最初の強奪
白霧の底に、松明の赤黒い光が滲み、じわじわと輪を縮めていく。濡れた腐葉土を踏みしめる多数の足音が、湿った空気を通じて謙の鼓膜を小刻みに叩いていた。
「呉鏢頭! どこだ!」
「そこの茂みを探せ! 悪鬼の血痕が残っているぞ!」
赤陽鏢局の増援たちの怒号が迫る。残された時間は、刻一刻と消え失せようとしていた。
沙霧謙は、大木の根元にうずくまったまま、目の前で泥にまみれる男を見下ろしていた。赤陽鏢局第二隊長、呉鏢頭。先ほどまで密林を風のように駆け、鋭い短剣で謙を追い詰めていた男は、今や胸を深く裂かれ、肺から泡混じりの息を吐き出すだけの哀れな肉塊と化している。彼の自慢だった『蝉翼の短剣』は、謙の傷口から滴り落ちた『薬人の生き血』に触れたことで、強酸を浴びたように赤黒く溶け落ち、無惨な鉄屑として泥に半ば埋もれていた。
「ひ、ひぃ……お、前、は……」
呉の濁った瞳に、底知れぬ恐怖が宿る。目の前に立つ十八歳の青年は、左肩と背中に骨に達するほどの深い傷を負い、おびただしい血を流しているというのに、その表情には苦痛の片鱗すら見られない。ただ、深紅に染まった瞳が、感情を一切排した硝子玉のように自分を見つめている。
謙の胸元では、衣服の裂け目から、心臓の真上に浮き出た赤黒い血蠱の紋様が、まるで生き物のように不気味に脈動していた。心臓の壁に牙を突き立てる血蠱の飢餓感が、謙の脳を狂わんばかりに侵食している。他者の真気を奪わねば、あと数分と持たずに彼の心臓は内側から爆裂するだろう。
(やるしかない……)
謙は口内に溜まった黒い血を地面に吐き捨てた。やはり、何の味もしない。生暖かい血の嫌悪感も、鉄の錆びたような生命の味も、今の彼の舌にはただの冷たい液体に過ぎなかった。味覚の完全な喪失。それは、彼が人間としての境界を越え、他者を捕食する怪物へと堕ちるための、無慈悲な前兆のようだった。
謙は無感覚の左腕を動かし、刃こぼれと変形が激しい『錆びた薬鎌』の柄を握り直した。右手の指先はすでに血蠱の侵食によって薄黒く硬直しており、鎌を正確に保持することすら叶わない。彼は引きずる右足を泥に固定し、呉の胸元へとゆっくりと這い寄った。
「や、やめろ……! 私は赤陽鏢局の……雷烈局長の直臣だぞ! 命だけは……!」
呉が残された力を振り絞り、泥を掻いて後退しようとする。しかし、謙は無言のまま、呉の細い首を左手で強引に掴み、冷たい石床に押しつけるようにして固定した。『痛覚遮断』の冷徹な虚無が、謙の心から一切の躊躇を削ぎ落としていた。
「あなたの真気を、もらう」
低く、掠れた声が謙の唇から漏れる。彼は右手に持った錆びた薬鎌の切っ先を、呉の胸元の傷口へと深く突き立てた。
「ぎ、あぁぁぁぁぁぁっ――!!」
呉の喉から、裂けるような絶叫が上がった。だが、謙はその口を無造作に塞ぎ、体内で禁忌の心法『血蠱鎮経』を運行し始めた。
瞬間、謙の心臓に巣食う血蠱が、歓喜に震えるように狂暴な脈動を開始した。謙の経絡を通じて、血蠱の目に見えない「牙」が、薬鎌の鉄身を媒介にして呉の体内へと侵入していく。呉の丹田に蓄えられていた、極陽の『赤陽真気』が、鎌の刃を通じて赤黒い光の糸となり、謙の胸元へと逆流し始めた。『血の吸引』の開始だった。
「う、ぐ、ああぁっ……!」
謙の五臓六腑が、流れ込んできた異質な真気の熱量によって激しく悶えた。赤陽真気は、まるで沸騰した油のようだった。氷点下まで低下していた謙の体温が、一気に対流を始めて沸騰していく。胸の紋様が深紅の光を放ち、謙の全身の血管が、皮膚の下で赤く発光するように浮き上がった。
対照的に、呉の肉体には恐るべき変化が起きていた。真気と共に生命力を急速に吸い取られ、彼の引き締まっていた皮膚はみるみるうちに水分を失って乾燥し、灰色に変色していく。頬は削げ落ち、目は眼窩の奥深くへと窪み、太かった腕は枯れ木のように細く縮んでいく。彼が誇った二流武者の生命の灯火が、謙の血蠱という底なしの深淵に、一滴残さず吸い尽くされていくのだ。
「あ、が……あ……」
呉の絶叫は、やがて湿った風に消える掠れた吐息へと変わり、彼の体は完全に干からびたミイラ(乾屍)となって泥の中に横たわった。かつて一人の武人であったものは、今や触れれば崩れ落ちそうな、灰色の抜け殻に過ぎない。
強奪の完了と同時に、謙の丹田に、これまで経験したことのない強大で純粋な真気が満ち溢れた。経絡の詰まりが次々と破壊され、真気が全身を滞りなく巡る。身体の傷口が、強大な生命力によって急速に塞がっていく感覚。これこそが『二流武者』の境界。圧倒的な力が全身に満ちる快感に、謙の脳裏に一瞬、狂気的な恍惚感が広がった。
(これが……他者の命を奪って得る力なのか……)
だが、その快感は一瞬にして、泥のような自己嫌悪と激痛へと変貌した。
「がはっ……!!」
謙は激しく身をよじり、その場に崩れ落ちて黒い血を吐き出した。呉から急激に吸収した『赤陽真気』は、あまりにも純度が高く、かつ極陽の属性を帯びていた。謙の体内の陰陽の均衡が最悪の形で崩れ、強烈な『熱毒』が経絡を逆流し始めたのだ。全身の血管が内側から焼き切れるような熱病の苦痛。彼の皮膚からは、体温の異常上昇により、白い蒸気がじわじわと立ち上り始めた。
「ハァ……ハァ……う、ぐ……!」
謙は必死に呼吸を整え、古厳から教わった呼吸法を逆流させようと試みた。真気の巡りを無理やり停止させ、心臓への熱の集中を分散させる。だが、熱毒は彼の経絡を過熱させ続け、皮膚は赤く焼けただれていく。
さらに、彼の右手に、不気味な異変が起こり始めていた。
(感覚が……消えていく……?)
鎌を握る右手の指先を見つめると、血蠱の侵食による黒ずみが、手首の境界を越えて手のひら全体へと急速に広がっていた。熱毒の暴走を抑えるための代償として、右手の神経が物理的に機能低下を起こし、完全に感覚を失っていく。他者の力を強奪することの、冷酷で不可逆的な肉体の崩壊が、今、始まったのだ。
「そこの茂みだ! 煙が立っているぞ!」
背後、十数歩の距離まで迫った松明の赤い光が、謙の皮膚から立ち上る白い蒸気を捉えた。追っ手たちの足音が、濡れたシダの葉を激しく踏み荒らしながら押し寄せてくる。
謙は感覚の消えた右手を懐にねじ込み、半壊した錆びた薬鎌を左手で固く握りしめた。熱毒の劇痛に耐えながら、彼は動かない右足を引きずり、『隠形歩法』を強行発動して、夜明け前の深い白霧の中へと姿を消した。
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