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目覚めし血の呪い

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泥水が、ただひたすらに冷たかった。


南蛮の湿潤な国境地帯、蛇骨渓谷(じゃこつけいこく)。絶え間なく降り注ぐ冷雨が、黒く焼け焦げた木柱を濡らし、無残に引き裂かれた死体から流れ出る血を薄めていく。


かつて、薬草と独自の医術をもって辺境の民を救ってきた「南蛮薬蠱門(なんばんやくくもん)」の総本山は、一夜にして地獄へと変貌していた。襲撃したのは、正義の皮を被った武林の大勢力「赤陽鏢局(せきようひょうきょく)」。彼らは南蛮の貴重な薬草利権を独占するため、朝廷の影の意志を受け、薬蠱門の者たちを一人残らず惨殺したのだ。


「ぐ、あぁ……っ!」


廃墟の泥濘に這いつくばる青年、沙霧謙(さむ・けん・十八歳)は、泥を掴みながら激しく身悶えした。彼の胸元、心臓の真上には、皮膚の下で何かが蠢くような異様な拍動があった。


心臓が、内側から引き裂かれるように熱い。まるで沸騰した油を直接流し込まれたかのような劇痛が、全身の経絡を駆け巡る。


「ハァ、ハァ……冷たい、いや……熱い……っ!」


謙の胸の皮膚には、赤黒い血管のような不気味な紋様が浮き出ていた。それは心臓を中心に、首筋、そして右手の指先へと、まるで生き物のようにじわじわと侵食を広げている。指先はすでに、血蠱の毒素によって薄黒く変色し始めていた。


これこそが、赤陽鏢局の連中が謙の心臓に植え付けた、死の時限爆弾――『血蠱(けっこ)』であった。朝廷の東宮「景王」が不老不死の研究のために作り出したとされる、禁忌の寄生虫。それは宿主の生命力を貪り食い、最後には心臓を爆裂させて死に至らしめる呪いそのものだった。


「鼓動が……速すぎる……っ」


謙の心臓は、常人の数倍の速さで不規則に跳ね上がっていた。肺が圧迫され、呼吸をするたびに喉の奥から鉄の味が込み上げる。視界が血の色に染まり、意識が急速に遠のいていく。


(ここで、死ねるか……。父上も、同胞たちも、あの裏切り者の厳寛(げん・かん)と赤陽鏢局の雷烈(らい・れつ)に惨殺された。この胸の痛みが、奴らへの復讐を果たす前に、俺を殺すというのか……!)


泥水を啜りながら、謙は折れた右指を地面に突き立てた。しかし、肉体は限界だった。血蠱が心臓の壁に牙を突き立て、内側から肉を食い破ろうとする激痛に、謙の喉から悲鳴すら出なくなる。


その時、激しい雨音の向こうから、ペタ、ペタと、濡れた泥を踏みしめる不規則な足音が近づいてきた。


「……誰じゃ」


低く、かすれた老人の声。謙のぼやけた視界に、ボロボロの麻衣を纏い、背中に古びた竹製の薬籠を背負った、背中の曲がった人影が映し出された。


「この血の匂い……そして、狂ったように脈打つ経絡の響き。お主、もしや謙か?」


老人の両目は白濁していた。盲目の老薬夫、古厳(こ・げん)。かつて薬蠱門の調薬長老であり、現在は身を隠して生き延びていた、謙にとっての親代わりの存在であった。


「古、厳……爺、や……」


「おお、やはり謙か! よくぞ生き延びてくれた……。だが、なんという経絡の乱れじゃ。これは、血蠱の最初の発作か!」


古厳は目が見えないにもかかわらず、風の揺らぎと血の匂いだけで謙の正確な位置を察知し、その傍らに膝をついた。老人の骨張った指先が、瞬時に謙の胸元へと伸びる。


「我慢するんじゃぞ」


古厳は懐から数本の鋭い金針を取り出すと、謙の胸元にあるいくつかの経絡のツボへと、迷いなく深く突き刺した。薬蠱門秘伝の『経絡封印針』である。


チクリとした鋭い痛みの直後、謙の心臓を縛り上げていた劇痛が、一瞬だけ和らいだ。血の巡りが強制的に止められ、心臓の異常な拍動が物理的に抑え込まれたのだ。


「ハァ……ハァ……」


「一時的に経絡を封じた。だが、これは気休めに過ぎん。すぐに場所を移すぞ。赤陽鏢局の残党がまだ周囲を嗅ぎ回っておる」


古厳は細い腕からは想像もつかない力強さで謙の体を担ぎ上げ、廃墟の瓦礫の下に隠された、秘密の入り口へと滑り込んだ。


たどり着いたのは、戦火を奇跡的に免れた「薬蠱門の地下調薬室(ちかちょうやくしつ)」であった。湿った石壁に囲まれた薄暗い空間には、古い調薬器具や、わずかな薬草の匂いが立ち込めている。


