山林の密告者
囲炉裏の微かな赤火が、盲目の老薬夫、古厳の炭焼き小屋を薄暗く照らしていた。湿った薪が爆ぜるかすかな音に混じり、土鍋から立ち上る薬草の強烈な苦い香りが充満している。この無煙の炭焼き技術は、かつて門派の炭焼き職人であった老木から学んだものだ。煙を一切出さずに熱を得るその知恵だけが、この深い密林の奥で彼らの存在を隠し続けていた。
「飲め、謙。血の巡りを良くせねば、金針の毒がお主の経絡を完全に塞いでしまう」
古厳が濁った両目で、正確に謙のいる方向へと薬湯の器を差し出した。謙は感覚のない右手で器を受け取ろうとしたが、指先が強張って滑り、器の縁を危うくこぼしそうになった。血蠱の侵食による右手の指先の黒ずみは、すでに第一関節を完全に覆い、冷たい石のように硬直している。
謙は左手で器を持ち直し、一気に薬湯を口に流し込んだ。本来ならば顔を歪めるほどの凄惨な苦みがあるはずの野草の煎じ薬。しかし、謙の喉を通り抜けたのは、ただの生温かい無味無臭の液体だった。
舌を噛み切ってみる。じわりと溢れ出た生温かい己の血液を飲み込んでも、鉄の錆びたようなあの特有の味は一切しなかった。世界からすべての味が消え去り、ただ冷酷な虚無だけが舌の上に残されている。枯れ井戸の底で劇毒を中和した代償――『味覚の完全な喪失』。己が人間から怪物へと変貌していく事実が、この無味の血によって証明されていた。
さらに、胸元に深く突き刺さった『血骨の金針』がもたらす『痛覚遮断』の冷たい虚無が、謙の全身を包み込んでいた。彼はうっかり囲炉裏の熱い鉄釜に触れてしまったが、熱さも痛みも感じなかった。ただ、皮膚がじりじりと焦げる不気味な匂いと、白く水膨れしていく己の指先を「視覚」で捉えて初めて、自分が火傷を負ったことを理解した。痛みを感じないということは、己の肉体が壊れていくことすら自覚できない恐怖と同義だった。右足は今も冷たい丸太のように麻痺し、床に投げ出されたまま動かない。
謙が『血蠱鎮経』の心法を運行し、心臓の血蠱を鎮めようと静かに呼吸を整えた、その時だった。体内の血蠱が、心臓の壁に微かに牙を立てた。極陽の真気を求める飢餓の衝動。経絡が激しく痙攣し、謙は激しい吐血と共に床へと崩れ落ちた。
「がはっ……!」
吐き出された黒い血を見つめても、やはり何の味もしない。ただ、胸を掻きむしりたくなるような焦燥感だけが、味覚の消えた口内に苦く残るようだった。
その時、小屋の粗末な木扉が乱暴に押し開けられ、激しい雨の匂いと湿った夜気がなだれ込んできた。
「謙! 古厳のじいさん!」
入ってきたのは、引き裂かれた緑色の革衣を纏い、息を切らした若き狩人――阿山だった。彼の鋭い鷹のような目は焦りに見開かれ、額からは雨水と冷や汗が混ざり合って滴り落ちている。
「阿山……何があった」
謙は動かない右足を引きずりながら、囲炉裏の柱を支えにして静かに立ち上がった。その瞳は、深紅の光を湛えたまま冷徹に澄んでいる。阿山は謙の胸元に浮き出る赤黒い血管の紋様を一瞬見つめ、息を呑んだが、それを追及する暇はなかった。
「赤陽鏢局が動き出した! 厳寛の野郎が、お前が枯れ井戸の罠をすり抜けて生き延びていると確信し、黒水鎮から腕利きの鏢師たちを呼び寄せたんだ。奴ら、この森一帯を丸ごと焼き払う『山狩り』の準備を進めている!」
「森を、焼き払うだと……?」
古厳が盲目の顔を厳しく歪め、杖を握る手に力を込めた。
「赤陽鏢局の雷烈は、南蛮の薬草利権のためなら手段を選ばぬ男。だが、この広大な密林を焼き払うとは、正派の風上にも置けぬ暴挙じゃ」
「奴らにとって、南蛮の民や俺たちは虫ケラに過ぎない」
謙は静かに目を閉じ、体内の『温度感知』の感覚を周囲の密林へと広げた。冷たい雨が降る森の湿気を通じて、遠く、数マイル先から微かな「熱」の揺らぎが伝わってくる。それは通常の野生動物の体温ではない。赤陽鏢局の武者たちが帯びる、極陽の『赤陽真気』の不気味な熱源。それらが、この炭焼き小屋を取り囲むように、じわじわと包囲網を狭めているのが分かった。
