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炭焼き小屋の焦熱

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黒水鎮から続く血の跡は、冷たい霧雨に洗われてもなお、黒紫色の粘り気を持って泥濘にこびりついていた。


「……はぁ、……はぁ……」


鉄面の奥から、湿って熱い呼吸が漏れ出る。沙霧謙は、最愛の義弟であった沙鉄豪の冷たくなりゆく遺体を左腕で固く抱き締め、一歩、また一歩と密林の奥へ足を進めていた。右足は『血骨の金針』の副作用によって完全に麻痺し、まるで丸太を引きずるように泥を深く抉っている。背中と右太ももに突き刺さった重弩の太い鉄矢からは、未だに黒い血が滴り落ち、彼の歩みに従って点々と地面を汚していた。謙自身、その血の跡が追跡の手がかりになることを理解していたが、負傷と失血による眩暈のせいで、足跡を消す余裕など一寸たりとも残されていなかった。


右手は、手のひら全体が不気味な黒紫色に変色し、完全に感覚を失っている。冷たい鉄の鎌を握らせても、指先は一本も曲がらず、ただの枯れ木のように垂れ下がるのみ。謙は、半壊して刃こぼれの激しい『錆びた薬鎌』を左手だけで握りしめ、泥濘の坂を這い登った。


「ごほっ……!」


喉を突き上げる激しい焦熱に耐えかね、謙は再び黒い血を吐き出した。吐き出された血は泥に触れた瞬間、ジュウと音を立てて泡立ち、周囲の草木を腐食させていく。呉鏢頭から強奪した極陽の『赤陽真気』が体内で暴走し、彼の経絡を内側から焼き尽くそうとしているのだ。しかし、口内に広がるその毒血を飲み込んでも、鉄の錆びた味すらしない。永続的に失われた味覚は、彼が人間から怪物へと変貌しつつある現実を、冷酷に突きつけていた。


霧雨の煙る視界の先、巨木に隠れるようにして佇む小さな炭焼き小屋が見えた。盲目の老薬夫・古厳が待つ、謙にとって唯一の安息の地である。小屋の煙突からは、煙が一切立ち上っていない。かつて元炭焼き職人の老木から伝授された無煙の技術を用い、熱を外に漏らさずに薬を煎じる特別な炭を使用しているためだ。この無煙炭のおかげで、赤陽鏢局の山狩り部隊の目からこの場所を隠し通してきた。だが、それも今日の夜明けまでだった。


謙が小屋の粗末な木扉を左肩で押し開けると、暗がりの奥から、盲目の老人――古厳が立ち上がった。その濁った両目は光を通さないが、風の揺らぎと、部屋を支配した圧倒的な死の匂いを、その鋭い聴覚と嗅覚で瞬時に察知していた。


「……謙か? その足音、そして……その抱いているものは、何じゃ」


古厳の声が、かつてないほどに震えていた。謙は無言のまま、処刑台から奪い返した鉄豪の冷たい遺体を、静かに床の筵の上へと横たわらせた。鉄面の隙間から覗く謙の深紅の瞳には、もう涙の一滴すら残っていない。ただ、凍りついたような絶対の殺意だけが宿っていた。


古厳は這うようにして鉄豪の遺体に近づき、その細く冷たくなった手首に触れた。老人の骨張った指先が小刻みに震え、やがてその白濁した目から、大粒の涙が零れ落ちて皺だらけの頬を濡らした。


「鉄豪……。おお、なんというむごいことを……。わしが、わしがもっと早く動いておれば……!」


「爺や、俺の甘さが奴を殺した」


謙は冷徹に言い放ち、背中の矢傷から滴る血を床に落としながら、力なく壁に背を預けた。


「優しさは弱さだ。弱さは、身を滅ぼす。厳寛を、そして赤陽鏢局の奴らを、一人残らずこの手で引き裂くまで、俺の血は止まらない」


「謙、お主の経絡はもう限界じゃ! 弩の傷だけではない、強奪した陽気が体内で暴れ、内臓が焼け焦げかけておる! 今すぐ傷を塞がねば――」


古厳が薬箱を開け、銀針を取り出そうとしたその瞬間、小屋の周囲の密林から、無数の木の葉がざわめく不穏な音が響き渡った。湿った大気を通じて伝わってくるのは、無数の足音と、それを先導する、燃え盛るような『赤陽真気』の凶暴な熱源。そして、聞き覚えのある卑屈な笑い声だった。


