毒蠍の返り討ち
瘴気の迷宮の奥深く、湿った岩肌に囲まれた狭い空洞の中に、ねっとりとした紫色の霧が淀んでいた。鼻を突くのは、腐敗した菌類と猛毒の胞子が放つ、甘く不気味な臭気。通常の人間であれば数回呼吸しただけで肺が爛れ、血を吐いて倒れる死地である。
「若旦那、本当にその身体で行くのかい?」
暗闇の奥から、低く妖艶な声が響いた。首に純白の大蛇を巻き付けた蛇使い、蛇娘子(じゃじょうし)が、心配と好奇心の入り混じった瞳で沙霧謙を見つめている。
「……行く」
謙の口から漏れたのは、掠れた、極めて短い一言だった。十八歳の少年のものとは思えぬ、起伏を完全に排した氷のような響き。彼の鉄面の奥にある深紅の瞳には、迷いの色など一滴も残っていなかった。
「ペタ、ペタ……」
謙は動き出した。泥濘を踏みしめる不規則な足音が、静まり返った洞窟に虚しく響く。胸元に刺さった『血骨の金針』の副作用により、彼の右足は完全に麻痺し、歩くたびに丸太を引きずるような動作を強いられていた。さらに、彼の右手は手のひらまで不気味な漆黒に染まり、完全な無感覚に陥っている。その動かない右腕には、刃こぼれが凄まじい『錆びた薬鎌』が、包帯で幾重にもきつく縛り付けられていた。それは武器というより、彼の身体から生えた異形の爪のようだった。
口の奥からせり上がってくる黒い血を、謙は無表情に飲み下した。喉を通り抜ける液体の感触はあるが、味は一切しない。鉄の錆びた味も、生温かい血の不快感も、彼の失われた味覚の奥には届かなかった。かつて毒中和の代償として失った味覚は、彼が人間から怪物へと変貌していく冷酷な証明だった。痛覚すらも金針によって遮断されているため、背中にある黒鷹の爪傷も、太ももの矢傷も、ただ「肉体が損耗している」という事実として脳が認識しているに過ぎない。
「銭大爺(ぜん・たいや)の懸賞金に目が眩んだ猟犬どもが、出口で首を長くして待っているよ。特に、あの残忍な毒使い『毒蠍子(どくさそり)』には気をつけな。奴の毒は、並の防具ごと肉を溶かすからね」
蛇娘子の警告を背中で聞きながら、謙は振り返ることなく、引きずる足で紫煙の渦巻く出口へと歩みを進めた。落葉庵に残された小虎や蓮児たちの命が危ない。『鉄爪の鷹』に居場所を暴かれた以上、一刻の猶予もないのだ。立ち塞がる者が誰であろうと、その内力を強奪し、屍を越えて進むのみだった。
迷宮の出口に近づくにつれ、紫色の瘴気が薄れ、国境地帯の湿った朝の光が差し込んできた。しかし、その光の中に潜むのは、救いではなく静かな殺意だった。
カチリ、と硬い金属音が大気を震わせた。
(――罠か)
謙が気づいた瞬間には、すでに遅かった。地面の泥濘から飛び出した、肉眼では捉えられないほど極細の鋼糸――毒蠍子が仕掛けた『天網蜘蛛の糸』が、謙の引きずる右足と左腕を物理的に絡め取った。強靭な糸が肉に食い込み、謙の動きを完全に封じる。
「ヒッヒッヒ……かかったな、薬蠱門の生き残りめ」
霧の奥から、不気味な嘲笑と共に、一人の男が姿を現した。全身に無数の蠍のタトゥーを彫り込み、紫色の不気味な衣服を纏った男――殺し屋、毒蠍子である。その歪んだ笑みが、獲物を完全に追い詰めたという確信に満ちていた。
「厳寛との戦いで満身創痍になり、さらに瘴気の迷宮を彷徨って弱りきった化け物。それが銭大爺の懸賞金首とは、楽な仕事だ。おい、動くなよ。その身体、じっくりと溶かしてやる」
毒蠍子が袖口を振るうと、周囲の空気が一瞬にして紫色の濃霧に包まれた。奴の得意技『幻影毒霧』。視界を完全に奪い、吸い込んだ者の呼吸を止める凶悪な毒煙。しかし、謙は鉄面の奥で静かに目を閉じた。
五感を捨て、体内の『温度感知』を極限まで起動する。視界は真っ暗闇に染まるが、彼の脳裏には別の景色が広がっていた。冷たい霧は青く静まり返っているが、その中に、一つだけ激しく脈打つ赤橙色の「熱源」が確かに存在していた。それは、毒蠍子の体温と、彼が放つ呼吸の熱だった。奴は謙の左側から、音もなく接近している。
だが、謙はあえて動かないフリをした。罠に絡まり、毒霧に怯える獲物を演じることで、敵を限界まで引き付ける。
「死ね、南蛮の悪鬼!」
毒蠍子が闇から躍り出た。その指先には、先端に即死性の麻痺毒『千足麻痺毒』を仕込んだ黒い鉄製の飛び針――『蠍の尾針』が握られていた。毒蠍子は躊躇うことなく、その尾針を謙の剥き出しの胸元へ向けて突き刺した。
