瘴気の迷路
冷たい雨は、密林の分厚い葉に遮られて細かな霧へと変わり、地表をぬるりとした湿気で満たしていた。泥濘と化した獣道を、沙霧謙はただ黙々と走り続けていた。
「ペタ、ペタ……」
濡れた土を踏みしめる、不規則で重い足音。胸元の秘孔『命門』に深く突き刺さった『血骨の金針』がもたらす副作用により、彼の右足は麻痺し、丸太を引きずるようにして進むしかなかった。さらに、手のひら全体が不気味に黒ずみ、完全に感覚を失った右腕には、半壊状態の『錆びた薬鎌』が包帯で無理やり固定されている。それは一振りの武器というよりも、彼の異形化した肉体の一部と化していた。
激しい移動の負荷により、喉の奥からどす黒い血がせり上がってくる。謙はそれを無表情に飲み下した。何の味もしない。鉄の錆びた臭いも、血の生温かさも、失われた味覚の奥には届かない。ただ、自身の内臓が確実に崩壊へ向かっているという、冷たい事実だけが喉元を通り抜けていった。
(急がねば……落葉庵が、暴かれた)
裏切り者・厳寛が死の間際に遺した言葉が、謙の脳裏に冷たくこびりついていた。落葉庵には、武功を持たない小虎や、薬草園を守る蓮児たちが残されている。彼らを再び赤陽鏢局の刃に晒すわけにはいかない。
しかし、その焦燥を嘲笑うかのように、頭上から不穏な風切り音が響いた。
キィィィィ――!
鬱蒼と茂る樹冠を突き破り、巨大な黒い影が急降下してきた。それは、赤陽鏢局が放った追跡の達人『鉄爪の鷹』が操る、恐るべき黒鷹だった。翼幅は一丈を超え、その両脚には、いかなる獲物の肉をも容易く引き裂く『黒鋼の鉄爪』が不気味な光を放っている。
「チッ……!」
謙は身をかわそうとしたが、麻痺した右足が濡れた泥に滑り、一瞬だけ反応が遅れた。その隙を、空の捕食者は見逃さない。黒鷹の鋭い爪が、謙の背中を容赦なく切り裂いた。
グズリ、と肉が裂ける不気味な音が響く。しかし、謙の口から悲鳴が漏れることはなかった。『痛覚遮断』の冷たい虚無が、彼の脳に激痛が届くのを完全に遮断している。背中から温かい血液が噴き出し、浸毒の黒麻衣を濡らしていく感覚だけが、冷徹な情報として意識に伝わる。
「フゥゥゥ……」
謙は呼吸を整え、体内の真気の脈動を極限まで小さくする『息吹遮断の法』を発動した。自身の体温と存在を霧の中に溶かし、敵の索敵網から完全に消え去る技術。しかし、上空を旋回する黒鷹は、その驚異的な視野で、密林のわずかな草木の揺らぎさえも見逃さなかった。鷹眼と同調する『鉄爪の鷹』の執念深い視線が、謙の頭上に常に張り付いているのを感じた。空からの無限の視界の前には、地上の隠密術などただの気休めに過ぎないのだ。
このまま密林を走り続ければ、落葉庵に辿り着く前に雷震の伏兵に包囲され、なぶり殺しにされる。謙は『温度感知』の感覚を前方に広げた。霧の向こう、切り立った谷の底から、異様なほど冷たく、そして不気味な紫色の熱量が立ち上っているのが見えた。
(……『瘴気の迷宮』か)
そこは、一年中太陽の光が届かず、吸い込むだけで肺を溶かすという猛毒の紫霧が停滞する天然の死地。通常の人間であれば、数分と持たずに呼吸困難に陥り、泥沼へと沈む場所だった。だが、万毒を克服した『薬人の肉体』を持つ謙であれば、その瘴気の中でも辛うじて生存することが可能だった。
「ペタ、ペタ……」
謙は躊躇うことなく、引きずる右足に真気を込め、紫色の霧が渦巻く谷底へと身を躍らせた。
一歩足を踏み入れた瞬間、ねっとりとした紫色の瘴気が謙の皮膚を包み込んだ。呼吸をするたびに、喉と肺が焼けるような激しい拒絶反応が襲う。首筋の血蠱の紋様が一瞬、不気味な紫色の光を放ち、侵入した毒素を猛烈な勢いで中和し始めた。中和の代償として、謙の体温は急激に低下し、激しい悪寒と一時的な視力の低下が彼を襲う。しかし、謙は鉄面の奥で深紅の瞳を細め、ただ前を見据えた。
キィィ!
