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枯れ井戸の秘録

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雨はまだ、すべてを押し流すかのように激しく降り続いていた。南蛮の夜気は湿り気を帯び、冷酷に体温を奪い去っていく。薬蠱門の地下調薬室の隅で、沙霧謙は冷たい石床から這い上がった。胸の奥底で、植え付けられた『血蠱』が不気味に、そして狂おしく脈打っている。鼓動が跳ね上がるたびに、喉の奥からせり上がる血の味が、彼に課された死のタイムリミットを容赦なく告げていた。


「謙よ、これを持っていくがいい」


盲目の老薬夫、古厳が、長年愛用してきた竹製の古い薬籠を謙の前に差し出した。その二重底には、かつて薬蠱門で使われていた最低限の調薬器具や、応急処置用の針が隠されている。謙は無言でそれを背負った。右手の指先を見つめると、爪の生え際から第一関節にかけて、血蠱の侵食を示す薄黒い変色がじわじわと広がっている。握ろうとしても、指先に奇妙な痺れが走り、満足に力が入らない。


「あと三日……いや、もう二日もないかもしれん。お主の『薬人の肉体』がどれほど毒を中和しようとも、血蠱の飢えそのものを止めねば、心臓は内側から爆裂する。急ぐのじゃ」


古厳の掠れた声に見送られ、謙は地下調薬室の隠し扉を押し開けた。外は、黒焦げた柱と崩れた石壁が広がる薬蠱門の廃墟だ。つい数日前まで、ここには優しく調薬を教えてくれた父や、薬草を天日干しにしていた同胞たちの日常があった。だが今、鼻を突くのは雨に濡れた灰の臭いと、瓦礫の下から漂う死臭だけだった。


謙は身を屈め、影のように廃墟の裏手へと進んだ。まだ内力を体外に放つことすらできない「三流武者」である彼は、敵の巡回に見つかれば一瞬で命を落とす。泥を這うようにして、かつて薬草園の境界だった鬱蒼たる雑木林の奥へと向かった。生い茂る茨をかき分けた先に、その「神秘の枯れ井戸」は佇んでいた。


井戸の淵は崩れかけた石で囲まれ、底からは湿ったカビの臭いと、凍りつくような冷気が吹き上がっている。謙は腰に巻いた古いロープを木の幹に結びつけ、暗黒の深淵へと体を滑り込ませた。壁面の苔が手のひらで潰れ、ぬるりとした冷たさが皮膚にまとわりつく。右指の痺れのせいで、何度も足場を踏み外しそうになりながら、謙は井戸の底へと降り立った。


そこは、光の届かない泥濘の底だった。見上げると、井戸の口が雨空を小さく切り取った、灰色の円にしか見えない。


「……ここか」


謙は泥を払い、壁面の石肌を這うように触った。古厳が言っていた通り、特定の並びの石壁に、蛇を象った奇妙な螺旋状の紋様が刻まれている。だがその瞬間、謙の指先が、石の隙間に仕込まれた極小の真鍮製の筒に触れた。


(しまっ――)


古厳が侵入者を防ぐために設置したという「仕掛け毒針」の罠だった。謙はとっさに壁を蹴って上へ登り、針の射線を避けようとした。しかし、濡れた苔に足元をすくわれ、掴んだ石壁ごと足場が崩落した。落下する体勢のまま、暗闇の中で「カチリ」と硬い金属音が響く。


一瞬の後に放たれたのは、肉眼では捉えられないほど微細な、無数の毒針の雨だった。避ける足場はどこにもない。


謙は瞬時に覚悟を決めた。右腕をかばい、左腕を顔面と心臓の前に突き出して盾とした。同時に、残されたすべての力で、螺旋の紋様が刻まれた石壁の亀裂へと錆びた薬鎌を叩き込んだ。


チクチクとした無数の鋭い痛みが、左腕を襲った。古厳の毒針だ。浸透した劇毒は一瞬にして経絡を駆け巡り、謙の左半身を金縛りのような強烈な麻痺で満たしていく。意識が遠のき、膝が泥の中に折れそうになる。


だが、その絶望を打ち破ったのは、謙の体内に流れる「薬人の肉体」の血脈だった。毒素が心臓へ達する直前、謙の首筋から左腕にかけての血管が、不気味な黒紫色に発光した。体内の免疫細胞が狂暴に活性化し、侵入した劇毒を猛烈な勢いで分解し始める。


「がはっ……!」


謙の口から、どす黒い血が泥濘へと吐き出された。吐き出された血は強酸を帯び、泥の中でジュウジュウと音を立てて泡吹いている。毒素の分解には成功した。しかし、中和の代償として、謙の体温は急激に低下し、まるで全身の血液が氷水に変わったかのような悪寒が襲った。舌の感覚が完全に消失し、口の中に広がる血の味が「無」へと変わっていく。味覚の喪失だった。


この急激な極寒は、心臓で蠢く血蠱の「熱毒」と体内で激しく衝突した。相反する二つの極限の温度が経絡の中で爆発し、謙は内側から肉体を引き裂かれるような劇痛にのたうち回った。


「う、あ、あああああ……っ!」


泥に顔を伏せ、歯が砕けるほど噛み締めながら、謙は崩した石壁の奥へと手を伸ばした。冷たくなった指先が、崩れた瓦礫の奥に隠されていた、頑丈な石箱に触れた。泥まみれの石箱を引きずり出し、その蓋を力任せに叩き割る。


中から現れたのは、蛇の皮で幾重にも包まれた、一本の古い巻物だった。


その瞬間、謙の心臓の血蠱が、かつてないほど激しく共鳴した。ドクン、と胸が大きく跳ね上がり、 ragged な衣服の下から、赤黒い真気の光が血管の形となって浮き出る。まるで飢えた獣が、目の前の肉の匂いに狂喜しているかのようだった。


謙は震える手で巻物を広げた。薄暗い井戸の底で、かすかな灰色の光を頼りに、そこに記された血の文字を凝視する。


『血蠱鎮経(けっこちんけい)』


それは、心臓の血蠱を真気で包み込んで制御し、その飢餓の牙を利用して敵の経絡から直接内力を吸い取るための、禁忌の心法だった。だが、そこに記されていた生存の条件は、あまりにも冷酷で、人の道を外れたものだった。


「……他者の、真気を奪う……」


血蠱を鎮めるためには、ただ他者の内力を強奪し、その者を干からびたミイラに変えるまで吸い尽くさねばならない。綺麗事は一切通用しない。生き延びるためには、他者を捕食する怪物になれと、この巻物は命じていた。


さらに、巻物の最後には、最初の飢餓を和らげるための具体的な猶予が記されていた。純陽の真気、すなわち灼熱の内力を操る達人の力が必要である、と。


謙は巻物を古厳の薬籠の奥深くへとしまい込み、折れた刃のような冷たい瞳で井戸の口を見上げた。明日の夜までに、南蛮を支配する正派「赤陽鏢局」の達人から純陽の内力を強奪しなければ、彼の心臓は本当に爆発する。


暗闇の中、謙の深紅に染まった両瞳が、静かに、しかし飢えた獣のように妖しく輝き始めた。

HẾT CHƯƠNG

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