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霧深き森の刃

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蛇骨渓谷の湿潤な空気が、まとわりつくような濃霧となって南蛮の密林を支配していた。小雨はすでに上がっていたが、濡れたシダ植物や巨大な地衣類から滴る水滴が、絶え間なく地面の腐葉土を叩いている。夜明け前の暗闇と、立ち込める白霧。それは外界の侵入者を拒む天然の迷宮であり、同時に一人の暗殺者にとっての完璧な帳でもあった。


「……ふう」


沙霧謙は、大木の太い根に背を預け、短く息を吐き出した。その呼吸には、体内の血蠱が発する異様な熱気が混ざり、霧の中でかすかに白い尾を引く。彼は無意識に自身の唇を噛み切った。じわりと滲み出た生温かい血液が口内に広がったが、やはり何の味もしなかった。鉄の錆びたような、あの生々しい生命の味さえも、今の彼の舌は捉えることができない。すべてを中和する『薬人の肉体』の代償として失われた味覚。それは、自分が人としての温もりを失い、他者の命を啜るだけの怪物へと変貌しつつある現実を、冷酷に突きつけていた。


さらに深刻なのは、胸元に深く突き刺さった『血骨の金針』がもたらす『痛覚遮断』の虚無だった。謙は、前回の退避時に不注意で触れてしまった囲炉裏の鉄釜の跡を、左手の指先でなぞった。皮膚は無残に焼けただれ、白い水膨れができているというのに、そこには何の感覚もない。触れられているという微かな圧力さえも消失した、冷たい静寂。痛みを感じないということは、どれほど肉体が破壊されようとも自覚できないという、死よりも不気味な恐怖だった。そして、その金針の強力な副作用により、彼の右足は未だに冷たい丸太のように麻痺し、泥を引きずるようにしか動かない。


「阿山は……無事に逃げ延びただろうか」


謙は密林の入り口で冷酷に突き放した唯一の友、阿山の姿を脳裏に浮かべた。彼をこの血塗られた螺旋に巻き込むわけにはいかなかった。すべての泥を自分が被り、ただ一人の修羅としてこの森で死ぬ。それが、謙が自らに課した冷徹な決意だった。


「……来たな」


謙は静かに目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。彼の皮膚が、湿った霧の揺らぎを通じて、遠方から近づく不自然な「熱」を捉える。それは野生動物の体温ではない。赤陽鏢局の武者たちが帯びる、極陽の『赤陽真気』の熱源。体内の血蠱を制御し、生き延びるために必要な「最初の獲物」が、すぐそこまで迫っていた。


謙は『隠形歩法』を起動した。右足の麻痺により、かつてのような俊敏な跳躍は望めない。しかし、彼は足を引きずりながらも、体重の移動を完全に殺し、濡れた木の葉を踏む音さえも霧の音に同期させた。気配を消し、気流に溶け込むその動きは、まさに密林を徘徊する音なき亡霊そのものだった。


霧の奥から、数人の人影が松明を掲げて現れた。赤陽鏢局の先遣偵察隊だ。


「おい、注意しろ。この辺りに薬蠱門の生き残りの悪鬼が潜んでいるという報告がある。厳寛の兄貴からは、不審な影があれば即座に信号弾を放てと命じられている」


「ふん、所詮は生き残りの薬童だろ? 我ら赤陽鏢局の敵ではない」


末端の鏢師たちが、油断の混ざった声で囁き合う。彼らは気づいていなかった。自分たちのすぐ背後、松明の光が届かない霧の死角に、深紅の瞳が静かに浮かび上がっていることに。


謙は音もなく、最後尾の兵士の影へと滑り込んだ。感覚のない左腕で『錆びた薬鎌』の柄を握りしめる。指先の感覚は皆無だが、長年の薬草採取で骨に刻み込まれた「草を刈る」動作だけは、彼の肉体が完璧に記憶していた。


――『錆び鎌一閃』。


無駄のない、ただ一瞬の手首の返し。草を刈るかのような自然な一振りが、最後尾の兵士の頸動脈を正確に切り裂いた。悲鳴を上げる暇さえ与えず、吹き出た熱い血が霧を赤く染める。謙はその体が地面に倒れる前に左手で受け止め、静かに泥の上へと横たわらせた。口の中に飛び散った返り血を飲み込んでも、やはり味はしない。


謙は即座に懐から、南蛮特有の強酸性の毒液を取り出し、その死体の傷口へと滴下した。ジュウジュウと不気味な音を立てて緑色の煙が立ち上り、骨ごと肉体が溶けていく。薬蠱門伝来の生存技術『死体偽装』。数秒の後には、泥の上に衣服だけが残り、血の匂いさえも霧の湿気によって掻き消された。


「おい、後ろの奴はどうした?」


先頭の兵士が不審に思い、振り返った瞬間、謙の影はすでに霧の奥へと消えていた。一人、また一人と、音もなく偵察隊の数が減っていく。その冷徹な暗殺行の最中、謙の『温度感知』が、これまでの雑兵とは明らかに異なる、極めて鋭く、かつ冷酷な熱源の接近を捉えた。


(……速い!)