「阿山、森の奥へ抜ける獣道はあるか?」
阿山は首を振った。
「俺がいつも使っている隠しルートがある。だが、厳寛の奴は俺たちの行動パターンを読み切っている。そのルートの出口の崖の上には、すでに『鉄爪の鷹』と呼ばれる追跡の達人が配置されているらしい。そこを通れば、上空から鷹に見つかり、一網打尽にされる」
袋小路だった。右足の麻痺を抱えた謙と、盲目の古厳、そして一般の狩人である阿山。このまま小屋に籠もっていれば、夜明けと共に押し寄せる山狩り部隊の火炎によって、全員が灰にされるのは確実だった。
「謙よ、お前は一人で逃げろ」
古厳が静かに、だが遮ることを許さない口調で言った。
「わしはもう十分に生きた。お主の右足の麻痺では、わしを連れて逃げることはできん。お主が生き残り、朝廷の黒幕へ復讐を果たすことこそが、薬蠱門の最後の希望じゃ」
「断る」
謙は一言だけ、冷たく言い放った。痛覚を失った胸の奥で、古厳を再び失うことへの、言葉にならない暗い怒りが渦巻いていた。もう、誰も死なせはしない。鉄豪を救えなかったあの夜の無念が、謙の冷徹な理性を鋭く研ぎ澄ましていく。
「受動的に隠れるだけでは確実に全滅する。ならば、こちらから打って出るまでだ」
「打って出るだと? 謙、お前その体でどうやって……!」
阿山が驚愕して謙の肩を掴もうとしたが、謙はその手を静かにかわした。阿山は幼馴染であり、唯一の友人だ。だが、この復讐と強奪の螺旋に、これ以上彼を巻き込むわけにはいかない。謙は阿山との間に、冷たい一線を引くように一歩後退した。
「阿山、お前がもたらした情報の中に、赤陽鏢局の物資輸送隊の動きがあったな」
「あ、ああ……。山狩りの本隊へ食料や松明、それに少量の薬草を届けるための小規模な輸送隊が、夜明け前にこの近くの隘路を通過する計画がある。警備は手薄だが、お前の内力では……」
「十分だ」
謙は背中の薬籠から、刃こぼれした『錆びた薬鎌』を引き抜いた。右手の感覚は鈍く、右手首には侵食の黒い筋が走っている。それでも、鎌を握る左手には、獲物を狙う獣のような確かな殺気が宿っていた。
『血蠱鎮経』を運行し、生き延びるためには、他者の陽気の内力を奪い取らねばならない。目の前に迫る山狩り部隊の包囲網を破り、古厳を救うための唯一の手段――それは、夜明け前にその輸送隊を急襲し、彼らの内力を強奪して、自身の経絡を一時的に強化することだった。
「阿山、お前は今すぐこの森から脱出し、黒水鎮の梅姐の元へ行け。ここに残れば、お前も『南蛮の悪鬼』の共犯者として処刑される」
「謙! 俺はお前を置いて……!」
「行け。これは命令ではない。俺の復讐の邪魔をするな」
謙の冷徹極まりない眼光に、阿山は言葉を失い、一歩後退した。かつての穏やかだった薬草摘みの青年の面影は、そこには微塵も残されていなかった。目の前にいるのは、生きるために他者の血肉を啜ることを決意した、孤高の修羅だった。
「……分かった。死ぬなよ、謙」
阿山は唇を噛み締め、雨の降る闇の中へと走り去っていった。
謙は炭焼き小屋の泥壁に寄りかかり、壊れた薬鎌の刃を静かに見つめた。外の雨は徐々に弱まり、立ち込める霧の向こうから、赤陽鏢局の松明の赤い光が、まるで巨大な蛇の目のように点々と浮かび上がり始めていた。包囲網が縮まるまで、残された時間はあとわずか。
「古厳の爺や、ここで待っていてくれ。温かい内力を、すぐに持ち帰る」
謙は『隠形歩法』を起動し、足音を完全に消して、濡れた山林の闇の中へと滑り出すように消えていった。夜明け前の隘路へ、最初の「狩り」を開始するために。
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