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死線での脈動

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神秘の枯れ井戸の底から這い上がった沙霧謙は、大雨が降りしきる廃墟の泥濘を、死人のように這い進んでいた。


大気を叩く激しい雨音が、彼の荒い呼吸をかき消していく。左腕は古厳の仕掛けた毒針によって完全に麻痺し、ただの重たい肉塊と化して地面を引きずられていた。だが、それ以上の絶望が彼の肉体を内側から破壊しつつあった。


「がはっ……!」


謙は泥の中に顔を伏せ、激しく身をよじって黒い血を吐き出した。口内に溢れた液体を吐き出すが、鉄の錆びたようなあの特有の味は一切しなかった。ただ、生温かい液体が喉から溢れ出る不快な感覚だけがある。枯れ井戸の底で『薬人の肉体』が毒を中和した代償――味覚の完全な喪失。世界からすべての味が消え去り、ただ冷酷な虚無だけが舌の上に残されていた。


(味すら、わからない……。俺は本当に、化け物になりかけているのか)


自嘲する暇さえ、心臓の血蠱は与えてくれなかった。ドクン、ドクンと、胸の奥で時限爆弾のような脈動が暴れ狂う。血の飢えを訴える血蠱の牙が、内側から肺を突き刺し、気道を物理的に塞ぎにかかっていた。呼吸ができない。肺が押し潰され、眼球の裏側に真っ赤な血が上る。


謙は泥を掴み、残された右腕だけで這いずり、崩れた瓦礫の隙間に隠された地下調薬室の木扉へと滑り込んだ。這い入ると同時に、力尽きてうつ伏せに倒れ込む。


「謙! よくぞ戻った……!」


盲目の老薬夫、古厳が、濁った両目を開いて謙の元へと駆け寄った。老人の骨張った手が謙の背中を触り、彼が背負う古厳の薬籠から『血蠱鎮経』の巻物が無事であることを確かめる。しかし、老人の安堵は一瞬で吹き飛んだ。謙の胸元から漏れ出る、獣のような喘ぎ声と、異常な高熱を感知したからだ。


「経絡が……焼き切れかけておる! 血蠱が心臓の壁を食い破ろうとしておるのじゃ! このままでは明日の夜どころか、半刻も持たん!」


謙の衣服を引き裂くと、胸元には赤黒い血管のような紋様が、まるで生き物のように蠢きながら広がっていた。心臓の鼓動はすでに常軌を逸した速さで脈打ち、胸皮を内側から突き破らんばかりに隆起している。


「が、あ……爺や……息が、できない……」


「待て、今、繋ぎ止めてやる!」


古厳は震える手で、自身の懐の最も深い暗袋から、一本の異様な金針を取り出した。それはただの金属ではない。謙の骨を削り、その『薬人の生き血』を幾度も吸わせて鍛え上げられた、呪いの金針――『血骨の金針』であった。


「これを刺せば、お主の寿命はさらに削られる。だが、これしか経絡を繋ぎ止める術はない……耐えるのじゃぞ、謙!」


古厳は謙の胸元、心臓の真上に位置する秘孔『命門』を見定めると、容赦なくその金針を突き刺した。


グズリ、と肉が裂け、胸骨を擦る不気味な音が地下室に響く。針が経絡の核心へと到達した瞬間、謙の全身が弓のように跳ね上がった。


「あ、が、あぁぁぁぁぁぁ――!!」


声にならない絶叫が謙の喉を引き裂いた。心臓に直接、灼熱の杭を打ち込まれたかのような衝撃。しかし、その極限の苦痛が頂点に達した瞬間、世界が奇妙な静寂に包まれた。


すうっ、と、すべての痛みが消え去ったのだ。


それは救いではなかった。胸の傷口からも、麻痺した左腕からも、一切の感覚が消失していた。触れられている感覚も、自身の肉体が存在しているという実感すらも失われた、冷たい虚無。血骨の金針が強制的に脳への痛覚信号を遮断した――特殊能力『痛覚遮断』の覚醒であった。


「痛みが……消えた……?」


「勘違いするな。痛覚を麻痺させただけに過ぎん。お主の経絡は、今も薄氷の上を走るように崩壊し続けておるのじゃ。そして、その金針の副作用は、すぐに現れる……」


古厳の予言通り、謙が立ち上がろうとした瞬間、右足の感覚が完全に失われていることに気づいた。経絡の強制封鎖に伴う、右半身の一時的な麻痺。謙の体はバランスを崩し、冷たい石床へと激しく崩れ落ちた。


