妓楼の密偵
どす黒い汚水が、引きずる右足の爪先を容赦なく濡らしていた。
黒水鎮の地下に広がる下水道は、排泄物と腐った泥、そして国境地帯特有の湿気が混ざり合い、鼻を突く悪臭に満ちている。沙霧謙は、暗闇の中で「ペタ、ペタ」と不規則な足音を立てながら進んでいた。胸元の秘孔『命門』に深く突き刺さった『血骨の金針』がもたらす『痛覚遮断』により、傷口の痛みや汚水が沁みる不快感は一切感じない。だが、感覚が消え去った虚無の肉体は、ただ冷たく、重い泥人形のように謙の意志を拒もうとする。
ふと、濁った汚水が謙の唇に跳ね返った。かつてなら顔をしかめたであろう不浄の水。しかし、謙がそれを舌先で拭っても、鉄の錆びた味も、泥の不快な渋みも、何も感じられなかった。味覚の完全な喪失――他者から内力を奪って生き延びる怪物へと堕ちた代償は、彼の口腔からすべての彩りを奪い去っていた。謙は鉄面の奥から、ただ冷徹に、暗闇の先を見つめる。
「若旦那、こっちだ。足元に気をつけな。趙大虎の犬どもが、上では血眼になってお前さんを探してやがる」
前方を歩く小柄な影が、低い掠れ声で囁いた。黒水鎮の物乞いどもを束ねる乞食頭、老李(ろうり)である。全身にボロ切れを纏い、竹の杖を泥に突き立てながら進む老人は、この地下迷宮の構造を我が庭のように熟知していた。
城門の検問では、汚職隊長・趙大虎の部下たちが、辺境判官・朱の発行した『南蛮の悪鬼』の指名手配書を手に、通行人の顔を一枚一枚照合していた。趙大虎が配置した追跡犬の鋭い嗅覚に気づかなければ、謙は今頃、重弩の矢に貫かれていただろう。直前で下水道ルートへと切り替えたのは、老李の機転だった。
「老李、上はどうなっている」
謙の声は、熱毒に焼かれた喉のせいで、不気味なほど低く掠れていた。右腕に包帯で幾重にも固く巻き付けられた『錆びた薬鎌』が、歩くたびに壁の石肌と擦れ、鈍い金属音を立てる。感覚の消え去った右手は、今や鎌の柄と一体化し、ただの冷たい暗器の固定具と化していた。
「ひどいもんだよ。赤陽鏢局の雷烈局長から莫大な賄賂を受け取った趙大虎は、お前さんを捕らえるために街の全域を戒厳状態にしちまった。だが、心配いらねえ。俺の可愛い餓鬼どもが、今頃は東門の近くで大騒ぎを起こして、役人どもの目を引きつけているはずだ」
老李はニヤリと汚い歯を見せて笑い、謙の手から『黒水鎮の官銀』を受け取った。冷徹なギブ・アンド・テイク。この街の底辺に生きる者たちにとって、金こそが唯一の法であり、正義だった。下水道の酸性汚水により、謙の左足の皮膚は爛れ、泥まみれになっていたが、謙はそれすらも気にとめず、ただ黙々と足を引きずり続けた。
やがて、老李が立ち止まり、頭上にある重い鉄格子を指し示した。格子の隙間から、湿った泥の匂いに混じって、安っぽい白粉と、高価な酒の香りが漂ってくる。
「この上が、今回の目的地――黒水鎮で最も華やかな妓楼『百花楼』の裏口だ。お前さんの姉弟子が待っているはずさ」
謙は左手で錆びた薬鎌の背を支え、鉄格子の隙間に差し込んだ。二流武者へと突破したことで得た、全身の経絡を巡る真気を左腕に集中させる。ぎりぎりと不気味な金属音が響き、錆びた鉄格子がゆっくりとこじ開けられた。謙は引きずる右足に力を込め、音もなく地上へと這い上がった。
下水道の悪臭から一転して、目の前には極彩色の世界が広がっていた。赤い提灯が夜闇を妖しく照らし、遠くからは弦楽器の音色と、男たちの下品な笑い声が聞こえてくる。百花楼の裏庭は、表の喧騒とは対照的に静まり返っていたが、周囲の回廊からは、定期的に巡回する赤陽鏢局の歩兵たちの重い足音が近づいてきていた。