「ははは! 見ろ、やはりこの炭焼き小屋に逃げ込みおった! 泥の上の黒い血の跡が、ご丁寧にここまで案内してくれたぞ!」


厳寛の声だ。奴は謙が流した毒血の跡を辿り、赤陽鏢局の本隊をここまで引き連れてきたのだ。


「謙! 出てこい! お前が隠した薬蠱門の秘宝と、その心臓の血蠱を差し出せば、その盲目の老いぼれの命だけは救ってやるぞ!」


外を取り囲む松明の赤い光が、小屋の隙間から不気味に差し込む。その包囲網の中央から、地鳴りのような重い足音と共に、一人の巨漢が歩み出てきた。赤髪をボサボサに揺らし、血走った瞳をギラつかせた男――雷烈の従弟であり、赤陽鏢局で最も狂暴とされる猛将、雷狂(らい・きょう)である。その両手には、敵の肉を引き裂くためのスパイクが施された『棘付きの鉄甲手』が装着され、その体からは理性を失った獣のような、圧倒的な真気の波動が放たれていた。


「厳寛、無駄口を叩くな。中にいる悪鬼ごと、すべてを焼き払えば済むことだ!」


雷狂が狂暴に咆哮し、その右拳に『狂魔神功』の灼熱の真気を集中させた。――『烈火爆炎拳』。放たれた拳圧は一瞬にして空気の水分を蒸発させ、爆発的な火炎の嵐となって炭焼き小屋の木壁を物理的に粉砕した。


バリバリと音を立てて壁が弾け飛び、小屋の内部に一気に火の手が回る。燃え盛る炎と黒煙が、謙と古厳を包み込んだ。


「ごほっ……!」


謙は立ち上がろうとしたが、右足の麻痺と背中の激痛、そして熱毒の再暴走により、膝が崩れて床に四つん這いになった。左手で薬鎌を握り直すことすら、今の彼には天をも動かすほどの労力に思えた。痛覚遮断の虚無の中でも、肉体が物理的に崩壊しつつあることだけは、冷酷な現実として理解できた。戦うことはおろか、逃げることすら不可能な死線。


その時、謙の前に、盲目の古厳が立ちはだかった。その背中は、かつてないほどに大きく、鋼のように強固に見えた。


「謙よ。お主の復讐は、ここで終わるべきではない」


古厳は静かに語りかけながら、自身の懐から、返り血が染み込んで黒ずんだ一枚の古い木札を取り出した。それは、父・沙鉄心が死の間際に古厳に託した、薬蠱門の門主の証――『薬蠱門の血塗られた木札』であった。


「これを持っていけ。そして、生き延びよ。お主の血には、南蛮のすべての宿命が刻まれておる。ここで死んではならぬ……!」


古厳は木札を謙の胸元の衣服へと強引に押し込んだ。謙は目を見開き、左手で古厳の細い腕を掴んだ。


「何を言っている、爺や! 一緒に逃げるんだ、床下の抜け道から――」


「盲目の老いぼれが一緒では、二人とも数マイルも行かずに首を刈られる。わしはここで、薬蠱門の最後の義務を果たす」


古厳の指先が、謙の掴む手をすり抜け、彼の首筋のツボへと電撃のように伸びた。――『経絡封印針』。古厳が放った一針は、謙の体内の暴走する真気の流れを強制的に遮断し、彼の肉体の自由を一瞬にして完全に奪い去った。