黒鷹もまた、獲物を追って瘴気の霧へと突入してきた。鷹は巨大な翼を激しく羽ばたかせ、周囲の紫霧を吹き飛ばして謙の影を強引に暴き出そうとする。凄まじい風圧が謙の背中を押し、泥濘に足を取られる。
謙は左手で右腕の包帯を掴み、固定された『錆びた薬鎌』の刃を上空の影に向けて突き出そうとした。しかし、上空の突風に軌道を流され、逆に自身の位置を完全に露見させる結果となった。黒鷹は再び鋭い爪を剥き出しにし、謙の眉間を目がけて急降下してくる。
(これまでか……)
そう思った瞬間、紫色の霧の奥から、低く、妖艶な竹笛の音色が響き渡った。その音律には、特殊な内力が込められており、大気中の湿気を不気味に震わせていた。それは薬蠱門の周囲に張られた警戒網の主、蛇娘子(じゃじょうし)の『霊蛇の笛』だった。
カサカサ、カサカサと、地面の泥濘から無数の這い回る音が響く。
「いきなさい、我が子たち」
霧の奥から聞こえた蛇娘子の囁きと共に、木々の隙間、泥の底から、何千匹もの猛毒の蛇が湧き出してきた。それらは黒鷹の放つ体温に引き寄せられるようにして跳躍し、空中で黒鷹の巨大な羽や脚に絡みついた。さらに、毒蛇たちが一斉に放った酸性の毒霧が、黒鷹の鋭い両目を物理的にブラインドした。
キエェェェッ!
黒鷹は視界を奪われ、毒蛇の重みに耐えかねて激しく羽ばたきながら、上空へと撤退していった。その隙に、霧の中から紫色のエキゾチックな衣装を纏い、首に白い大蛇を巻き付けた妖艶な美女――蛇娘子が姿を現した。
「若旦那、こちらへ」
彼女は謙のボロボロの手首を掴み、瘴気の最も濃いエリアの奥にある、天然の安全な空洞へと彼を導いた。空洞の入り口は無数の毒蛇によって守られており、上空の鷹からは完全な死角となっていた。
「……なぜ、俺を助けた」
謙は壁に背を預け、激しい呼吸を繰り返しながら掠れた声で問うた。蛇娘子は不敵な笑みを浮かべ、首の大蛇を優しく撫でた。
「赤陽鏢局の無法者から、私とこの子たちの命を救ってくれた恩を忘れるほど、私は無情じゃないさ。それに……若旦那のその異形化した身体、嫌いじゃないよ」
彼女の目は、謙の黒ずんだ右手と、胸元に浮き出る血蠱の脈動を興味深そうに見つめていた。しかし、すぐにその表情は真剣なものへと変わった。
「だけど、のんびり傷を癒している暇はなさそうだね。南蛮の闇取引を牛耳る銭大爺(ぜん・たいや)が、お前の首に巨額の懸賞金をかけた。江湖の飢えた犬どもが、お前の血の匂いを嗅ぎつけて、もうこの迷宮の出口を取り囲んでいるよ」
蛇娘子の言葉が、洞窟の冷たい空気の中に重く響いた。謙は無言のまま、右腕に包帯で固定された薬鎌の刃を見つめた。体内の真気は厳寛から奪った力で一時的に安定していたが、外の世界は、彼をただの『生きた培養器』として追い詰めるための、新たなる死神の網を広げつつあった。
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