修羅の契約、牙を研ぐ
滝の轟音が、世界のすべてを掻き消していた。落葉庵(らくようあん)――蛇骨渓谷の最深部、切り立った断崖の裏側に隠されたその廃寺は、絶え間なく降り注ぐ水飛沫と湿った霧に包まれていた。外界からのあらゆる追跡を遮断する、天然の牢獄であり、唯一の安息地。
「……はぁ、……はぁ……」
冷たい石床を這うようにして、沙霧謙(サム・ケン)は廃寺の奥へと身を横たえた。鉄面の奥から漏れる呼吸は、体内の熱毒によって白く濁り、熱い蒸気となって霧の中に消えていく。
右足は金針の副作用によって完全に麻痺し、まるで重い丸太を引きずるように泥を深く抉っていた。背中と右太ももを貫いた重弩の矢傷からは、未だにどす黒い毒血が滴り落ちている。だが、胸元の秘孔『命門』に深く突き刺さった『血骨の金針』がもたらす『痛覚遮断』の虚無のせいで、肉体を引き裂くような激痛は一寸たりとも感じられない。
謙は感覚のない右手を見つめた。手のひら全体が不気味な黒紫色に変色し、完全に強張っている。指先は一本も曲がらず、ただの冷たい骸骨のようになっていた。彼は、半壊して刃こぼれの激しい『錆びた薬鎌』を左手だけで握りしめ、古厳の薬籠からいくつかの薬草を取り出した。
「がはっ……!」
喉を突き上げる激しい焦熱に耐えかね、謙は床に黒い血を吐き出した。吐き出された血は石床をジュウと音を立てて侵食していく。だが、口内に広がるその血を飲み込んでも、鉄の錆びた味すらそこにはなかった。味覚の完全な喪失。人間から怪物へと堕ちていく代償が、冷酷に彼の肉体を蝕んでいた。
謙は無表情のまま、薬草園の残骸から回収していた『蛇骨草』を口で噛み砕き(味は一切しないが、その毒性は理解していた)、自身の弩の傷口へと直接塗り込んだ。さらに、火を熾し、鎌の折れた刃先を赤熱させると、それを自身の爛れた傷口へと直接押し当てた。ジュウという肉の焦げる悍ましい音と共に、白い煙が立ち上る。痛覚はない。だが、肉が炭化していく匂いと熱だけが、彼の薄れゆく理性を狂気へと繋ぎ止める唯一の錨だった。
「謙……!」
滝の水のカーテンを割って、一人の若者が滑り込んできた。引き裂かれた緑色の革衣を纏い、背中に黒鉄の強弓を背負った幼馴染――阿山(アザン)だった。阿山は、鉄面を被り、全身から白い蒸気を放ちながら自らの肉体を焼き固める謙の異形化した姿に、息を呑んで立ち尽くした。
「阿山か……」
「お前、その身体……古厳のじいさんはどうした? 炭焼き小屋が完全に吹き飛んでいるのを見たんだ。まさか……」
「爺やは死んだ。俺を逃がすために、雷狂の軍勢ごと自爆した」
謙の声には、起伏がまったくなかった。まるで他人の死を報告するかのような、氷のように冷たい響き。阿山は拳を固く握りしめ、泥の上に膝をついた。悔しさと、謙の変わり果てた姿への恐怖が、彼の肩を小刻みに震わせる。
「俺のせいだ……俺がもっと強ければ、鉄豪も、じいさんも……」
「お前のせいじゃない。甘かったのは俺だ。これからは、立ち塞がる者すべてを強奪し、屠る。お前はこれ以上関わるな。黒水鎮の動向だけを、影から探ってくれ」
謙は阿山を巻き込まないため、あえて冷酷に言い放った。阿山は謙の深紅に輝く瞳を見つめ、静かに頷くと、持ってきたわずかな食料と乾いた衣服を置き、無言のまま再び滝の霧の中へと消えていった。
夜が更け、落葉庵の周囲の闇がさらに深まった頃、滝の音に混じって、かすかな衣擦れの音が響いた。謙は左手で薬鎌を握り直したが、漂ってきた甘い煙草の匂いに、警戒を僅かに解いた。
「相変わらず、無茶な生き方をしてるね、修羅の若旦那」
赤い絹の羽織を肩にかけ、手元で煙管を燻らせる妖艶な女性――黒水鎮の安宿『安楽客店』の女将、梅姐(バイネエ)だった。彼女は潜入用の暗衣を纏い、謙の傍らに温かい薬膳スープの入った器を置いた。謙はそれを無造作に飲み干したが、やはり何の味もしなかった。
