影通しの針
百花楼の最上階は、死界のような静寂に包まれていた。
階下から響く喧騒――酔客たちの濁った笑い声や、安価な三味線の音色は、厚い床板と幾重にも垂らされた極彩色の帳によって遮断され、ここまでは届かない。代わりに廊下を満たしているのは、白粉の甘い香りと、安物の上白糖を焦がしたような、どこか退廃的で不気味な匂いだった。
「ペタ、ペタ……」
湿った漆喰の床を叩くような、不規則で重い足音が響く。沙霧謙は、金針の副作用によって完全に麻痺した右足を引きずりながら、ゆっくりと歩みを進めていた。
鉄面の奥で、彼の深紅の瞳が静かに闇を見据える。謙の右腕は、手のひらから指先までが不気味な漆黒に変色し、完全に死に絶えていた。そこには血に汚れた包帯が幾重にも巻き付けられ、半壊した『錆びた薬鎌』を、まるで彼の肉体の一部であるかのように強制的に固定している。
ふと、喉の奥から這い上がってきた黒い血が、彼の口内を満たした。謙はそれを無造作に飲み干す。しかし、鉄の錆びた味も、生温かい血の不快感も、何も感じられなかった。味覚の完全な喪失。他者から内力を強奪して生き延びる怪物へと堕ちた代償は、彼の口腔からすべての感覚を奪い去っていた。ただ、喉を通り抜ける液体の重みだけが、辛うじて彼がまだ生きていることを証明していた。
(ここが、厳寛の部屋か)
白露から手渡された地図が示す、廊下の突き当たり。謙は左手を伸ばし、重い木扉を静かに押し開けた。錠はかかっていない。
部屋の内部は、完全な暗闇だった。窓から差し込む微かな月光が、乱雑に散らかった調度品を照らし出している。謙は足を引きずりながら、部屋の奥へと踏み込んだ。ベッドの上に手を置く。冷たい。布団の温もりはすでに完全に失われていた。
(もぬけの殻か。あの男、これほどの護衛を配しながら、なおも私を恐れて逃げ出したか)
厳寛の偏執的なまでの臆病さが、謙の予測を僅かに上回っていた。一族を裏切り、同胞を売って手に入れた地位。それを失うこと、そして「南蛮の悪鬼」となった謙に首を刈られることへの恐怖が、彼をこの百花楼から早々に逃亡させたのだ。
罠だと気づいた瞬間、謙の胸元に浮き出た血蠱の紋様が、ドクンと不穏に脈打った。体内で暴走する極陽の熱毒が、彼の経絡を内側から焼き焦がそうと暴れ出す。視界が一瞬、血のような赤に染まった。
――その時、無音の空間を、一条の「冷たい風」が切り裂いた。
風を切る音すらない。それは、空気の抵抗を極限まで計算し尽くした、四川唐門の暗殺技術を盗んだ者だけが放てる必殺の投擲――『飛刀の極意』だった。
暗闇の死角、天井の梁の隙間から放たれた極小の飛刀が、謙の右肩へと一直線に突き刺さった。肉が裂け、骨に鉄が達する鈍い衝撃。しかし、謙の表情は鉄面の奥で一切変わらなかった。胸元の秘孔に深く刺さった血骨の金針が、脳への痛覚信号を完全に遮断している。
「……そこにいるな」
謙は掠れた声で呟き、背後を振り返る。右肩の傷口から、温かい血がだらだらと流れ落ちるのが分かった。しかし、痛みを感じない彼の肉体は、ただ無機質な「損傷の報告」としてそれを受け取るだけだった。彼は即座に『痛覚遮断』の出力を引き上げ、左手で折れかけた薬鎌の柄を握り直した。
暗闇の中から、微かな衣擦れの音が聞こえる。梁の上に潜む暗殺者――『飛刀の李』。その瞳は、獲物を確実に仕留めたという確信に満ちているはずだった。だが、謙が傷を負いながらも眉一つ動かさず、平然と立ち尽くしている姿を見て、暗闇の中の気配が僅かに揺らいだ。
