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弱者の死、修羅の涙

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黒水鎮の地下を流れる下水道は、排泄物と腐敗した油、そして南蛮特有の湿った泥の悪臭に満ちていた。冷たい汚水が膝まで浸かる暗闇の中を、沙霧謙はただ黙々と進んでいた。右足は『血骨の金針』の副作用によって完全に麻痺しており、一歩踏み出すたびに泥濘を引きずる鈍い音が、レンガ造りの不気味な洞窟に反響する。


 謙の右手は、すでに漆黒に変色して手のひら全体が壊死していた。冷たい薬鎌の柄に触れても、大気の温度すら伝えないただの枯れ木。感覚は、一滴たりとも残っていない。彼は左手だけで、半壊して刃こぼれの激しい『錆びた薬鎌』を強く握りしめていた。


「がはっ……!」


 不意に胸を突き上げるような熱に襲われ、謙は汚水の中に黒い血を吐き出した。吐き出された血は、泥に触れた瞬間、ジュウと音を立てて泡立つ。呉鏢頭から強奪した『赤陽真気』が、体内で制御を失い、沸騰した油のように経絡を焼き続けているのだ。だが、溢れた血を舌で弄んでも、鉄の錆びた味すらしない。完全な無味。人間としての感覚を失い、他者の命を喰らう怪物へと変貌したことへの、冷酷なまでの証明だった。


 謙は懐から、闇市で手に入れた『鉄面鬼の鋼鉄仮面』を取り出した。冷たく鈍い光を放つ鋼鉄の仮面を顔に当て、固定用の革紐を頭の後ろで固く締め上げる。視界は左右の細いスリットだけに制限され、大気が鉄の匂いで満たされた。だが、これで正体は隠せる。


 広場の中央へと繋がる鉄格子の排水口の下に到達した時、頭上から、押し殺したような群衆のざわめきと、松明の爆ぜる音が聞こえてきた。そして、それらを切り裂くように、卑屈で傲慢な、聞き覚えのある声が響き渡る。


「おい、南蛮の虫ケラども! よく見ろ!」


 厳寛の声だ。謙は息を殺し、動かない右足を踏ん張って、排水口の格子から地上を窺った。


 夜明け前の薄暗い灰色に包まれた黒水鎮の中央広場。そこには、赤陽鏢局の鏢師たちと、趙大虎の率いる守備隊の兵士たちが二重の包囲網を形成していた。周囲の建物の屋根の上には、朝廷軍直伝の巨大な『重弩』が、広場の中央に向けて隙間なく牙を剥いている。


 木造の処刑台の上には、全身を鎖で縛られ、血まみれになった十二歳の少年――沙鉄豪が吊るされていた。かつて薬蠱門で謙を「兄貴」と呼んで慕っていた、あの純朴な薬童の面影は、無惨な傷跡の下に埋もれかけていた。


「沙霧謙! 聞こえているのだろう!」


 厳寛は赤陽鏢局の黒い外套を羽織り、処刑台の上で嘲笑を浮かべていた。その手には、肉を削ぐための鋭い短刀が握られている。


「お前が生き延びていることは分かっている! この薬人の血を持たぬ哀れな小僧が、お前の身代わりにどれだけ泣き叫ぶか、その耳でよく聞くがいい! 夜明けまでに現れねば、この指を一本ずつ切り落としてくれる!」


 厳寛が短刀の刃を鉄豪の細い指先に押し当てると、鉄豪の小さな身体が恐怖で激しく震えた。だが、少年は涙と血に塗れた顔を上げ、広場の闇に向かって叫んだ。


「謙の兄貴……来ちゃダメだ! これは罠だ、みんな兄貴を殺すために……あぐっ!」


 厳寛が鉄豪の腹を容赦なく蹴り飛ばし、少年の悲鳴が広場に木霊した。


 格子の下で、謙の胸の奥にある血蠱がドクンと狂暴に脈打った。沸騰する熱毒が脳を焼き、理性を消し去ろうとする。だが、謙は冷たい鉄面の奥で、血の凍るような理性を極限まで研ぎ澄ませていた。


(正面から行けば、重弩の餌食になる。だが、下水道の直上から不意を突けば、射撃の手を数秒は遅らせられる……!)


