銀のピンセットと死神の鉄槌
帝都ルミナスの最下層、裏路地「蛇の道」は、湿った腐食煉瓦と廃棄魔導液の饐えた臭いに満ちていた。上層から垂れ流される青白い「廃棄霧」が、夜の帳を這うように立ち込め、月光すらも澱んだ光へと変えている。
榊鏡夜(サカキ・キョウヤ)は、その湿った闇の隙間に身を潜めていた。灰色の「精神の偽装外套」が、彼の魔力波長を周囲の霧と同化させ、司法省のいかなる探知網からもその存在を隠蔽している。
「……くっ」
鏡夜は無言で左腕をさすった。手首から先は、感覚が完全に消失している。冷たく、硬い、青いガラスのような結晶が皮膚の裏側で蠢いているのが分かった。悪魔との契約の代償――結晶化の侵食は、確実に彼の肉体を蝕みつつある。新月の納税期限まで、もう時間がない。
その時、前方の地下倉庫の重い鉄扉が、軋んだ音を立てて開いた。
現れたのは、全身に不気味な刺青を施した痩せこけた男――屍術師ガストンの右腕、レバールだった。男は目の粗いキャンバス布で覆われた大型の荷車を引いている。布の隙間から、小さな子供たちの押し殺したすすり泣きと、恐怖に満ちた荒い息遣いが漏れていた。
シンの仲間である孤児たちだ。奴は子供たちの脳から「純粋な幼少期の思い出」を抽出し、ガストンの実験室へ供給しようとしている。
レバールの背後から、さらに三つの巨大な影が這い出てきた。人の形をしてはいるが、その肉体は腐敗し、不気味な青い光を放っている。ガストンの屍術によって使役される「屍兵(ゾンビ)」たちだ。死臭と魔力の澱みが、路地の空気を一瞬で凍りつかせた。
「誰だ!」
レバールが鋭く叫び、片目の潰れた顔を鏡夜の潜む闇へと向けた。野良犬にしては、気配が静かすぎることに気づいたのだろう。男は躊躇なく、背後の屍兵たちに指し示した。
「そこのネズミを引き裂け。脳ミソをガストンの肥やしにしてやる!」
三体の屍兵が、猛烈な勢いで突進してきた。肉体が腐り落ちているとは思えないほどの神速。突風と共に押し寄せる死臭の壁が、鏡夜の視界を塞ぐ。
だが、鏡夜の心臓は静かに脈動を続けていた。彼は脳内の第回路を起動し、冷徹に呟いた。
「――感情の凍結(コールド・マインド)。」
瞬間、鏡夜の脳内から、恐怖、焦燥、嫌悪といった一切の感情が消え去った。彼の精神は、冷酷な演算機械のごとき静寂へと沈み込む。心拍数は一定に保たれ、視界は極限までクリアになった。
鏡夜は銀縁の眼鏡を指先で微かにずらした。その奥に隠された双眸が、異常な紫色に発光する。固有技術「真眼(しんがん)」の展開だ。
紫色の視界の中で、突進してくる屍兵たちの肉体は、魔力の流れを示す光の数式へと還元された。真眼の光彩が、屍兵たちの胸部に埋め込まれた青黒い結晶を捉える。それは死者の未練を増幅して動力源とする「未練結晶」だ。
「見えた。」
先頭を走る屍兵の結晶の表面に、かすかな「亀裂(ノイズ)」が走っている。魔術の構成に生じた、極小の構造的欠陥。鏡夜は右手を伸ばし、指先から極細の魔力波長を放った。
「魔導回路のハッキング(コード・ディスラプト)。」
鏡夜の魔力が、その亀裂から屍兵の未練結晶へと侵入した。彼は結晶に刻まれた「主人(レバール)を認識する記憶」の前提条件を瞬時に書き換えた。敵を味方に、味方を敵に。
ハッキングされた屍兵は突如として足を止め、その不気味な首を真横へと曲げた。そして、隣を走っていた二体目の屍兵の頭部に向けて、肉塊と化した拳を叩き込んだ。
凄まじい衝撃音が路地に響き渡り、二体の屍兵が縺れ合って地面を転がった。突然の裏切りに対応できず、三体目の屍兵も巻き込まれ、凄惨な肉の破壊劇が始まる。レバールの使役術は、内側から完全に瓦解した。
「なっ、何をした!? 俺の屍兵が同士討ちだと!?」
レバールが驚愕に目を見開いた瞬間、鏡夜はすでに偽装外套を翻して距離を詰めていた。