「誰だい」
暗闇の中から、鋭い、しかし極めて低い女性の声が響いた。影から現れたのは、薄手の派手な妓生の衣装を纏い、顔を濃い化粧で覆った美女だった。その瞳の奥には、百花楼の他の娼婦たちとは明らかに異なる、冷徹な復讐の炎が宿っている。謙の姉弟子であり、薬蠱門の生き残りである白露(はくろ)だった。
「白露姉さん」
謙が鉄面の奥から静かに呼びかけると、白露は息を呑んだ。彼女の目が、謙の被る異様な鉄面、そして何よりも、包帯で右腕に強制固定された半壊状態の『錆びた薬鎌』へと向けられた。手のひら全体が黒ずみ、完全に感覚を失った謙の右手。その変わり果てた、怪物のような姿に、白露の美しい瞳に一瞬だけ恐怖の色が走った。
「謙……本当に、お前なのかい? 厳寛の奴は、お前が古厳のじいさんの自爆に巻き込まれて死んだと吹聴していたけれど……」
「爺やは死んだ。鉄豪も、もういない」
謙は感情を完全に排した声で告げ、懐から『薬蠱門の血塗られた木札』を取り出して見せた。返り血が染み込んで黒ずんだその木札は、彼が薬蠱門の正統な後継者であり、復讐を果たすために地獄の底から這い戻ってきた修羅であることの、何よりの証明だった。白露はその木札を見つめ、悲痛な表情で唇を噛み締めた。
「そうかい……。じいさんも、鉄豪も……。残されたのは、私たちだけなんだね」
その時、回廊の角から、松明の赤い光が裏庭を照らし始めた。鏢局の巡回兵が、こちらの不審な人影に気づいたのだ。
「誰だ! そこで何をしている!」
白露は瞬時に妓生としての笑みを顔に貼り付け、謙の左腕を強引に引き寄せた。彼女は懐から『特製の毒香水』を周囲に振り撒き、その甘い香りで下水道の悪臭を誤魔化すと、謙の肩に寄り添って千鳥足で歩き出した。
「あらぁ、お役人様。この旦那、お酒が過ぎて裏庭で吐きそうになってしまって……。ほら、旦那、お部屋へ戻りましょう?」
白露の美色惑心術と、漂う妖しい香りに惑わされた兵士たちは、謙の引きずる右足を怪しみながらも、ただの酔客と判断して鼻で笑った。
「ふん、百花楼の客か。うろちょろするな、今は『南蛮の悪鬼』の捜索中だ。さっさと部屋へ戻れ」
兵士たちが立ち去るのを見届け、白露は謙を百花楼の最上階にある自身の密室へと引き入れた。重い木扉が閉まり、滝の音に似た喧騒が遮断されると、密室の中には重苦しい沈黙が満ちた。
「謙、厳寛は今、恐怖で狂いかけているよ」
白露は衣装を整えながら、冷酷な眼光で語り始めた。
「奴はお前が生きているのではないかと怯え、赤陽鏢局の護衛を通常の三倍に増やした。この妓楼の最上階の密室に引きこもり、私たちが近づく隙すら与えない。それだけじゃない……」
白露は謙の深紅に輝く瞳を真っ直ぐに見つめ、その言葉の温度を一段と下げた。
「厳寛は、自身の保身のために、雷烈局長から莫大な資金を借り受けて、中原から『ある刺客』を雇い入れた。奴の傍らには常に、影のように付き従う男がいる」
「刺客……?」
「ええ。四川唐門の技術を盗み、風の抵抗すら計算して必中の針を放つ暗殺者――『飛刀の李(ひとうのり)』。奴の放つ極小の飛刀は、音もなく、気配もなく、標的の急所を貫く。厳寛の首を刈るつもりなら、まずその影を排除しなければ、お前が近づく前に喉を撃ち抜かれることになるよ」
白露の警告が、密室の冷たい空気の中に響き渡った。謙は無言のまま、右腕に固定された薬鎌の刃先を見つめた。体内の熱毒が、彼女の言葉に共鳴するかのように、胸の奥でドクンと不穏な脈動を始めていた。
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