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怨念の大河と地下聖堂への門

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首元に押し当てられた漆黒のダガーが、榊鏡夜の皮膚をわずかに裂き、冷たい鉄の感触とともに一滴の血を求めていた。足元では、影縫いのシャドウが放った影の鎖が蛇のようにのたうち回り、鏡夜の両足を強固に縛り上げている。


「動くな、司法省の死神」


闇の奥から響く声は、男とも女ともつかぬ、氷のように冷徹な響きを帯びていた。鏡夜は眼鏡の奥の紫色の瞳を微かに細め、脳内で「感情の凍結(コールド・マインド)」を最大稼働させた。心拍数は一瞬で平坦なリズムへと戻り、恐怖や焦燥といった雑音は精神の深淵へと沈められる。首元に突きつけられた刃の角度、そして背後に立つ暗殺者の重心の位置を、冷徹な計算によって割り出していく。


(シャドウの気配遮断と影縫い魔術は、私の『真眼』の警戒網をすり抜けるほど高度だった。ここで物理的な抵抗を試み、魔力を放出すれば、クラインの持つ『追跡魔針』に即座に感知される。戦うのは得策ではない。交渉による逆転を狙う)


「……ガストンの隠れ家を探しているのだろう、シャドウ」


鏡夜は喉を微かに震わせ、極めて静かに声を絞り出した。刃先がミリ単位で震え、背後の気配がわずかに強張るのが伝わってきた。


「なぜ私の名を知っている。それに、その地図……」


「私は司法省の徴税官だ。だが、裏ではガストンの命――いや、彼の持つ『特級記憶結晶』を狙っている。君の目的は妹を殺したガストンへの復讐。私の目的は彼の脳内にある記憶。利害は完全に一致しているはずだ」


「お前を信じる理由がない。今ここでその首を撥ね、懐の地図を奪えば済む話だ」


「この地図は、榊家の血統魔術によって暗号化されている」


鏡夜は躊躇なく嘘を吐いた。その声には一切の揺らぎも、自己防衛の焦りもない。ただ、絶対的な事実を告げるかのような冷徹さだけがあった。


「私を殺せば、地図の記憶結晶は自動的に自己崩壊し、ただの不透明な硝子屑と化す。君は永遠にガストンの地下工房『死者の墓標』へは辿り着けない。復讐を遂げたいなら、私と契約を結ぶことだ」


沈黙が地下通路を支配した。シャドウの呼吸がわずかに乱れ、葛藤しているのが伝わる。鏡夜はその隙を逃さず、決定的な一手を打ち込んだ。


「君の『ガストンへの復讐の記憶』を、私に『担保』として預けろ。これが契約の条件だ。もし君が途中で私を裏切れば、君の脳内から復讐の動機も、死んだ妹の顔もすべて消去される。その覚悟があるなら、私の盾となり、ガストンの工房まで護衛しろ」


「私の……記憶を担保に……?」


「そうだ。契約を遵守する限り、記憶が失われることはない。どうする?」


シャドウは低く息を吐き、喉元に当てていたダガーを静かに引いた。足元を縛り上げていた影の鎖が、霧のように融解して消え去る。


「いいだろう。その契約、乗ってやる。だが、ガストンの首は私のものだ」


鏡夜は懐から「真鍮の懐中時計(レテの時計)」を取り出し、その裏蓋を開けた。極小のピンセットを用い、シャドウの額から微かに溢れ出た「復讐の執念」の魔力波長を一本の糸のように手繰り寄せ、時計の内部へと封印する。これで、即席の使役契約は成立した。


     *


二人は司法省の包囲網を避け、スラムのさらに奥地、廃棄物の霧が最も濃い旧下水道の廃屋へと向かった。そこには、鏡夜の魔導の先達であり、かつて司法省徴収課長を務めた老人、遠山が隠居していた。


油煙の立ち込める室内で、遠山は片脚の義足を軋ませながら、お気に入りの真鍮製パイプを燻らせていた。その鋭い眼光が、鏡夜の左腕を捉える。衣服の袖を捲り上げると、肘のすぐ下まで完全に青い魔導ガラスと化した皮膚が、室内の微弱な光を反射して怪しく輝いていた。


「また結晶化が進んだな、鏡夜」


遠山は深く煙を吐き出し、重苦しい沈黙の後に語りかけた。


「ガストンの脳から特級記憶を奪うつもりか。ワシが教えた『記憶徴収術』でお前の妹の命を繋ぐのはいい。だが、ガストンの記憶は毒そのものだ。あいつがこれまでに犯してきた猟奇的な殺人、死者への冒涜、その残虐な人格の残滓がお前の脳内に流れ込めば、お前の精神は内側から腐り果てるぞ」