しかし、レバールもまた、数々の修羅場をくぐり抜けてきた犯罪者だった。男は左手で懐から湾曲した一本のダガーを抜き放った。刃先から滴る紫色の液体は、触れた者の脳を狂わせる「精神を狂わせる毒刃」だ。
「死ね、小細工野郎が!」
レバールが狂気に満ちた叫びと共に、毒刃を鏡夜の喉元へと突き出した。毒刃が切り裂く風圧だけで、鏡夜の精神世界が微かに揺らぐほどの邪悪な魔力。
左腕の感覚がない鏡夜にとって、この至近距離での回避は物理的に不可能に思えた。
だが、鏡夜は脳内の第回路に、あらかじめストックしていた「銀の狐」の記憶結晶を一時的にロードした。
「――銀の狐の歩法(シャドウ・ステップ)。」
鏡夜の肉体が、本人の意志を超えた反射速度で真横へとブレた。毒刃の切っ先が、紙一重で彼の頬をかすめる。刃の放つ毒気が皮膚を焼き、細い傷口から一筋の血が流れ落ちた。しかし、凍結された精神は、その痛みを単なる数値として処理する。
同時に、急激な記憶の多重ロードにより、鏡夜の脳細胞が過熱した。右の鼻孔から、熱い血がひとすじ、静かに流れ落ちる。
鏡夜はその血を拭うことすらせず、踏み込んだ。彼の右指先には、極細の魔力で形成された「記憶の針(メモリー・ニードル)」が握られていた。
「そこだ。」
鏡夜は、レバールの右肩の関節部――運動神経の記憶を司る脳への魔力導線の結節点に向けて、針を深く突き刺した。
「がはっ!?」
レバールの右腕が、糸の切れた人形のようにダラリと垂れ下がった。毒刃が乾いた音を立てて石畳に転がる。男の脳から「右腕を動かす」という運動能力の記憶が、一時的に完全に遮断されたのだ。
「お前……何者だ……!?」
恐怖に顔を歪めるレバール。その額に向けて、鏡夜は懐から取り出した銀色の極細ピンセット――「記憶のピンセット」を迷わず突き立てた。
「司法省三級徴税官、榊鏡夜。――お前の記憶を徴収する。」
「記憶徴収術(ソウル・ドレイン)――執行。」
ピンセットの先端がレバールのこめかみの魔力孔に接触した瞬間、鏡夜の意識は、男の脳内精神世界へとダイブした。
そこは、暗く湿った、数々の拷問と誘拐の悪夢が渦巻く精神の泥濘だった。泥濘の中央に、禍々しい赤黒い光を放つ記憶結晶が浮かんでいる。レバールの「上級記憶結晶」だ。
鏡夜は精神世界の中で記憶のピンセットを伸ばし、その結晶の表面を正確に挟み込んだ。そして、男の精神が発する絶叫を無視し、力任せに引き抜いた。
ガストンの地下工房の位置、孤児誘拐計画の全貌、そして奴らがこれまでに犯してきた非道な悪行の記憶が、結晶のラインを通じて鏡夜の脳内へと流れ込んでくる。
現実世界に戻った鏡夜の目の前で、レバールは白目を剥き、その場に崩れ落ちた。脳から重要な記憶の根幹を物理的に引き抜かれた男は、二度と自発的な思考を行うことのできない、ただの「忘却病」の抜け殻(廃人)と化した。
鏡夜は、ピンセットの先に挟まれた、鈍く光る青黒い記憶結晶を見つめた。ガストンの工房の位置は掴んだ。これで子供たちを救い出せる。
しかし、彼が安堵を覚えるよりも早く、強奪したレバールの記憶の最深部から、予期せぬ「影」が鏡夜の脳内精神世界へと逆流してきた。
それは、レバール自身が心の底から恐れていた、ガストンの実験室の記憶だった。
薄暗い地下聖堂の奥にそびえ立つ、巨大な肉塊。無数の死体と青い結晶をツギハギにして作られた、全長十メートルを超える悪夢の魔導兵器。その怪物が放つ不気味な青い残光と、数万人の絶叫が混ざり合ったような咆哮が、鏡夜の脳細胞を直接揺さぶる。
「――屍獣、ベヒモス……」
鏡夜は激しい目眩に襲われ、膝をつきそうになりながら、自身の頭を強く押さえた。レバールの記憶の底から流れ込んできたのは、ガストンが完成させつつある、帝都をも脅かしかねない巨大な怪物の影だった。その不気味な気配が、彼の脳裏に消えない爪痕を残していく。
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