「化け物め……」
李の低い囁きと共に、再び『飛刀の極意』が発動する。今度は一本ではない。三本の柳葉飛刀が、扇状に広がりながら、謙の頭部、喉元、そして心臓を正確に狙って放たれた。
麻痺した右足では、この高速の投擲を避けることは不可能だった。謙は瞬時に戦術を切り替える。彼は回避を完全に諦め、唯一動く左腕を顔面の前に突き出して「盾」とした。
グサリ、グサリ、グサリ。
飛刀が謙の左前腕と、左脇腹の肉へと深く突き刺さる。鉄の冷たさが肉体を貫く感覚だけが、彼の意識に届く。謙はその衝撃を利用し、引きずる右足を力任せに踏み込んで、壁を蹴った。足音を完全に消し去る『隠形歩法』。彼は痛みを無視した狂暴な突撃で、梁の上にいる李との距離を一気に縮めるべく、天井へと跳躍した。
「何だと!?」
李の驚愕の声が、初めて暗闇に響いた。四本の刃を体に受けながら、速度を落とすどころか、逆に距離を詰めてくる人間など、彼の暗殺の歴史には存在しなかった。李は焦り、懐から最も細く、最も致命的な一本を抜き放った。それこそが、敵の経絡のツボを正確に貫いて内力の運行を永久に停止させる、彼の奥の手――『影通しの針』だった。
李の指先が、微かな真気の波動を帯びる。謙は跳躍の最中、目を閉じた。彼の皮膚が、周囲の空気の温度変化を敏感に捉える。『温度感知』。暗闇の中で、李の放つ『影通しの針』の先端が、極小の「熱い光の線」となって謙の眉間へと迫ってくるのが見えた。
(そこだ)
謙は空中、体勢を崩しながらも、首を僅か一寸だけ横へと傾けた。ヒュッ、と、耳元をかすめて針が通り抜けていく。極細の針は謙の鉄面の側面を削り、首筋に薄い切り傷を残して背後の壁へと深く突き刺さった。致命的なツボへの直撃は、間一髪で回避された。
着地と同時に、謙は李の至近距離へと肉薄していた。彼は右腕に固定された半壊の薬鎌を、李の首元に向けて力任せに振り抜こうとした。
しかし、感覚のない右手での操作は、あまりにも拙かった。真気の巡りが乱れ、鎌の軌道が僅かに外れる。李はとっさに身を翻し、謙の不格好な一撃を、胸元に仕込まれた黒鉄の防具で受け止めた。
キィィィン!
鋭い金属音が暗闇に響き渡り、火花が散る。薬鎌の刃先がさらに削れ、李の防具に深い傷を刻むに留まった。李はその衝撃で梁から床へと転落し、激しく咳き込みながらも、謙の「痛みを感じない肉体」と「異様な執念」に完全に圧倒されていた。
「お前は……人間ではない……!」
李は恐怖に顔を歪め、懐から黒い煙幕弾を取り出して床に叩きつけた。一瞬にして、部屋の中が濃い煙と不気味な紫色の霧で満たされる。白露の『特製の毒香水』の甘い香りが、その煙の中に微かに混ざり合っていた。
謙が煙を切り裂いて踏み込んだ時には、すでに李の気配は窓の外へと消え去っていた。窓枠には、彼が逃走の際に残した微かな血の跡だけが残されている。
謙は窓辺に立ち、黒水鎮の夜街を見下ろした。霧雨が降る暗い街道の先、百花楼の裏口から、一台の黒い馬車が猛烈な速度で発車していくのが見えた。馬車の車輪が泥水を跳ね上げ、闇の中へと消えていく。
(厳寛……!)
謙の胸の奥で、血蠱が再び激しく脈打った。逃亡する裏切り者の馬車の音が、彼の失われた味覚の奥で、苦い復讐の味となって響くようだった。彼は傷ついた左腕から流れる血を顧みず、窓枠を掴んで、夜闇の中へとその身を躍らせた。
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