プツリ、と皮膚が裂け、鉄の針が謙の胸骨の隙間を貫き、心臓のすぐ傍らへと到達した。冷血な殺し屋の顔に、勝利の歓喜が浮かぶ。
「我が『千足麻痺毒』は、触れた瞬間に経絡を内側から溶かし尽くす。お前の自慢の肉体も、一瞬で泥水に変わるわ!」
しかし、毒蠍子の笑みは、次の瞬間に凍りついた。
謙は悲鳴を上げることも、膝をつくこともなかった。彼の胸の秘孔には、すでに自傷の『血骨の金針』が深く刺さっており、痛覚は完全に遮断されている。それだけではない。侵入した千足麻痺毒が心臓に達しようとした瞬間、謙の首筋から胸元にかけての血管が、不気味な黒紫色に激しく発光した。
――『薬人の肉体』の自動中和が開始されたのだ。
南蛮王族の血を引く謙の特異体質は、いかなる劇毒をも瞬時に分解する。毒素が強酸性の液体へと変えられ、謙の呼吸と共に白い蒸気となって鉄面の隙間から吐き出された。中和の代償として、謙の体温は急激に低下し、全身を凍えさせるような激しい悪寒としびれが走る。しかし、彼の肉体は未だ健在だった。
「な……何故だ!? 何故立っていられる!? 私の毒が……通じないだと!?」
毒蠍子の瞳が、初めて底知れぬ恐怖に支配された。これまでの暗殺の常識が、目の前の「怪物」には一切通用しない。後退しようとする毒蠍子に対し、謙の深紅の瞳が冷酷に光った。
「あなたの毒は、私の血には敵わない」
謙は左腕を強引に引き剥がし、絡みついていた蜘蛛の糸を力任せに引き千切った。右足を引きずりながらも、体重の移動を利用した直線的な踏み込み。左手で保持した、あらかじめ『蛇骨草(じゃこつそう)』の猛毒を塗布しておいた『錆びた薬鎌』を一閃させた。
――『錆び鎌一閃』。
無駄のない、草を刈るかのような一振りが、毒蠍子の足を薙ぎ払った。毒蠍子は悲鳴を上げて地面へと転倒する。奴は慌てて懐から解毒剤を取り出し、謙の『薬人の生き血』が自身の傷口に付着するのを防ごうとした。しかし、謙の物理的な鎌の鋭さは、毒蠍子の粗末な防具を紙のように引き裂き、その脇腹に深い傷を刻み込んだ。
「がはっ……! ま、待て、私は銭大爺に雇われただけだ! 命だけは――」
命乞いをする毒蠍子の胸元を、謙は無慈悲に引きずり歩行の重みで踏みつけ、その首を左手でガッチリと掴んだ。そして、右腕に固定された薬鎌の刃を、毒蠍子の傷口へと深く突き立てた。
体内で、禁忌の心法『血蠱鎮経』を運行させる。心臓の血蠱が、新たな獲物の真気を求めて狂暴に拍動を開始した。
――『血の吸引』。
「あああぁぁぁぁぁぁっ――!!」
毒蠍子の喉から、この世のものとは思えぬ絶叫が上がった。鎌の鉄身を媒介にし、赤黒い真気の糸が、毒蠍子の丹田から謙の胸へと激しく流れ込み始めた。極陽の真気とは異なる、冷たく湿った毒性の内力が、謙の経絡を急激に満たしていく。異なる真気の反発により、謙の心臓が激しく波打ち、口内から黒い血が溢れ出たが、やはり血の味はしない。
対照的に、毒蠍子の身体には凄惨な変化が起きていた。真気と生命力を一滴残さず吸い取られ、彼の皮膚は水分を失って灰色に変色し、枯れ木のように乾燥していく。頬が削げ落ち、眼球が眼窩の奥へと沈み込み、数秒の前まで生きていた男は、触れれば崩れ落ちそうな乾屍(ミイラ)へと成り果てた。
謙は干からびた死体をゴミのように蹴り捨て、激しい悪寒に耐えながら、毒蠍子の懐を探った。手に入ったのは、一時的に内力を爆発させる邪悪な丹薬『枯木吸血丹(こぼくきゅうけつたん)』と、一枚の古い羊皮紙の地図だった。
地図を開くと、そこには蛇骨渓谷の崖の割れ目に位置する『禁忌の薬草園(きんきやくそうえん)』の正確な位置が記されていた。謙の熱毒を中和するために不可欠な希少薬草『血霊芝(けつれいし)』が自生する、唯一の場所。
しかし、その地図の裏に挟まれていた一枚の書状を目にした瞬間、謙の深紅の瞳が激しく揺らいだ。それは、赤陽鏢局の局長・雷烈から毒蠍子へ宛てられた、極秘の命令書だった。
『薬人の血を引く悪鬼を炙り出すため、夜明けと共に、血霊芝が自生する薬草園を包囲し、すべて焼き払え。猛将「烈火の彪」を向かわせた』
謙の胸元で、血蠱が不吉に脈打った。彼が生き延びるための唯一の希望である血霊芝が、今まさに、赤陽鏢局の炎によって灰にされようとしている。謙は折れかけた薬鎌を握り直し、引きずる右足を無理やり動かして、朝霧の煙る密林の奥へと走り出した。
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