古厳は謙を冷たい石床の上に横たわらせると、すぐに周囲の棚からいくつかの薬草を掴み取り、薬研で磨り潰し始めた。


「これを飲め。体内の熱を冷ます急ごしらえの解毒薬じゃ」


差し出された黒く濁った液体を、謙は震える手で受け取り、一気に喉へと流し込んだ。薬蠱門の高度な医術によって調合された、熱毒を抑えるための秘薬。


しかし、薬液が胃に届いた瞬間、謙の胸の血蠱が、まるで異物を拒絶するように激しく暴れ狂った。


「う、ぐあぁっ……!!」


謙は激しく身をよじり、床に両手をついて黒い血を吐き出した。吐き出された血は酸性を帯びており、石床をジュウジュウと音を立てて侵食していく。


「なんじゃと……!? 薬理が通じぬというのか」


古厳が驚愕の声を上げた。謙の皮膚に浮き出た黒い血管が、さらに太く、首筋から顎のラインへと伸びていく。通常の鎮痛薬や呼吸法で痛みを抑えようとすればするほど、体内の血蠱はその刺激を敵対行動とみなし、宿主の肉体を破壊しようとするのだ。


「ハァ……ハァ……爺や、俺は、もうダメなのか……」


「弱音を吐くな! お主の血脈を信じるのじゃ」


古厳は謙の胸元に再び手を当て、その脈動を深く探った。老人の白い眉が、驚きによって大きく跳ね上がる。


「……信じられん。血蠱を植え付けられてこれほど時間が経っているというのに、お主の五臓六腑はまだ腐食しておらん。それどころか、血蠱の猛毒を、体内でじわじわと中和しつつある……」


古厳は謙の顔を引き寄せ、彼の首筋の血管を指先でなぞった。


「お主の母、美蘭(びらん)様から受け継いだ『薬人の肉体(やくじんのにくたい)』の血筋……。あらゆる毒に対して完全な耐性を持つその奇跡の体質こそが、血蠱の即死を防いでおるのじゃ。だが、それゆえに……」


「それゆえに、何だ?」


「血蠱はお主の肉体を食い破れぬ代わりに、異常な『飢え』を感じておる。お主の体内にある生命力――内力を、凄まじい速度で貪り食うておるのじゃ。このままでは、あと三日とお主の経絡は持たん。内力が枯渇した瞬間、お主の心臓は内側から爆裂する」


謙は自身の右手を凝視した。指先の黒ずみは、血蠱の飢餓が肉体を侵食している明確な証拠だった。


「他者の真気を吸い取るしかない……。それが、この血蠱を飼い慣らし、お主が生き延びる唯一の道じゃ」


古厳は静かに、しかし冷徹な真実を告げた。


「通常の医療では、この蟲は消せぬ。他者から力を奪い、血蠱に与え続けることでしか、お主の命は繋ぎ止められん。奪うことでしか生きられぬ怪物となる……。その運命を受け入れる覚悟はあるか、謙」


謙は奥歯を噛み締めた。一族を蹂躙され、父を殺され、すべてを失った。生き延びるためなら、たとえ人の道を外れた怪物になろうとも、構うものか。


「覚悟なら、あの雨の中でとうにできている。教えてくれ、爺や。どうすれば、その力を制御できる?」


古厳は謙の冷徹な眼光を、心の目で見つめ返すように静かに頷いた。


「薬蠱門の枯れ井戸の底に、かつてわしが隠した禁忌の巻物がある。そこに記された心法――『血蠱鎮経(けっこちんけい)』。それこそが、お主が生き延びるための唯一の鍵じゃ」


古厳の言葉が、地下室の冷たい空気に響く。それは、他者の命を奪って延命する、果てしない修羅の旅路の始まりを告げていた。

HẾT CHƯƠNG

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