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幻影の魔女と引き裂かれた記憶

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ガギィン、と。背後で鉄扉が完全にロックされた不気味な金属音が、冷え切った聖堂の空間に重々しく響き渡った。


 静寂が戻る。いや、それは静寂というよりも、死が満ちていく前触れの沈黙だった。影縫いのシャドウは、鏡夜の指示に従って昏睡状態のフィリップを担ぎ、すでに地下聖堂の隠し通路から脱出している。この密閉された空間に残されたのは、榊鏡夜ただ一人だった。


「……立ち込めてきたな」


 鏡夜は小さく呟き、口元を制服の袖で覆った。床の隙間から這い出すようにして、妖しく揺らめく青い霧が立ち込め始めている。ガストンが精製した「アニマ・オイル」の粗悪品から揮発した、精神を麻痺させる幻覚ガスだ。吸い込むだけで、脳のニューロンが狂い、都合の良い悪夢の泥濘へと引きずり込まれる極めて危険な毒物。


 鏡夜は即座に脳内の「感情の凍結(コールド・マインド)」を最大出力で稼働させた。脳細胞を冷徹な氷で覆い、恐怖や嫌悪といった感情の揺らぎを完全に遮断する。だが、ガスの濃度はそれを嘲笑うかのように増していく。


「ふふ……本当に冷たい男ね。司法省の『死神』が、こんなうだつの上がらない三級徴税官の皮を被っていたなんて、誰が信じるかしら?」


 暗闇の奥から、鈴を転がすような、しかしぞっとするほど冷酷な女の声が響いた。


 青い霧を割りながら姿を現したのは、妖艶な紫色のドレスを纏った美女――マリアンヌだった。ガストンの愛人であり、この地下工房の精神防壁を司る上級幻術師。彼女は手に持った怪しく光る紫水晶の扇子を優雅に揺らし、冷たい灰色の瞳で鏡夜を見つめていた。


「お前がマリアンヌか」


「ええ。我が主ガストンの研究を邪魔する不届きな死神さん。フィリップとかいう哀れな小僧を囮に使って、よくここまで潜り込んだものだわ。でも、ここでおしまい。あなたの脳に眠る、すべての美しい記憶を、私がぐちゃぐちゃに引き裂いてあげる」


 マリアンヌが扇子を広げた瞬間、室内の青い霧が一気に爆発的な熱量を持って渦巻いた。彼女の得意魔術「絶望の幻影展開(ナイトメア・イリュージョン)」の発動だ。


 キィィィン、と耳を突き刺すような高周波の精神波動が鏡夜の脳を直撃した。視界が急速に歪み、聖堂の石柱や祭壇が溶けるようにして消え去っていく。強烈な眩暈が鏡夜を襲い、彼の意識は強制的に、自身の脳内に構築された精神世界「記憶の書斎」へと引きずり込まれていった。


     *


 鏡夜が目を開けると、そこは無限の書棚が整然と並ぶ、彼の自我の核心たる「書斎」だった。だが、いつもは静謐なはずのその空間が、今は青黒い不気味な炎に包まれていた。


「あら、面白い精神世界を持っているのね。本に囲まれた書斎かしら? でも、この本棚の一冊一冊が、あなたの弱点よ」


 虚空からマリアンヌの声が響く。彼女の精神体は、書斎の天井から這い出る巨大な蜘蛛のように、鏡夜の記憶の書棚を侵食し始めていた。彼女の手が、一冊の本――結衣に関する記憶の棚に触れる。


「まずは、この一番大切そうな本から破り捨ててあげましょうか」


「やめろ……!」


 鏡夜は叫ぼうとしたが、精神世界の中では声が思うように出ない。次の瞬間、彼の目の前に、白い寝間着を纏った妹・結衣の幻影が現れた。翡翠色の瞳をうつろに見開いた彼女は、鏡夜に向けて細い手を伸ばす。


