仕組まれた罠
骨の髄まで焼き尽くすような熱が、経絡の細い一本一本を暴走していた。
「がはっ……!」
沙霧謙は、薬蠱門の地下調薬室の冷たい石床に膝をつき、どす黒い血を吐き出した。吐き出された血は、床の泥に触れた瞬間、ジュウと不気味な音を立てて白い煙を上げる。呉鏢頭から強奪した『赤陽真気』は、まるで煮え滾る溶岩のように彼の丹田で暴れ狂っていた。
だが、吐き出した血を見つめる謙の瞳には、何の感慨もなかった。口内に広がる生命の味は、ただの冷たい粘液に過ぎない。味覚の完全な喪失。人間としての境界を越え、他者の内力を吸い尽くす怪物へと堕ちた代償は、彼の舌からあらゆる感覚を剥奪していた。
それだけではない。謙は自身の右手を目の前に持ち上げた。指先から始まった不気味な黒ずみは、いまや手首の境界を越え、手のひら全体を漆黒に染め上げている。触れても何も感じない。氷のように冷たく硬直した右手は、もはや一振りの鎌を握ることも、一本の薬草を摘むこともできない、完全な死体と化していた。
「謙、動いてはならん! まだ真気の衝突が収まっておらぬ!」
盲目の老薬夫、古厳が、白濁した両目から大粒の涙を流しながら、謙の肩を必死に掴んだ。その骨張った指先が、謙の胸元に突き刺さる『血骨の金針』の周囲をなぞる。痛覚遮断の針がもたらす冷たい虚無のおかげで、謙は全身の皮膚が熱毒で焼けただれていく激痛を感じずに済んでいた。しかし、痛みを感じないからといって、肉体が崩壊を止めたわけではない。
「これ以上の真気の運行は、お主の経絡を内側から焼きちぎる。数日はこの地下で、薬湯を飲みながら気を静めるのじゃ。よいな……」
古厳の必死の懇願に、謙はただ、感覚のない左手で半壊した『錆びた薬鎌』を握りしめ、無言で頷くことしかできなかった。右足は金針の副作用で引きずったままだ。二流武者としての強大な力を得たというのに、今の彼の肉体は、薄氷の上に立つ砂の城のように脆かった。
その時だった。調薬室の天井を支える瓦礫の隙間から、不自然な足音が近づいてくるのが聞こえた。ペタペタと泥を踏みしめる、すばしっこい足音。それは謙が街での斥候として小銭を握らせていた浮浪児、喜子(きし)のものだった。
「謙の兄貴! 謙の兄貴はいるかい!」
崩れた石壁の隙間から滑り込んできた喜子は、泥だらけの顔を恐怖に引き攣らせ、呼吸を激しく乱していた。
「息を整えろ、喜子。何があった」
謙の低く、掠れた声が暗闇に響く。喜子は謙の深紅に輝く瞳と、全身から立ち上る白い蒸気に一瞬怯んだが、胸をかきむしるようにして叫んだ。
「大変だ! 鉄豪が……沙鉄豪が、赤陽鏢局の連中に捕まっちまった!」
「……何だと」
謙の胸の奥で、血蠱がドクンと激しく脈打った。沙鉄豪。薬蠱門が滅ぼされた際に行方不明となり、謙が実の弟のように可愛がっていた十二歳の薬童の少年。彼が生きていたという喜びよりも先に、最悪の予感が謙の脳裏を凍りつかせた。
「厳寛だ……あの裏切り者の厳寛が、鉄豪を Heishui Town(黒水鎮)の中央広場に引きずり出したんだ。謙の兄貴をおびき出すための罠だって、街の奴らはみんな噂してる! 夜明けまでに兄貴が現れなけりゃ、広場で鉄豪を公開拷問にかけて、なぶり殺しにするって……!」
「厳寛……!」
謙の左手が、薬鎌の柄をミりりと軋ませた。
厳寛。かつて薬蠱門の筆頭弟子でありながら、自らは毒に耐える『薬人』の血統を持たないという劣等感と嫉妬に狂い、門派を赤陽鏢局に売り渡した男。あの卑劣な叛徒が、謙を確実に仕留めるために、最も残酷な手段を選んだのだ。
「行ってはならぬ、謙!」
古厳が謙の衣服を強く引っ張った。老人の細い腕が、怒りと恐怖で小刻みに震えている。
「それは明らかな罠じゃ! 厳寛はお主の武功の癖も、その身体が限界であることもすべて知っておる。今のお主が黒水鎮に乗り込めば、それこそ奴らの思うツボじゃ。鉄豪を救う前に、お主自身が死ぬことになる!」
「……分かっている、爺や」
謙は静かに古厳の手を解いた。痛覚が遮断された胸の奥で、ただ冷たい怒りだけが沈殿していく。怒りに任せて叫ぶことすら、今の彼には無駄なエネルギーの消費に思えた。熱毒で狂いそうな脳を、彼は『冷たい理性』で無理やり抑え込んでいた。