その時だった。


地下室の天井、崩れた石壁の隙間から、大雨の音に混じって、不穏な足音と松明の光が差し込んできた。ペタペタと泥を踏みしめる靴の音、そして、聞き覚えのある卑屈で傲慢な声が、廃墟の地上に響き渡る。


「おい、隈なく探せ。薬蠱門の残党どもが、この廃墟のどこかに潜んでいるはずだ。赤陽鏢局の雷烈局長からは、一人の生き残りも出すなと仰せつかっている。見つけ次第、首を刎ねろ」


厳寛。かつて薬蠱門の筆頭弟子であり、謙にとっては最も親しい兄弟子だった男。だが、赤陽鏢局の襲撃の際、真っ先に一族を売り、今や敵の忠実な猟犬としてかつての我が家を蹂躙している叛徒。


天井の隙間から揺らめくオレンジ色の松明の光が、謙の冷たくなった顔を照らす。厳寛の偵察隊が、すぐ真上にまで迫っていた。


「厳、寛……!」


謙の折れた刃のような瞳に、初めて冷徹な殺意の炎が宿った。彼は右手の指先を見つめた。侵食の黒ずみはすでに第一関節を完全に覆い、強張って思うように動かない。それでも、謙は背中の薬籠から『錆びた薬鎌』を引き抜こうと、感覚のない右手を伸ばした。


しかし、右足の麻痺のせいで、彼の肉体は床を這うことしかできない。鎌を握ろうとする指先が滑り、金属音が小さく響きそうになる。


「無茶をするな、謙!」


古厳が音もなく謙の肩を抑え込み、耳元で囁いた。


「『息吹遮断の法』を使うのじゃ。呼吸を止め、心臓の鼓動を血蠱の奥底に隠せ。お主が動けば、一瞬で厳寛の鋭い五感に捕らえられるぞ」


謙は奥歯を噛み締め、教えられた呼吸法を運行した。肺の動きを完全に止め、体内の真気の巡りを極限まで小さくする。痛覚遮断の虚無の中で、彼の存在感は、まるで一本の枯れ木のように周囲の闇へと同化していった。


地上では、厳寛の足音が、地下室への隠し扉の真上でピタリと止まっていた。


「……待て。何か臭うな」


厳寛が鼻を鳴らす音が、天井の隙間から漏れてくる。


「雨の臭いだけではない。不自然な煤の匂い……いや、微かに血の臭いが混ざっている。この下に、隠し部屋があるのではないか?」


厳寛の部下たちが、床の瓦礫を乱暴に取り除き始める。隠し扉の取っ手が発見されるのは、時間の問題だった。謙は錆びた薬鎌の柄を、感覚のない右手で必死に握り締めた。もし厳寛がこの地下室の扉を開ければ、動けない自分は確実に殺される。それだけではない、古厳もまた――。


その時、地上の闇の中で、古厳が静かに立ち上がった。老人は謙の手を優しく握り締めると、盲目の目で天井を見上げた。


「謙よ、お主はここに隠れておれ。わしが奴らを引き付ける」


「爺や、何を……!」


「お主は生き延びねばならん。薬人の血を、そして一族の無念を、ここで絶やしてはならんのじゃ」


古厳は謙の静止を振り切り、地下室の別のハッチから、音もなく地上の廃墟へと這い上がっていった。そして次の瞬間、地上の瓦礫の上で、古厳は故意に激しく咳き込んだ。


「げほっ、げほっ……! 誰じゃ、夜中に薬草園の跡地を荒らす不届き者は……」


「誰だ!? ――ほう、古厳の爺さんじゃないか!」


厳寛の鋭い声が響き、足音が隠し扉から古厳の方向へと一気に遠ざかっていく。


「まだ生きていたのか、この盲目の老いぼれめ。さあ吐け、沙霧謙はどこに隠れている?」


地下室の暗闇の中、謙は『痛覚遮断』の冷たい虚無に包まれながら、地上の会話をすべて聞き取っていた。厳寛の卑屈な笑い声と、古厳を乱暴に引きずる音が、天井越しに伝わってくる。彼の右指先は黒く強張り、右足は動かない。しかし、彼の胸の中で、血の誓いがかつてないほど冷たく、鋭く研ぎ澄まされていく。


(厳寛……お前は、最初に俺が吸い尽くすべき肉塊だ)


生きるために、同胞だった男のすべてを奪い取る。謙の深紅に染まった両瞳が、暗闇の中で獣のように妖しく輝き始めた。

HẾT CHƯƠNG

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