『お兄ちゃん……助けて……冷たいの。身体が、凍りついちゃう……!』


「結衣!」


 結衣の幻影の皮膚が、指先から急速に青い魔導ガラスへと変色していく。それは生体結晶化の悪夢そのものだった。パキパキと不気味な音を立てて、彼女の細い腕が、首が、そしてその愛らしい顔が青い結晶に覆われていく。結衣は恐怖に顔を歪めながら、鏡夜の目の前で、ガラス細工のように粉々に砕け散った。


「う、ぐあぁぁぁ!」


 現実世界での鏡夜の肉体が、激しい拒絶反応に悶えた。左腕の結晶化している領域――肘の上部まで達した青い皮膚が、まるで万力で締め上げられるかのような激痛を放ち、彼の肉体を物理的に硬直させる。精神のダメージが肉体へと逆流しているのだ。鼻から一筋の血が滴り、制服の襟を汚した。


「アハハハ! いい声ね! もっと壊してあげる。次はこれよ、あなたの『過去』の棚!」


 マリアンヌの幻術はさらに深く、鏡夜が最も恐れる十年前の記憶へと侵入した。


 書斎の炎が激しさを増し、周囲の景色が「燃え盛る榊家の屋敷」へと変貌していく。立ち込める黒煙、帝国司法省の冷酷な紋章を掲げた近衛兵たちの足音。そして、地面に組み伏せられ、今まさに処刑されようとしている父親・宗一郎の姿がそこにあった。


『鏡夜……逃げろ! 歴史の真実を……榊の血を、絶やすな!』


 父親の絶叫とともに、冷酷な鉄刃が振り下ろされる。血飛沫が鏡夜の視界を真っ赤に染めた。凄まじいトラウマのフラッシュバック。鏡夜の「自己認識の壁」に、目に見えるほどの亀裂が走り、彼の自我が「榊鏡夜」から「ただの絶望した子供」へと退行しかける。


 マリアンヌの幻影が、今度は母親・冴子の姿を conjuring(構築)した。血の海の中で倒れる冴子は、うつろな目で鏡夜を見つめ、震える手を伸ばしてきた。


「さあ、お母様の最期の温もりを感じなさい。その手が冷たくなっていく絶望を、もう一度味わうのよ!」


 マリアンヌの冷酷な命令に従い、幻影の母親が鏡夜の右手をそっと握りしめた。


 ――だが、その瞬間。精神世界の中に、奇妙な『空白』が生じた。


 冴子の幻影の手は確かに鏡夜の右手を包み込んでいる。しかし、鏡夜の脳は、何一つとして「感覚」を感知しなかった。温かさも、冷たさも、母の皮膚の柔らかさすらも、そこには存在しなかった。ただの絶対的な、不自然なほどの『虚無』だけが、そこにあった。


「……え?」


 マリアンヌの困惑した声が、精神世界に響いた。幻術は、対象の脳内にある「過去の記憶」を素材として構築される。対象が最も深く覚えている感覚を増幅し、悪夢として再生するのだ。しかし、冴子が鏡夜の手に触れた瞬間、再生されるべき「母の手の感触」というデータが、鏡夜の脳のどこを探しても、一滴すら存在しなかった。


 鏡夜は、ハッと目を見開いた。


(そうか……私は、忘却の悪魔レテに、あの納税の夜に支払ったのだ。結衣の命を繋ぐための代償として、私の脳から『母親の優しい手の感触』の記憶は、完全に消去されていたのだ!)


 それは、過去の略奪行為がもたらした凄惨な代償であり、同時に、この極限状態における唯一の「死角」だった。鏡夜の脳内にあるその不自然な空白は、マリアンヌの幻術にとって、存在しない座標にアンカーを打ち込もうとするようなものだった。接続先を失った幻術の数式が、精神世界の中で激しいエラー(バグ)を起こし、ノイズとなってパチパチと弾け始める。


「なぜ!? なぜ母親の死に顔を見ても、あなたの精神が崩壊しないの!? その手の感触を、なぜ拒絶できるの!?」


 マリアンヌの焦燥に満ちた悲鳴。幻術の絶対的な支配に、決定的な「亀裂」が入った。


「――多重精神回路の構築法(マルチ・マインド・レイヤー)、展開」


 鏡夜は感情の凍結を限界まで引き上げ、機械的な冷徹さで呪文を唱えた。彼の脳内に、榊家伝来の仮想領域が何重にも展開され、マリアンヌの幻術の残響を、自我の核から完全に隔離された「ダミーの書棚」へと押し込めていく。彼の本当の自我は、書斎の最深部に隠された「防壁の部屋」へと瞬時に避難した。


