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死神の懐中時計と二重生活

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帝都ルミナスの最下層、陽の光すら届かない地下スラム「外周区」には、常に青白い魔導廃棄物の霧が漂っている。人々の生活排水と、上層の貴族街から排出された感情の燃え殻――それらが混ざり合った澱みは、吸い込む者たちの精神をじわじわと蝕んでいく。


 その最悪な環境に位置する帝国司法省・外周区支部。石造りの古びた執務室の片隅で、榊鏡夜(サカキ・キョウヤ)は黙々と書類を整理していた。


「おい、無能な徴税官。お前の今月の記憶徴収ノルマ、また未達じゃないか?」


 背後からかけられた傲慢な声に、鏡夜はゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、仕立ての良い官僚服をこれ見よがしに着こなした金髪の青年――フィリップだった。貴族の推薦で入省した彼は、鏡夜のような平民出身の同僚を見下すことを何よりの愉悦としている。


「申し訳ありません、フィリップ様。スラムの住民たちは納税義務を果たすだけの『まともな技能の記憶』をすでに失っている者が多く、回収が難航しておりまして……」


 鏡夜は銀縁の眼鏡の位置を直しながら、いかにも気弱そうな、うだつの上がらない下級官僚の笑みを浮かべた。その瞳は常に伏せられ、紫色の怪しい光彩を放つ本来の双眸は隠されている。


「言い訳など聞いていない! スラムのゴミどもが税を払えないなら、幼少期の楽しかった思い出でも何でも毟り取ってくればいいのだ。それが我々、記憶徴収課の仕事だろう? お前のように手際が悪いから、いつまでも最下層の三級徴税官なのだ」


 フィリップは鏡夜の机に置かれた古い書類をわざと床に払い落とし、鼻で笑いながら立ち去っていった。周囲の同僚たちも、関わり合いを避けるように目を背けている。


 鏡夜は無言でしゃがみ込み、散らばった書類を一枚一枚拾い集めた。その指先は完璧に制御され、微かな震えすらもない。彼の脳内は、フィリップの侮蔑など一塵のノイズほどにも留めていなかった。昼間の彼は、司法省の片隅に寄生する無能な駒に過ぎない。しかし、それは夜の活動を隠蔽するための、完璧な「仮面」だった。


 夕刻。職務を終えた鏡夜は、外周区のさらに薄暗い路地裏へと足を進めた。錆びた真鍮の時計の看板が掲げられた「榊時計店」――それが彼の表の自宅であり、裏の魔導工房だった。


 店の奥にある重厚な木製の扉を開け、さらに地下へと続く隠し階段を下りる。防音と魔力遮断の結界が何重にも施された石室のベッドには、一人の少女が横たわっていた。


「……結衣」


 鏡夜はベッドの傍らに膝をつき、眠り続ける妹、榊結衣(サカキ・ユイ)の白い髪に触れた。絹のように細い白髪と、翡翠色の瞳を閉じたガラス細工のような顔立ち。彼女は「忘却の悪魔レテ」に記憶を奪われ、感情と自我を失った「生ける人形」として、この地下室で眠り続けている。


 結衣の小さな呼吸を確かめた後、鏡夜は懐からアンティークの真鍮製懐中時計を取り出した。悪魔から与えられた「悪魔の負債計数器(レテの時計)」だ。その文字盤には数字がなく、針は不気味に逆回転を続けている。刻まれているのは時間ではなく、悪魔への次の納税期限――そして鏡夜自身の精神の余命だった。


 針が示す残り時間は、あと「百二十時間」。新月の夜までに、最高純度の「大罪人の記憶結晶」を悪魔に捧げなければ、結衣の生命維持魔術は切れ、彼女の肉体は結晶化して砕け散る。そして鏡夜の魂もまた、虚無の深淵へと引きずり落とされるのだ。