「覚悟の上です、先生。他に対処法がない」


鏡夜の紫色の瞳には、揺るぎない執念が宿っていた。遠山はため息をつき、懐から錆びた「記憶のピンセット」を取り出した。


「ならば、ワシの最後の技術を授ける。『遠山流・記憶の精密切り分け術』だ。抽出した記憶結晶から、お前の脳を汚染する『感情の毒(トラウマ)』だけを削ぎ落とし、純粋な魔術理論と知識だけを切り分ける。だが、これを行う間は、一瞬たりとも『精神境界線の死守規則』を忘れるな。『私は榊鏡夜である』という自己認識の壁が崩れれば、お前自身が二代目ガストンへと成り果てるぞ」


鏡夜は遠山の指導のもと、脳内精神世界「記憶の書斎」を展開し、精密な魔力制御の訓練を繰り返した。他者の記憶の繋ぎ目をミリ単位で見極め、毒となる感情を「嘆きの澱み」として分離する技術。脳細胞が焼き切れるような熱量と闘いながら、鏡夜はその術式を自身の第四スロットへと刻み込んだ。


「……感謝します、先生」


「行くがいい。だが、忘れるな。世界を救うのではない、お前の愛する者を救うのだ」


恩師の言葉を背に、鏡夜はシャドウ、そして嗅覚の鋭い犬耳の獣人パコと合流した。パコは下水道のマンホールに鼻を近づけ、ひくひくと鼻腔を震わせる。


「旦那、ガストンの魔力の臭い、この下からプンプンするぜ。不純な死臭と、結晶が燃えるような嫌な臭いだ」


「案内しろ、パコ」


三人は暗黒の地下へと梯子を下りた。そこは、帝都の上流階級が排出した感情のゴミが液状化して流れる、旧下水道の「怨念の大河」だった。暗闇のなか、水面は不気味な青い蛍光ヘドロとなってうねり、触れる者の自我を溶かす精神汚染の霧を放っている。


「う、あ……頭が、割れそうだ……」


パコが耳を伏せ、苦しげに頭を抱えて蹲った。シャドウもまた、ダガーを握る手が微かに震え、死んだ妹の幻影を見ているかのように宙を見つめている。大河から立ち上る「廃棄記憶の怨霊」たちが、無数の苦痛に満ちた顔となって水面から這い出してきたのだ。


「ガストンへの……復讐を……」


シャドウが呻き、怨霊に向けて「影縫い魔術」を放った。しかし、漆黒の影の鎖は実体のない怨霊の身体をすり抜け、虚しく水面を叩くだけだった。物理的な実体がない精神体には、彼女の暗殺術は通用しない。


「下がれ、シャドウ。パコを守れ」


鏡夜は「感情の凍結」を維持したまま、一歩前に出た。彼の瞳が異常な紫色に発光する。真眼が怨霊たちの結び目――かつて捨てられた感情のノイズが集中する魔力回路の亀裂を正確に捉えた。


鏡夜は右手を掲げ、指先から遠山に教わったばかりの「精密切り分け術」の魔力波長を放った。それは怨霊たちが抱える怨念の結び目を物理的に分解する、高周波の精神メスだった。


「消えろ、未練の残渣ども」


鏡夜の放った魔力波長が怨霊たちの核に触れた瞬間、無数の叫び声は静寂へと変わり、青い霧となって大河へと溶け込んでいった。全員の精神を狂わせようとしていた猛烈な汚染が、一瞬にして切り裂かれたのだ。


「す、げえ……旦那、一瞬で化け物を消しちまった……」


パコが驚愕の声を上げる。しかし、鏡夜は自身の左腕に走る強烈な悪寒を隠すように、制服の袖を強く引き下げた。多重精神回路を限界まで展開し、全員の自我を保護した代償として、左腕の結晶化は肘の上部へと物理的に進行していた。指先が氷のように冷たく、感覚がさらに遠のいていく。


(タイムリミットは確実に近づいている。だが、立ち止まるわけにはいかない)


三人は下水道に放置されていた朽ちかけた木舟に乗り込み、パコが漕ぐオールが青い蛍光ヘドロを静かに掻き分けて進んだ。暗黒の地下水路を静かに進むこと数十分、やがて前方に、廃棄された巨大な地下聖堂の石壁が見えてきた。


そこには、ガストンの地下工房「死者の墓標」へと繋がる、巨大な錆びついた鉄扉がそびえ立っていた。


鏡夜は船から降り、冷たい鉄の扉の前に立った。その表面には、侵入者を拒絶する不気味な屍術のルーンが赤く発光している。ついに、標的の牙城の門前に到達したのだ。


しかし、鏡夜が扉に手をかけようとしたその瞬間、鉄扉の奥から、地響きのような振動が伝わってきた。それは、物理的な震動ではない。脳髄を直接揺さぶるような、凄まじい精神の咆哮だった。


「あ、あぁあああああ!」


扉の隙間から漏れ出てきたのは、数百人の人間が同時に死の絶望に直面したかのような、凄惨な「絶叫」の合唱。そして、それに呼応するように、地下聖堂の底から、大地を裂くほどの巨大な怪物の咆哮が、重々しく響き渡った。

HẾT CHƯƠNG

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