 謙は左手に薬鎌を構え、胸の『血骨の金針』に触れた。一時的に感覚を完全に消し去る禁忌の能力――『痛覚遮断』を、限界を超えて発動する。胸の秘孔に金針が深く沈み込み、全身の神経が冷たい虚無に包まれた。傷の痛みも、熱毒の焦熱も、すべてが意識の彼方へと消え去る。肉体はただの動く人形と化した。


「そこまでだ」


 鉄格子の蓋が、内側からの爆発的な真気によって吹き飛んだ。土煙と共に、排水口から一匹の悪鬼が躍り出る。鉄面を被り、漆黒の右手を垂らした異形の影に、周囲の衛兵たちが一瞬怯んだ。


「な、何奴――」


 衛兵が武器を構えるより早く、謙は左手の錆びた薬鎌を振るった。足を引きずりながらも、無駄のない最小の動作で繰り出される『錆び鎌一閃』。草を刈るかのような自然な一振りが、衛兵の頸動脈を正確に切り裂いた。血飛沫が舞う中、謙は倒れゆく衛兵の身体を強引に引き寄せ、その重い鋼鉄の盾を奪い取った。


「謙だな! やれ! 撃て、撃ち殺せ!」


 厳寛が狂ったように叫び、処刑台から飛び退いた。


 瞬間、周囲の屋根の上から、バチンと硬い弦の音が同時に炸裂した。朝廷の重弩から放たれた、丸太のように太い鉄矢が、鋭い風切り音を立てて四方から謙へと降り注ぐ。


 謙は奪った盾を掲げ、突進した。だが、重弩の威力は凄まじかった。直撃した鉄矢の衝撃波が盾を物理的に叩き割り、謙の身体は強風に吹き飛ばされるように泥の上へと転がった。痛覚遮断のおかげで悲鳴こそ上げないが、背中と右太ももに、太い鉄矢が肉を抉って深く突き刺さっていた。血が溢れ出るが、謙は表情一つ変えず、引きずる右足に無理やり真気を送り込んで立ち上がった。


「鉄豪……!」


 謙は処刑台へと跳躍し、鉄豪を縛る縄に錆びた薬鎌を叩き込んだ。だが、刃が縄に触れた瞬間、キィンと金属音が響き、鎌が滑った。厳寛が仕掛けた、唐門の技術による極細の鋼鉄糸が縄の芯に仕込まれていたのだ。刃が滑り、救出に数秒の遅れが生じる。


 その一瞬の隙を、屋根の上の重弩隊は見逃さなかった。最も巨大な重弩の照準が、無防備になった謙の胸元へと定められ、引き金が引かれた。


「兄貴、危ない!」


 縄から半ば解放されていた鉄豪が、叫びながら謙の前に自らの小さな身体を投げ出した。


 ドズン、と、鈍く重い衝撃音が処刑台の上に響き渡った。


 放たれた巨大な鉄矢は、鉄豪の小さな胸を完全に貫き、その身体を謙の胸へと激しく叩きつけた。少年の身体から、大量の熱い血が謙の鉄面に吹きかかる。


「あ……てつ、ごう……?」


 謙は崩れ落ちる鉄豪の身体を、左腕で必死に抱きとめた。痛覚遮断の虚無の中でも、腕の中に収まった義弟の肉体が、急速に冷たくなっていく感覚だけは、残酷なほどに伝わってきた。少年の指先は泥と薬草の汁で汚れ、最後まで、謙を救おうと彼の衣服を小さく握りしめていた。


「謙の、あに……き……生きて……」


 鉄豪の瞳から光が消え、握りしめていた小さな手が、力なく泥の上へと落ちた。十二歳の少年の命は、一瞬にして、ただの冷たい肉塊へと変わった。


「ははは! 救えなかったな、沙霧謙! お前はただの、呪われた化け物だ!」


 厳寛の勝ち誇った哄笑が、広場に響き渡る。衛兵たちが一斉に槍を構え、動けない謙へと距離を詰めていく。


 その瞬間、謙の心から、最後の『甘さ』が完全に消え去った。悲しみも、悔恨も、すべてが漆黒の憎悪へと昇華し、胸の奥の血蠱が、彼の激しい怒りと共鳴して異常な咆哮を上げた。


「お前たち、全員……殺す」


 謙は自身の左手のひらを、折れた鎌の刃で深く切り裂いた。溢れ出た『薬人の生き血』を、周囲の処刑台の木材や、近づく衛兵たちの足元へと豪快にぶちまける。万毒を宿した謙の血は、強酸のように木床や石畳を激しく腐食させ、一瞬にして、不気味な赤黒い血煙と毒霧を広場全体へと巻き上げた。


「ぎゃあぁぁ! 目が、皮膚が溶ける!」


「毒霧だ! 退け、退け!」


 衛兵たちが悲鳴を上げて混乱に陥る中、謙の胸元が、鉄面の隙間から不気味な深紅の光を放ち始めた。血蠱が怒りに狂い、周囲の空気中の真気すらも赤黒く染め上げていく。その異様な光景は、まさに地獄から這い出た修羅そのものだった。


 謙は鉄豪の冷たくなった遺体を左腕で固く抱き締め、視界を奪われた敵の包囲網をすり抜けて、再び開いた排水口の暗闇へと、引きずる右足で飛び込んだ。


 救えなかった義弟の死体を抱き、謙は暗い下水道をただ走り続けた。彼の心には、もう一滴の涙も残っていなかった。残されたのは、厳寛を、そして赤陽鏢局を、骨の髄まで呪い尽くし、跡形もなく消し去るという、絶対の殺意だけだった。

HẾT CHƯƠNG

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