「私の過去を覗こうとしたのが、お前の最大の過ちだ、マリアンヌ」


 鏡夜の精神体が、燃え盛る書斎の炎をかき消すようにして立ち上がった。彼の瞳は、現実世界と同様に、冷酷な紫色の光を放っている。彼は「真眼」を精神世界の中で起動し、マリアンヌの幻術がエラーを起こしている接続点――彼自身の「失われた母の手の感触」の空白部分に生じた、魔術回路の致命的な『亀裂』を正確に捉えた。


「お前が見せようとした絶望など、私の本物の絶望に比べれば、ただの戯言に過ぎない」


 鏡夜は自身の胸の奥底にある、最も暗く、最も冷たい悪夢を手繰り寄せた。 Letheに魂を切り売りし、自分が誰であるかさえ忘れかける恐怖。結衣を救えずにただ結晶化を見守るしかないという、骨の髄まで凍りつくような本物の絶望。その巨大な「感情の質量」を、彼はハッキングしたマリアンヌの回路へと無理やり充填した。


「――トラウマの逆流(マインド・バックフロー)」


「いや、嫌ぁぁぁぁぁ!」


 マリアンヌが悲鳴を上げたが、すでに遅かった。鏡夜の脳内から逆流した、 Letheの底知れない虚無の深淵と、魂が貪り食われる本物の地獄の記憶が、接続されたマリアンヌの脳へと一気に流れ込んだ。


 それは、ただの幻術師である彼女の精神回路が許容できる質量を、遥かに超えていた。


     *


 現実世界の聖堂。


 ピキィィィン! と、マリアンヌが持っていた紫水晶の扇子が、物理的な音を立てて粉々に砕け散った。同時に、彼女の美しい顔が恐怖と絶望に歪み、両目、鼻、そして両耳から真っ赤な血が噴き出した。


「ああ、あ、あぁ……! 暗い、冷たい……私の頭が、溶けていく……!」


 マリアンヌは頭を抱えて石床に転がり、狂ったように叫び声を上げながらのたうち回った。彼女の脳細胞は、鏡夜から逆流した悪魔の虚無の記憶によって完全に焼き切れ、精神は一瞬にして崩壊した。彼女の瞳から光彩が消え、ただのうつろな抜け殻となって、床に倒れ伏した。ピクリとも動かない。完全な脳死――発狂による自滅だった。


 鏡夜は激しい息を吐きながら、こめかみを押さえた。鼻から流れる血が床に滴る。「トラウマの逆流」は、自身の悪夢を再体験する自傷行為に等しい。脳内の「記憶の書斎」の本棚がいくつか物理的に崩れ、激しい耳鳴りが彼を襲っていた。


 だが、安堵する時間は一秒すら与えられなかった。


 ドクン、と。聖堂の地下深くから、心臓の鼓動のような、悍ましい重低音が響き渡った。


 マリアンヌの死の間際の断魔力が、彼女の生命維持システムと直結していた地下聖堂の隠し魔術回路を、暴走気味に起動させてしまったのだ。壁に埋め込まれた数百人の脳結晶が一斉に激しく明滅し、青黒い不純な「記憶燃料(アニマ・オイル)」が、床の溝を伝って聖堂の最奥へと流れ込み始める。


 ズズズ、ズガガガガ!


 聖堂の床の中央が、巨大な地割れを起こして左右に裂け始めた。その暗黒の裂け目の底から、スラム住民たちの「闘争と絶望の記憶」を限界まで吸い上げて肥大化した、最悪の魔導兵器の咆哮が、聖堂の壁を物理的に粉砕しながら響き渡った。床から突き出す巨大な爪、そして青黒く発光する巨大な獣の影が、ゆっくりと這い上がり始める。


 ガストンの最高傑作――「屍獣ベヒモス」の目覚めだった。

HẾT CHƯƠNG

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