「納税期限まで残り五日、か」


 鏡夜の口から、冷たい吐息が漏れた。彼の左腕は、すでに手首のあたりまで感覚を失い、微かに青い魔導ガラスの質感を帯び始めている。他者の記憶を吸い上げるたびに狂気に脳を侵食される恐怖と、妹との約束を果たすという執念。その狭間で、彼の境界線は常に削り取られていた。


 その時、地下室の通信用魔導コインが淡く発光した。鏡夜がそれを手に取ると、スラムの優秀な情報屋であり、彼の忠実な助手であるシン(十二歳)の声が響いた。


『先生、聞こえる? 探してた標的の動きを掴んだよ』


「シンか。レバールのことだな?」


『そう。スラムを支配してる屍術師ガストンの右腕、レバールだ。奴が今夜、スラムの最外周区にある廃棄集積場の近くで、また孤児たちをさらおうと動いてる。ガストンの実験室に送るつもりらしい』


 鏡夜の紫色の瞳が、眼鏡の奥で冷酷な光を放った。レバール。スラムの弱者を誘拐し、その脳から未練や恐怖の記憶を抽出してゾンビの行動ロジックとして書き込む非道な屍術師の片腕。奴の脳内にある「大罪人の記憶結晶」は、悪魔レテが最も好む最高純度の供物となるはずだ。


「よくやった、シン。これより狩りを開始する。お前は隠れ家で待機してろ」


『了解。気をつけてね、先生。最近、司法省の特別捜査官クラインって男が、スラムの「違法記憶剥奪事件」を本気で追い始めてるみたいだから』


「わかっている。クラインの追跡魔針には、私の魔力痕跡は一切残させない」


 通信を切った鏡夜は、司法官の制服を脱ぎ捨て、魔導廃棄霧の粒子を織り込んだ灰色の「精神の偽装外套」を羽織った。この外套は、着用者の魔力反応と存在感を周囲の霧と同化させ、司法省の簡易魔力センサーを完璧に欺く。手元には、遠山から譲り受けた銀色の極細ピンセット――「記憶のピンセット」を忍ばせる。これは脳細胞を傷つけることなく、特定の記憶だけを切り取るための禁忌の魔導具だ。


 夜の帳が下りたスラム外周区は、昼間よりもさらに濃い廃棄霧に包まれていた。鏡夜は影のように音もなく路地裏を駆け抜けた。


 廃棄集積場に近い、崩れかけた石造りの路地。鏡夜は立ち止まり、銀縁の眼鏡を微かにずらした。彼の瞳が異常な紫色に発光する。固有技術「真眼(しんがん)」の起動だ。


 真眼は、世界に残留する他者の感情の「色」と精神の「脆弱性」を視覚的に見抜く。鏡夜の視界に、路地裏の地面から立ち上る不気味な黒ずんだ赤色の魔力残渣が映し出された。これは強烈な「恐怖」と「暴力」を帯びた、レバールの魔力の足跡だ。


「見つけたぞ、レバール」


 鏡夜は足跡を辿り、廃棄集積場の奥にある放棄された地下倉庫へと近づいた。真眼が捉える足跡の主は、確かにこの奥に潜んでいる。


 しかし、倉庫の扉に近づいた瞬間、鏡夜の「真眼」が、扉の影に潜む不気味な魔力の歪みを捉えた。物理的な肉体を持たない、しかし強烈な「生への未練」で動く肉塊の気配――ガストンの屍術によって作られた防衛用屍兵(ゾンビ)だ。


 屍兵の数は少なくとも三体。力任せに突入すれば、レバールに逃げられるだけでなく、さらわれた子供たちの記憶が、ガストンの精製プラントで一瞬にして結晶化されてしまうだろう。納税期限まで残り百二十時間。鏡夜は真鍮の懐中時計を一度だけ見つめ、冷徹な思考で最善の侵入ルートを逆算し始めた。

HẾT CHƯƠNG

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