「な……身体が……動か、ない……」


「許せ、謙。お主を確実に逃がすには、これしかない」


古厳は床板の一枚を剥ぎ取り、その下に隠された暗く狭い地下の抜け道を開いた。そして、動けない謙の身体を、その細い両腕で力強く抱え上げ、迷いなく暗闇の底へと突き落とした。


「爺や――!!」


謙の叫び声が地下の闇に吸い込まれると同時に、頭上で床板がピシャリと閉ざされた。


地上では、炎が小屋全体を包み込み、梁が崩れ落ちる音が響いていた。雷狂が鉄甲手を打ち鳴らし、炎を切り裂きながら小屋の奥へと踏み込んでくる。


「逃げ遅れたか、老いぼれ! あの悪鬼はどこへ隠した!」


厳寛もまた、卑屈な笑みを浮かべながら背後に迫っていた。


古厳は盲目の顔を炎の光で赤く染めながら、静かに微笑んだ。彼の足元には、謙が調合に使用していた大量の強酸性の調薬液の瓶が並び、その下には、老木から仕入れた極めて引火性の高い無煙炭の備蓄が山と積まれていた。雷狂の放つ『烈火爆炎拳』の炎が、その備蓄に引火するのを、古厳は静かに待っていたのだ。


「薬蠱門を滅ぼした朝廷の犬どもよ。我が命を以て、薬蠱の怒りを知るがいい」


古厳は足元の酸の瓶を杖で叩き割り、燃え盛る無煙炭の上へと一気にぶちまけた。強酸と超高温の炭、そして雷狂の極陽の炎真気が接触した瞬間、小屋の内部で凄絶な化学反応と熱膨張が発生した。


「何だと――退け、厳寛!」


雷狂が驚愕して叫んだが、すでに遅かった。


――ドガァァァァァァン!!


凄まじい爆鳴と共に、炭焼き小屋全体が内側から吹き飛び、赤黒い炎と強酸の毒霧が、周囲を取り囲んでいた赤陽鏢局の軍勢を一瞬にして飲み込んだ。肉を引き裂き、鉄甲すらも溶かす酸性の爆風が、雷狂の叫び声と厳寛の悲鳴をかき消していく。


地下道の中を、麻痺した身体で這い進んでいた謙の背中に、凄まじい地響きと熱風が襲いかかった。土砂が崩れ落ち、謙は泥にまみれながら、必死に前へと這い進んだ。どれほどの時間が経っただろうか。感覚のない身体を動かし、ようやく密林の傾斜地に隠された下水道の出口へと這い出た時、目の前に広がっていたのは、灰色の夜明けと、激しく燃え盛る養父の家の残骸だった。


謙は泥の上に膝をつき、遠くで黒煙を上げて崩れ落ちていく炭焼き小屋を見つめた。古厳の姿は、もうどこにもない。彼を我が子のように愛し、血の劇痛から救い続けてくれた養父は、謙を逃がすために、自らの命を散らしたのだ。


胸元に差し込まれた『薬蠱門の血塗られた木札』を、謙は感覚のない右手ではなく、血に染まった左手で強く握りしめた。木札の角が肉に食い込み、微かな血が滲むが、痛覚遮断のせいでその痛みすら伝わらない。ただ、胸の奥で血蠱が、古厳の死を嘲笑うかのように不気味に、そして激しく脈動していた。


「爺や……」


謙の鉄面の奥から、静かに黒い血の涙が零れ落ち、泥へと吸い込まれていった。彼の心から、人間としての最後の温もりが完全に失われ、ただ一族の無念と養父の仇を討ち果たすという、絶対の修羅の覚悟が完成した。


その時、燃え盛る炎の爆音の残響の奥から、謙の脳内の経絡に直接響くような、古厳の最期の伝音(真気による語りかけ)が、かすれて消え入りそうな声で届いた。


『謙よ……お主の血は、滅ぼされた古代南蛮王の直系……心臓の血蠱は呪いではない、王の力を覚醒させるための……』

HẾT CHƯƠNG

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