霧の揺らぎが、一瞬にして切り裂かれる。次の瞬間、謙の死角から、二振りの細身の短剣が風を切り裂く音もなく迫り来た。金属の反射光さえも殺したその刃は、カマキリの鎌のように不気味な軌道を描いて謙の喉元へと突き出される。


謙はとっさに錆びた薬鎌を突き出して防ごうとした。しかし、敵の身のこなしはあまりにも俊敏だった。中原の軽功『木の葉渡り』。敵は謙の鎌の刃を踏みつけるようにして空中で身を翻し、完璧に謙の死角へと回り込んだ。背後からの、容赦のない切り裂き。


「がっ……!」


鋭い衝撃が謙の背中を襲った。衣服が裂け、肉が引き裂かれる感覚を、謙は「痛み」ではなく、単なる物理的な衝撃の衝撃波としてのみ認識した。痛覚遮断のせいで、背中がどれほど深く切り裂かれたのかが分からない。ただ、温かい血液が背中を伝って流れ落ちる不気味な感触だけが、彼に負傷の事実を告げていた。


霧の中から、非常に痩せた、灰色の軽装を纏った男が姿を現した。その目は冷酷で、獲物をいたぶる蛇のように細められている。赤陽鏢局の第二隊長、呉鏢頭だった。


「ほう、私の不意打ちを喰らって声を上げぬとは、なかなかの根性だな。だが、その足の引きずり方……お前が南蛮の悪鬼、沙霧謙だな?」


呉鏢頭は二振りの短剣『蝉翼の短剣』を巧みに回転させ、冷笑を浮かべた。


「厳寛の密告は正しかった。お前のような瀕死の虫ケラを仕留めるのに、本隊を動かすまでもなかったな。私の速度についてこられるか?」


呉鏢頭の体が、再び霧の中に溶けるように消えた。いや、消えたのではない。圧倒的な速度による『木の葉渡り』。前後左右、どこから攻撃が来るのか、通常の五感では捉えきれない。


謙は目を閉じた。視覚を捨て、体内の『温度感知』にすべてを委ねる。冷たい霧の対流の中で、呉鏢頭が高速で移動するたびに発生する、体温の「熱い気流」の軌跡。それが、謙の脳内で赤い線となって立体的に描き出されていく。


(そこだ……!)


謙は錆びた薬鎌を右斜め後ろへと振り抜いた。しかし、呉鏢頭は空中で不自然に軌道を曲げ、謙の鎌の刃を容易く躱した。やはり右手の麻痺のせいで、鎌の軌道に僅かなブレが生じていたのだ。その一瞬の隙を、呉鏢頭は見逃さなかった。


「遅い!」


霧の奥から、呉鏢頭の得意技『毒蛇牙突』が放たれた。二振りの短剣が、猛毒を帯びた蛇の牙のように、予測不能なうねりを伴って謙の左肩へと突き刺さる。


ザク、と不気味な肉を裂く音が密林に響き渡った。


蝉翼の短剣は、謙の左肩の衣服を貫き、鎖骨の下の肉を深く切り裂いた。骨が削れる鈍い感触。凄まじい出血が謙の黒い麻衣を赤黒く染めていく。


しかし、呉鏢頭は勝ち誇る笑みを浮かべた瞬間、背筋に凍りつくような悪寒を感じた。目の前にいる青年は、致命的な一撃を喰らったというのに、声を上げることも、痛みに顔を歪めることもしなかった。その深紅の瞳は、まるで人形のように無表情のまま、冷徹に呉鏢頭の顔を見つめ返していたのだ。なぜなら、彼にはすでに痛覚がなかったからである。


「……なっ、お前、なぜ叫ばぬ……!?」


呉鏢頭が驚愕し、短剣を引き抜こうとしたその瞬間、謙は避けるどころか、自らさらに一歩前へと踏み込んだ。突き刺さった短剣が、自身の肉の奥深くへとさらに食い込むのをも厭わず、謙は左手の錆びた薬鎌で、呉鏢頭の腕を強引に絡め取った。


「お前を……逃がさない」


謙の口から、無味の黒い血が滴り落ちる。その傷口から流れる『薬人の生き血』が、呉鏢頭の蝉翼の短剣の刃へと伝わった。瞬間、金属が激しく泡立ち、ジュウジュウと音を立てて腐食し始める。薬人の血に宿る、あらゆる毒を中和する過程で生じた強酸性の猛毒。それが、名剣の刃を一瞬にしてボロボロの鉄屑へと変えていく。


「私の短剣が……溶けるだと!? 貴様、一体何の怪物を体内に飼っている!」


呉鏢頭は恐怖に顔を歪め、強引に腕を引き抜こうとした。しかし、痛覚を失った謙の握力は、肉が裂けるのをも無視して呉鏢頭の服を掴んで離さない。謙は壊れた薬鎌を左手で逆手に持ち替え、至近距離から『錆び鎌一閃』を繰り出した。


銀色の軌跡が霧を切り裂く。呉鏢頭は咄嗟に身を引いたが、鎌の刃先は彼の胸元を深く切り裂き、鮮血が舞い散った。呉鏢頭は絶叫し、ボロボロになった短剣を捨てて、必死に霧の奥へと後退していく。


謙は追撃しようと一歩を踏み出したが、激しい立ち眩みが彼を襲った。左肩と背中からの多量の失血、そして金針の副作用による体温の低下。彼の『温度感知』の視界が、急激に暗く歪み始める。


その時、霧の向こうから、無数の足音と、赤陽鏢局の松明の光がうねるように近づいてくるのが見えた。


「呉鏢頭! どこだ!」


「悪鬼を見つけたぞ! 包囲網を狭めろ!」


増援の追っ手たちが、すぐそこまで迫っていた。傷ついた呉鏢頭を抱え、敵の包囲網が謙の周囲へと急激に縮まり始める。謙は折れた鎌の柄を握り直し、迫り来る松明の赤い光を、深い霧の奥から冷徹に見つめ返した。

HẾT CHƯƠNG

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