鏡夜は奥歯を噛み締めた。これ以上の記憶喪失は、自身の境界線をさらに曖昧にし、自分が誰であるかを見失うリスクを跳ね上げる。だが、ここで拒絶すれば、結衣の生命維持は今この瞬間に途絶え、彼女は結晶化して砕け散るのだ。


「……分かった。私自身の記憶から、引け」


『賢明な判断だ、我が契約者よ』


 レテの霧が鏡夜の額に触れた瞬間、脳の奥深くから、何か温かいものが無理やり引きちぎられるような激痛が走った。鏡夜は声を上げることもできず、ただ祭壇に両手をついて耐えた。


 失われていくのは、幼い頃の記憶。まだ榊家が滅びる前、暖炉の傍らで、病弱な彼を優しく包み込んでくれた「母親の優しい手の感触」の記憶だった。その温もりが、肌の感覚が、母の微笑みのディテールが、砂のように崩れて虚無の霧へと消えていく。胸を締め付けるような切ない喪失感が、凍結されたはずの鏡夜の心を微かに揺らした。


 チクタク、と真鍮の懐中時計が激しい音を立てて逆回転した。文字盤の針が動き、結衣の生命維持の猶予が、正確に「三十日間(七百二十時間)」延長されたことを示す。


『納税は確かに受け取った。だが、次の新月までに、あの屍術師ガストン本人の特級記憶結晶(プレミアム)を捧げよ。さもなくば、次はお前の魂そのものを、この忘却の底へ引きずり落としてやる』


 悪魔レテは嘲笑うような声を残し、虚無の鎖と共に黒い霧の中へと消え去った。凍りつくような寒気が引いていき、石室にはただ、静寂と、冷たくなった鏡夜の吐息だけが残された。


 鏡夜は額の汗を拭い、祭壇の上に一滴だけ残留していた黒い液体を、慎重にガラスの小瓶へと回収した。これこそが、等価交換の過程で生じる希少な触媒「悪魔の血清」だ。結衣の肉体の崩壊を物理的に食い止めるための、唯一の命綱だった。


「……くっ、あたまが……」


 母親の記憶を失った脳の領域が、不自然な空白となってズキズキと痛む。だが、鏡夜は立ち止まらなかった。懐中時計をしまい、冷たくなった左腕を抱えるようにして、彼はスラムのさらに奥深くへと走り出した。向かう先は、闇医者・黒川が営む「黒川診療所」だ。


 スラムの薄汚れた雑居ビルの三階。割れたガラス窓から漏れる微かな魔導ランタンの光を頼りに、鏡夜は診療所の扉を物理的にノックした。独特の合図。数秒の後、不機嫌そうな顔をした中年男性が扉を開けた。無精髭を生やし、煙草の煙を燻らせた男――闇医者、黒川(クロカワ)だった。


「……遅かったな、鏡夜。あのガキの結晶化が、いよいよ危険な領域に入りかけてるぞ」


 黒川は鏡夜の顔を見るなり、低い声で告げた。鏡夜は何も言わず、外套の奥から先ほど回収した「悪魔の血清」が入った小瓶を差し出した。


「これを使え。今月の納税は済ませた」


 黒川の目が、小瓶の中の黒い液体を見て鋭く光った。「相変わらず、とんでもないものを手に入れてきやがる。……入れ」


 診療所の奥にある、白いカーテンで仕切られたベッド。そこには、鏡夜の最愛の妹、榊結衣(サカキ・ユイ)が横たわっていた。絹のように細い白髪は枕に広がり、翡翠色の瞳は固く閉じられている。彼女の呼吸は非常に弱く、その小さな指先は、すでに微かに青い魔導ガラスのように硬化し始めていた。生体結晶化の進行。魂(記憶)を失った肉体が、世界の法則によって物理的に崩壊しつつある証拠だった。


 黒川は手際よく、特殊な魔導点滴器に「悪魔の血清」を調合し、結衣の細い腕へと針を刺した。


 黒い液体が管を通り、結衣の体内に注入されていく。数分の後、結衣の指先に浮き出ていた青いガラスのような硬質化が、微かに融解し、元の柔らかい皮膚の質感へと戻っていった。彼女の呼吸が徐々に深く、安定したものへと変わる。


 鏡夜はベッドの傍らに腰を下ろし、結衣の穏やかな寝顔を見つめた。彼女を救うためなら、自分の記憶など、いくらでも悪魔にくれてやる。たとえ、いつか自分に関するすべての記憶を失い、世界の因果から消え去ることになろうとも。


「……ふぅ、一命は取り留めたな」


 黒川が器具を片付け、煙草を灰皿に押し付けながら言った。「だが、鏡夜。これはただの応急処置に過ぎん。あの悪魔の血清による延命も、スラム産の代替薬も、もう限界が近い。根本的にこの結晶化を止めるには、魔導院の『精神洗浄の魔導器』か、本物の『ブルーロータス』が必要だ」


「分かっている。近いうちに、魔導院へ潜入するルートを確保する」


 鏡夜は立ち上がり、外套を羽織り直そうとした。だが、その動きを、黒川の鋭い視線が呼び止めた。


「おい、鏡夜。……その左腕を見せろ」


 黒川の声に、不穏な響きが混ざっていた。鏡夜は一瞬ためらったが、黒川は強引に彼の左腕を掴み、制服の袖を乱暴に捲り上げた。


 捲り上げられた皮膚を見て、黒川の顔が驚愕と深刻な色に染まる。


 鏡夜の左腕――手首から数センチメートル上部にかけて、皮膚の表面が微かに青く、半透明の硬いガラスのように変色していた。それは結衣の肉体を蝕んでいるものと全く同じ、悪魔の契約の呪いによる「結晶化の予兆」だった。


「……お前、自分の身体がどうなってるか、気づいていやがったな」


 黒川の指先が、冷たくなった鏡夜の結晶化部分に触れる。そこにはもう、温かい人間の血の通う感覚は、ほとんど残されていなかった。

HẾT CHƯƠNG

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