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黒い革の防毒面と真鍮の乳鉢

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夜の闇と豪雨が、廃鉱山の不気味な影をいっそう深く塗りつぶしていた。入り口の木扉の隙間から流れ込む空気の中に、その匂いは確かに混ざっていた。


「……焦げた火薬、そして変異魔獣の骨に塗る防腐油の匂い。間違いない、風下に伏兵がいる」


 アキトは灰色のローブのフードを深く被り、濁った琥珀色の瞳を細めた。微細嗅覚分析が弾き出した答えは冷酷だった。待ち伏せているのは、密猟団「ゲヘナの牙」の冷酷な女性狙撃手、レイラ。彼女の魔導弓の射程に、この隠れ家の正面口は完全に収まっている。


 今の状況で正面から打って出るのは自殺行為だ。ミオの液化を一時的に固定するために自身の「呪血」を放出した代償として、アキトの左半身は氷を押し当てられたように完全に麻痺している。さらに、袖口に仕込んだ特注ニードルガンは、先の戦闘による過負荷でバネが摩耗し、ただの鉄くずと化していた。


「ルイ、私は裏の崩落した旧坑道から脱出する。お前はここに残り、ミオの容態を監視しろ。絶対に正面の扉を開けるな」


「で、でも、先生……! あいつらが踏み込んできたら……!」


「奴らの目的は私と調合窯だ。私がここにいないと分かれば、無駄な戦闘は避ける。いいから指示に従え」


 アキトは、ゲンゾウから託された煤けた「真鍮製の乳鉢」をしっかりと抱え、漆黒の蛇ゲイルを首元に這わせた。そのまま、隠れ家の奥にある崩落しかけた旧坑道の瓦礫の隙間へと、泥を這うようにして音もなく潜り込んだ。暗闇の迷宮を進み、狙撃手の監視網を完全にバイパスして、アキトはスラムの深部へと脱出した。


 彼が向かったのは、スラムの片隅で鉄くずの山に囲まれた古い鍛冶屋だった。煤と油の臭いが立ち込める作業場の中央で、巨大なハンマーを握り締めた大柄な老人が、炉の火光に照らされて立っていた。元帝国軍事工廠の魔導兵器職人であり、今はスラムの偏屈な鍛冶屋として知られるガイルだ。


「夜分にすまない、ガイル。頼みたいものがある」


 アキトは懐から、精密な魔導設計図が描かれた羊皮紙を取り出し、鉄の作業台に広げた。ガイルは不機味な笑みを浮かべ、火傷痕だらけの手でそれを引き寄せた。


「ふん、死神薬師が何の用だ。また妙な玩具の設計図を持ってきたな」


「毒沼の最深部『死灰の洞窟』へ潜る。大気中の酸性呪詛ガスに耐え、さらにその毒素をろ過して私の魔力へと変換する特殊な防毒面が必要だ。それと、このろ過機能付き蒸留器の微調整も頼みたい」


 ガイルは鼻で笑い、棚から一般的な軍用の防毒マスクを取り出した。そして、アキトが持参した毒沼の廃棄ヘドロのボトルから、一滴の液をマスクのフィルターに落とした。ジ、と激しい融解音が響き、革と金属のフィルターはわずか数秒でドロドロの泥へと溶け落ちた。


「見た通りだ。普通の防護装備じゃ、ゲヘナの酸性ガスに触れた瞬間、肺まで一気に焼き溶かされるぞ。お前の設計図通りに作るには、耐酸性の特殊真鍮と結晶魔石の極薄フィルターを組み合わせなきゃならん。手間がかかる」


「お前ならできるはずだ、ガイル。お前が求めている『面白い仕事』の報酬として、私の調合した特殊な金属硬化剤のレシピを渡そう。これを使えば、お前の鍛える刃の強度は倍加する」


 ガイルの目が、職人特有の狂気的な光を帯びた。「……取引成立だ。そこに座って待っていろ」


 ガイルは炉の温度を極限まで引き上げ、耐酸性黒真鍮を叩き始めた。火花が飛び散る中、アキトは作業台の端で、亡き父シンジが遺した「真鍮製の乳鉢」を取り出した。乳鉢の底に刻まれた極微細なルーン。アキトは自身の右手の指先から、微弱な無属性マナを静かに流し込んだ。ジワリと、真鍮の表面が青白い光を帯びて起動する。この乳鉢は、魔石や幻獣の骨が持つ魔力構造を破壊することなく、極微細な粉末に粉砕できる特殊な機能を持っている。父が遺したこの道具こそが、今後の過酷な調合を支える最大の武器になるはずだ。


 数時間の後、作業台の上に漆黒の異形が置かれた。黒い革で覆われたマスクに、耐酸性真鍮のフィルター缶が二つ突き出た、まるで猛獣の頭骨のような「吸魔の防毒マスク」だ。さらに、ガラス管が複雑に絡み合った「ろ過機能付き蒸留器」のガラスバルブも、ガイルの手によってミリ単位で補強されていた。アキトは徹夜の器具調整による極度の眼精疲労に耐えながら、完成した防毒面を顔に装着し、フィッティングを確かめた。完璧だった。マスク内部の結晶魔石が、アキトの「負の魔力回路」と同調し、静かに脈動を始めている。


 鍛冶屋を後にしたアキトは、スラムの暗い路地裏の影で、情報屋トウジの部下であるハチと接触した。アキトは懐から、マルコ商会との取引で得た数枚の「マナ結晶硬貨」を取り出し、ハチの泥だらけの手へと握らせた。これが、トウジへの多額の情報料だ。


「約束のものは?」


「へへ、旦那、トウジの頭から預かってきましたよ。衛兵長が泥酔している隙に型を取った特注品です」


 ハチが差し出したのは、真鍮製の無骨な「泥門のマスターキー」だった。オズワルドの街と、最悪の毒沼「マギ・ゲヘナ」を隔てる重厚な鉄格子「泥の門」を開けるための唯一の鍵だ。


 深夜。豪雨がさらに激しさを増す中、アキトは吸魔の防毒マスクを装着し、泥の門の前に立っていた。鉄格子の向こうには、不気味な蛍光緑の霧が立ち込める、死の沼地が広がっている。


 門の鍵穴を見つめると、衛兵が設置した簡易的な魔力アラームの結界ルーンが、微かに青く発光していた。アキトは痛覚の麻痺した左腕を伸ばし、鍵穴に直接、自身の微弱な無属性マナを流し込んだ。アラームの魔導回路をショートさせ、完全に無効化する。システムや万能な奇跡など存在しない。すべては緻密な薬理分析と、魔力構造の論理的なハッキングによる突破だ。


 カチャリ、と重厚な金属音が、雨音にかき消されるようにして響いた。アキトはマスターキーを回し、泥の門を静かに押し開けた。


 目の前に広がるのは、大気そのものが酸性呪詛ガスと化した、人類未踏の暗黒――「マギ・ゲヘナ毒沼」の深淵。アキトは一歩、その泥濘へと足を踏み入れた。しかし、その瞬間、防毒マスクのフィルター缶が、汚染されたマナを吸い込んで「シュウ……」と不気味な吸気音を立てた。そして、暗闇の霧の向こうから、冷酷な殺気がアキトの背筋を貫いた。

HẾT CHƯƠNG

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