「梅姐、なぜここが分かった」
「古厳のじいさんから、万が一の時はここへ逃げ込むよう聞いていたのさ。かつて薬蠱門に子供の命を救われた恩がある。お前を役人の捜索から匿うくらい、朝飯前だよ」
梅姐は煙管の煙を吐き出し、懐から一冊の古びた手記を取り出した。返り血と泥で汚れたその書物は、古厳が炭焼き小屋に隠していた『宮廷御医の手記』だった。
「じいさんが死ぬ間際、私にこれを託したんだ。お前に渡してくれとね」
謙は左手で手記を受け取り、ページをめくった。そこには、古厳の隠された正体――彼がかつて朝廷の侍医であり、東宮の『景王(ケイオウ)』が主導する、不老不死薬『万寿丹』開発のための禁忌の血蠱実験に関わっていた宮廷医官であったという、衝撃の真実が記されていた。
「古厳のじいさんは、朝廷の非道な人体実験に耐えかねて、血蠱の設計図と共にお前を連れて辺境へ逃亡したのさ。謙、お前の心臓にあるその『血蠱』は、ただの呪いじゃない。景王が自身の延命のために完成させようとしている、不老不死の『鍵』そのものなんだよ」
梅姐の言葉が、謙の脳内で古厳の最期の伝音と重なり合った。
『お主の血は古代南蛮王の直系……心臓の血蠱は、王の力を覚醒させるための……』
謙の胸の奥で、血蠱がドクンと静かに、しかし強固に脈打った。彼が生き延びてきたこと、そして朝廷の犬である赤陽鏢局が執拗に彼を追う理由。すべては、朝廷の黒幕である景王の強欲に繋がっていたのだ。
「私の安宿『安楽客店』の地下には、黒水鎮の外へと繋がる秘密の地下道がある。街は趙大虎の重弩部隊で厳重に包囲されているけど、そこを使えば、誰にも気づかれずに潜入できるよ」
梅姐は謙の冷徹な横顔を見つめ、静かに立ち上がった。
「厳寛(ゲン・カン)は、お前が古厳の自爆で死んだと信じ込んでいる。奴は今、赤陽鏢局の護衛を増やし、黒水鎮の妓楼で祝杯を挙げる予定さ。三日後の夜、奴が動く。どうするんだい?」
謙は答えなかった。ただ、左手で錆びた薬鎌の折れた刃先を、静かに石床に押し当てた。
「……そうかい。死ぬんじゃないよ」
梅姐は煙管を収め、影のように滝の裏へと消え去った。
廃寺の中に、再び滝の轟音だけが残された。謙は一人、暗闇の中に座していた。感覚のない右腕を見つめる。彼は、血に染まった包帯を取り出すと、半壊した錆びた薬鎌の柄を、自身の黒ずんだ右手に幾重にも固く巻き付け始めた。
鎌を握るのではない。感覚のない右腕そのものを、鎌の柄として完全に固定し、一体化させるのだ。肉体の崩壊を、彼は復讐のための『兵器の固定具』として割り切る、狂気的な決断を下した。
キリキリと包帯が締め上げられ、謙の右腕の先端に、赤熱した錆び鎌の刃が不気味に固定された。彼は左手で研ぎ石を持ち、その刃を静かに研ぎ始めた。シュッ、シュッ、と、金属の擦れる音が、滝の音の隙間を縫うように響く。
謙は自身の左手を鎌の刃で僅かに切り裂き、滴り落ちる黒い『薬人の生き血』を人差し指につけた。そして、落葉庵の冷たい石床の上に、その血で最初の名前を刻みつけた。
――『厳寛』。
血で書かれた文字が、暗闇の中で不気味に光り、やがて乾燥して黒ずんでいく。一族を売り、鉄豪をなぶり殺しにし、古厳を死に追いやった裏切り者。その首を刈り取るための、冷酷なるデスリストの最初の名前だった。
「厳寛……お前から、始める」
謙は鉄面の奥から、凍りついた瞳でその名前を見つめた。夜明け前の深い霧の中、修羅の契約は結ばれ、牙は静かに研ぎ澄まされていった。
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