「だが、あの子を見殺しにはできない。薬蠱門の血脈を、これ以上奴らに弄ばせるわけにはいかないんだ」
「謙……!」
「顔を隠す。奴らに私の正体を見破られず、かつ厳寛の背後を突くための『仮面』が必要だ」
謙は動かない右足を引きずりながら、地下調薬室の暗闇から這い出た。夜明けまで、残された時間は数時間。彼は霧に濡れた密林を滑るように進み、黒水鎮の地下に広がる『黒水闇市』へと向かった。
黒水鎮の地下下水道の奥深く。腐敗した泥と油の匂いが立ち込める暗黒街に、怪しげな油ランプの光が点々と灯っていた。ならず者や邪派の武人が群がる闇市の最奥、薄紅色の絹衣を纏った美女が、煙管から紫煙を燻らせている。黒水闇市を仕切る情報屋、柳青青(りゅう・せいせい)である。
水路を割って現れた謙の姿を見て、柳青青は細い目をさらに細めた。謙の全身からは、体内の熱毒によって白い水蒸気が陽炎のように立ち上り、その皮膚は不気味な赤みを帯びている。何より、彼の右半身は完全に強張っており、右手は漆黒に変色して死人のように垂れ下がっていた。
「おや……ずいぶんと無茶な体をして戻ってきたね、薬蠱門の生き残りさん」
柳青青は煙管の吸い口を赤い唇から離し、冷ややかな笑みを浮かべた。
「用件を言おう。厳寛が仕掛けた広場の罠について、詳細が欲しい」
謙は左手で錆びた薬鎌を支えにしながら、青青の前に立った。彼の瞳に宿る深紅の光が、暗闇の中で獣のように怪しく輝いている。
「相変わらず単刀直入だね。いいよ、金さえ払えば何でも教えてあげるさ」
青青は煙管を机の端で軽く叩き、灰を落としながら、声を潜めた。
「厳寛は本気だよ。お前を確実に殺すために、黒水鎮の守備隊長・趙大虎(ちょう・たいこ)と結託した。今、中央広場を取り囲む建物の屋根には、朝廷軍直伝の『重弩(じゅうど)』が隙間なく配置されている。お前が広場に一歩でも足を踏み入れた瞬間、四方から巨大な鉄矢の雨が降り注ぎ、肉片一つ残さず串刺しにされる手筈さ」
「重弩……」
「それだけじゃない。広場を固めるのは、赤陽鏢局の精鋭たちと、趙大虎の正規兵。あの少年――沙鉄豪の周りは、蟻一匹這い出せないほどの重包囲網だ。はっきり言って、あの少年はすでに死んだも同然さ。行くのは自殺行為だよ」
青青の冷酷な言葉が、地下の湿った空気に響く。だが、謙の表情は一ミリも動かなかった。彼の脳内では、すでに冷徹な戦術の計算が始まっていた。
(正面突破は不可能。だが、敵の完璧な待ち伏せに対して、こちらには下水道がある。乞食頭・老李のネットワークを使い、広場の直下にある排水口から潜入すれば、重弩の射線を一時的にかいくぐれるはずだ。問題は、私の顔が割れていること……)
謙は左手を懐に差し入れ、呉鏢頭から奪い取った、朝廷の刻印が入った重い官銀の袋を取り出した。そして、それを柳青青の前のテーブルへと、ズしりと叩きつけた。
「情報を買う。そして、もう一つ」
謙の深紅の瞳が、青青を射抜くように見つめた。
「顔を隠すための『鉄面』を。赤陽鏢局が雇った暗殺者『鉄面鬼』の予備の仮面が、この闇市にあるはずだ。それを出せ」
柳青青はテーブルの上の官銀の袋を細い指先で引き寄せ、その重さを確かめるように小さく微笑んだ。しかし、彼女の目は笑っていなかった。
「本当に、あの地獄へ行く気かい? そのボロボロの体でさ」
「私の体なら、心配いらない」
謙は左手で、半壊した錆びた薬鎌を強く握りしめた。痛覚のない肉体が、熱毒によって内側から軋む音が聞こえるようだった。夜明けまで、あと数時間。義弟・鉄豪の悲鳴が、彼の凍りついた理性を、静かに、しかし確実に研ぎ澄ましていた。
「……いいだろう。取引成立だ」
柳青青は手を叩き、闇の奥から一人の従者を呼び寄せた。従者の手には、冷たく鈍い光を放つ、顔全体を覆う鋼鉄製の不気味な仮面――『鉄面鬼の鋼鉄仮面』が握られていた。青青はそれを謙の前に押し出し、煙管の煙を彼の顔に向けて吹きかけた。
「夜明けと共に、広場で拷問が始まる。お前の命が、そこで尽きないことを祈っているよ、修羅の若旦那」
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